第1話。悪夢の始まり
あの町から帰ってきた者はいない。
ある日を境に赤い霧に覆われた辺境の町ジェルジェ。
数知れぬ行方不明者を飲み込んだ異変解決のために、聖骸教会は呪われた地に騎士の小隊を派遣した。
その先に騎士たちが出会った者は、狂気の7日間を繰り返す町でただ一人記憶と人間性を保ち続ける過去の無い美女、ユカリ。
彼らはすぐに思い知らされることになる。身も心も狂っていく悪夢の世界では人の力など虫にも等しく、死の安らぎさえも許されないことを。
救いは何処。生とは。死とは。人はなぜ生まれ、なぜ生きるのか。死の無い地獄に生きる価値を問う叫び声が響く時、世界樹の花は咲く。
私は何のために生まれてきたのだろう。
私は囚人だった。
この小さな町だけが私に許された世界の全てだった。この牢獄からどこにも行けず、何かを生み出すこともできない。無意味に時間を浪費して延々と毎週同じことを繰り返すことだけが私の人生だった。
私は孤独だった。
愛なんて知らないし、親も家族も私にはいなかった。私に与えられたものは苦痛や恐怖や絶望といったものばかりで、人生の喜びなんてどこにもない。そんなものを与えてくれる人は誰もいなかった。
私は死人だった。
脳も心臓も動いているだけで、本当の意味で生きてはいない。いっそ本当に死にたいと何度願っただろう。
けれどもこの地獄では死の安らぎさえも許されない。私の懇願をあざ笑うかのように、目に見えない何かの力が決して私を死なせてくれなかった。
私は普通の人生が羨ましかった。
普通の家族。普通の恋人。普通の友人。普通の子供時代。普通の青春。普通の過去。普通の未来。普通の生活。そのどれもこれもが私には手に入らない特別な宝物で、当たり前のように持っている人が妬ましくて仕方がなかった。
私には諦めることしかできなかった。
どうせ何をやっても無駄で、努力は決して報われない。私の人生に救いなんてどこにも無いのだから、半端に希望を持っていても辛いだけだった。
人生はとても素晴らしいもので、たくさんの喜びに満ちているなんて言葉は、満たされている幸運な者の傲慢としか思えなかった。
私は狂っているのだろうか。
きっと世間的には見れば私はおかしいのだろう。哀れなのだろう。ひねくれているのだろう。
けれども私は、こんな世界に私を産み落とした親の方が、私なんかよりも遥かに狂っていると思う。
……目を、覚ましてしまった。
この微睡みだけが、唯一の安らぎなのに。
まぶたを開けば、見慣れた部屋の黄ばんだ天井が見える。使い古したカーテンの隙間から漏れる朝日が、無慈悲な7日間の始まりを告げた。
前回も酷い目にあった。
何度繰り返しても、痛みに慣れることなんてない。どうして人の脳はあれほどの痛みを感じる必要があるのだろう。いっそのこと、他の人たちのように狂ってしまいたい。
そろそろ体を起こさないと。
いつまでもベッドの上でふて腐れているわけにもいかない。どんなに外が怖くても、もしかしたら今度こそ、この無限の繰り返しから私を連れ出してくれる人が来るかもしれないのだから。
一歩外に出て息を吸うと、生臭い匂いが鼻から肺の奥に侵入してきた。ベタつく潮風と魚の臓物の匂い。この町の陰湿な空気が私は大嫌いだ。
この呪われた空気が私の肺から体中に染み込んでいく様子を考えただけで、吐き気に襲われそうになる。
町は今日も陰鬱な曇り空に覆われている。明日は雨が降って、4日目からは血の雨が降る。7日目だけはまちまちだ。
「おはようお姉さん!朝から早いね!」
「おはようございます」
一番最初に私に話しかけてくるのは、毎回決まって道向かいの肉屋さん。名前はなんだっただろうか。知っているはずだけど、興味がないので忘れてしまった。愛想笑いだって本当はしたくないくらいだ。
私はもう、何十回もこのおじさんから陵辱を受けた。◾️◾️◾️を開かれて、豚や牛の肉と一緒に並べられた時の屈辱は絶対に忘れない。
「あら〜、おはようございます〜。ほら、坊やも挨拶しましょうね〜」
「おはようございます。可愛い赤ちゃんですね」
次は主婦と赤ちゃんに挨拶を返したけれど、この二人も苦手。赤ちゃんと◾️◾️◾️を交換されて◾️◾️◾️られた自分の姿を見せ付けられた時は、あまりの惨めさに涙が止まらなかった。
誰でもいい、お願いだから、私をここから出して。
この狂った世界から、私を出してください。
大通りに出