File②
「不気味な目玉精子がウジャウジャ泳ぐ外の世界に比べたら、ここはまるで楽園だな」
「楽園なら、今度は誰かが禁断の果実を盗まないように見張りを立てなくてはなりませんね」
「それはいい。だったら不眠不休で監視するルドンをスタッフとして雇えたら嬉しいね」
「そんなことをしたらルドンに睨まれますよ。労働組合が作られてデモを起こされるかもしれません」
あの実験結果が出るまでは、こうした冗談をスタッフ間で言い合えるほどに【ビオトープ・命の揺籠】の中はリラックスした環境でした。レンズを通さなければ見えないとはいえ、人類は得体の知れない何かに四六時中監視されており、それを日常的に摂取していたと知ってしまったスタッフ達の精神的疲労は、およそ計り知れないものがあったのでしょう。スタッフ達は外界よりもビオトープ内への滞在を好むようになっていました。
閉鎖的な環境ではありましたが、ルドンの存在を知らされていない被験者にとってもビオトープ内は快適だったようです。
労働や競争と切り離され、豊かな自然の中で動植物と触れ合う日々。充実した娯楽と規則正しい生活リズム。そうした環境は、被験者らの人格を穏やかで社交的なものへと変えていきました。外界の過酷な競争社会から隔離された穏やかな人々の住む優しい世界は、楽園と呼んでも過言ではなかったでしょう。
自然と恋人を作る被験者も多かったのですが、ルドンの影響を一度も受けていない胎児の被検体を確保したかったプロジェクトチームの思惑もあって、恋愛や妊娠行為は推奨されました。時には必要以上の介入もありましたが、プライベート空間の提供を始めとする最大限のサポートを行い、1000日間で合計17件の妊娠を成功させたのです。
しかし、その全ては死産という衝撃的な結果に終わりました。
ルドンとの接触を断つと、なぜ胎児が死亡するのか?
この原因を特定するために、次はルドンとの接触が胎児に及ぼす影響の調査を行わなくてはなりません。しかしそのためには多くの父母と胎児が必要になることから、道徳的な問題が発生してしまいます。
さらには、私達が次なる実験を行うか否かの議論を進めている最中に、世界樹教会から次のような警告文が届きました。
『研究を放棄せよ。【ルドン】とは【VOZ】である。種子であり花である。禁域に咲く冒涜である。禁忌を見てはならない。禁忌に手を伸ばしてはならない。人類は二度と過ちを犯してはならない』
この警告は、プロジェクトチームに大きな混乱をもたらしました。禁域が不可視の領域を指すであろうことは察しがつきますが、それ以外の文に関しては謎が深まるばかりです。
種子であり花であるとは? 何を持ってルドンを禁忌とするのか? 【VOZ】とは? 人類が以前に犯した過ちとは? なぜ世界樹教会は研究の中止を求めるのか? 極秘に行われているルドンの研究を、彼らはどのような手段で把握したのか?
疑問は尽きません。それだけでなく、研究機関ではない宗教組織が私達の研究に先駆けてルドンの存在を認知していたと思わしき文面は、到底受け入れ難いものでした。私達が莫大な費用と労力をかけて進めてきたこの研究は、いわゆる車輪の再発明に過ぎなかったのでしょうか。研究の中止を求めるならば、せめてその理由と正当性を説明してほしいと世界樹教会に協力を打診しましたが、世界樹教会は強硬な姿勢で研究の中止を要請するばかりで、警告文以上の情報提供は得られませんでした。
それでも研究を中止するわけにはいきません。天動説に対する地動説のように、宗教的理由によって真実が隠蔽された例は歴史上に数多くあります。人類に過ちがあるとすれば、真実から目を背けて文明の発展を遅らせる行為こそがその罪ではないでしょうか。世界樹教会がルドンの研究を中止したのならば、私達はその先に進み、謎に満ちたルドンの実態を解明する義務があります。
以上の結論をもって、私達はルドンの研究を続行しました。次なる実験は、先に行った隔離実験にてルドンとの接触を1000日間絶っている被験体を再利用して行う、ルドンとの接触実験です。そのために、まずは被験者を以下の5グループに編成しました。
Aグループ:男女ともにルドンとの接触を完全に絶った被検者ペア。
Bグループ:男女ともにルドンを経口摂取せず、物理接触のみ行った被検者ペア。
Cグループ:女性のみルドンを経口摂取し、男性はルドンとの接触を絶った被検者ペア。
Dグループ:男性のみルドンを経口摂取し、女性はルドンとの接触を絶った被検者ペア。
Eグループ:男女共にルドンを経口摂取した被検者ペア。
備考:人間が1日の食事で摂取するルドンの平均量は約300体です。
このように被験者間で男女の生殖用ペアを作り、ルドンの経口摂取があるグループでは摂取量に差を設けることによって、両親を通してルドンが胎児へ及ぼす影響を調査しました。以下にその結果を記載します。
《ルドン接触実験結果》
Aグループ結果:全ての胎児が死産となりました。
Bグループ結果:全ての胎児が死産となりました。
Cグループ結果:母体が少量のルドンのみ摂取した胎児の死産率が極めて高く、ルドン摂取量の増加に伴って死産率は低下しました。
Dグループ結果:全ての胎児が死産となりました。
Eグループ結果:母体が少量のルドンのみ摂取した胎児の死産率が極めて高く、ルドン摂取量の増加に伴って死産率は低下しました。
備考1:妊娠中にルドンを経口摂取した母体の排泄物からルドンの揮発現象は確認できませんでした。出産後は妊娠以前と同様に母体の排泄物から揮発現象が確認できました。
備考2:妊娠過程において、成長中の胎児に異常は確認できませんでした。出産直前まで胎児の生命活動は確認できています。
備考3:自然分娩と帝王切開における結果に差異は見られませんでした。
備考4:帝王切開の結果から、胎児は羊水から出したタイミングで死亡することが判明しました。そのため、実験結果では死亡ではなく死産と表現しています。
備考5:羊水からはルドンの揮発現象を確認できませんでした。
以上の実験結果から、ルドンは経口摂取によって母体から胎児へと供給されていると考えられます。
しかしルドンは酸素や栄養素とは異なり、胎児の健康状態に影響を及ぼしません。ルドンが影響を及ぼすのは受胎でも胎児の成長でもなく、胎児の出産に限定されるのです。まるで神話に登場する架空の女神【エイレイテュイア】のように。
直前まで生きていた胎児が母親の胎内から取り出された途端に死亡するメカニズムは何か。なぜ人間にのみルドンは影響を与えるのか。そうした疑問に対して、いくつもの仮説と憶測がプロジェクトチーム内で飛び交いました。
そうした現場の混乱か、世界樹教会の圧力か……あるいは胎児を実験動物として使い捨てる非人道的な研究内容が問題だったのか、やがて上層部は研究中止の意向を固めました。しかしここで研究を止めるわけにはいきません。私達は上層部の警告を無視してさらなる研究に没頭していきました。
今にして思えば、私達は不安だったのだと思います。父と母から与えられたと信じていた自分の身体に、命に、人生に、正体不明の『何か』が混ざり込んでいる。そして今もなおその異物に人類は監視され続けている……。そうした現状は、私達科学者にとって耐え難い苦痛でした。
事実を事実として受け入れるのが科学者の矜持ですが、『人類を監視するよく分からない何かを人類は毎日食べていて、それを食べなければ何故か赤子は産まれてこれない』といった曖昧な結論はとても受け入れられません。ルドンが栄養素ならそれで良いし、寄生生物ならばそれでも良いのです。ルドンの解明は、もはや私達にとって人生を賭けるに値する研究テーマとなりました。
そして私達は、世界樹教会の言う【VOZ】を指すと思わしき資料にようやく辿り着きました。
まさか学術論文ではなくオカルト分野の書籍、それもすでに廃刊となった古い雑誌に存在が記されているとは盲点でした。残念ながら書籍の内容を保証する一次資料は手に入りませんでしたが、その中で語られている性質にはルドンとの共通点が見られ、発音は【VOZ】と読み取れるものでした。以下にその内容を転写します。
《命のヒミツ!? ボゼの謎を追え!》
読者諸君らは【ボゼ】という怪異をご存知だろうか。聞き覚えがなくとも、目にしたことはあるかもしれない。写真に映る小さな光球、俗にオーブと呼ばれる怪現象の正体が何を隠そうこのボゼなのである。伝承では妊婦のみが見ることができると伝えられていたこの怪異は、現代では写真を通して我々も見ることができるようだ。
では本題に入ろう。ボゼ、あるいはホゼとも呼ばれるこの怪異は、世界各地で目撃されるフェアリーの一種である。大きさはコインほどで、光球の姿の他には白いオタマジャクシや赤ちゃんの姿をしていたとの目撃情報も寄せられている。そしてなんとこのボゼが妊婦のお腹の中に入ることによって、人間の魂の元になるというのだ。私や君の魂もボゼから作られているのならば、魂の生まれ変わりや輪廻転生は存在しないことになるので驚きである。
ちょっと大げさに描かれてはいるが、とあるコミックではこのボゼが次々と人々のお腹の中に入って妊娠させるシーンが描かれている。さらにはボゼ喰いというフェアリーも描かれているのだが……残念ながらボゼ喰いに関する情報はこのコミック以外に見つけられなかった。おそらくは作者の創作だろう。
ボゼが本当に人間の魂の元かどうかはさておき、出会えば子宝に恵まれるのは間違いなさそうだ。もし君の周りで子供ができなくて悩んでいる女の人がいたら、ボゼのことを教えてあげるといいかもしれないぞ。
そうそう、魂といえば世界三代宗教とも呼ばれる有名な宗教の開祖は、輪廻転生を否定してこの世界から魂を逃したと言われている。そしてその宗教において、開祖と志を同じくし輪廻転生からの脱却を目指して厳しい修行に挑む高位の僧を【坊主】と呼ぶそうだ。頭髪を剃って丸みを目立たせた頭部。そして魂の生まれ変わりを否定する彼らの姿は、ボゼに似ていないだろうか。いったいこれは何を意味するのだろうか。
編集部はこれからも生命の謎や世界の神秘を追い続ける。さらなる続報を待て!
以上です。
これが【VOZ】に関して入手できた最初で最後の資料となりました。
無念です。ただひたすらに無念です。
この資料を入手して数日も経たないうちにビオトープ内ではあらゆる通信手段が途絶し、外部電源が断たれ、外界へ通じる全ての出入り口が強制閉鎖されました。おそらくは研究の廃棄が執行されたのでしょう。
私達は、命の揺籠の中に閉じ込められました。
研究を続行します。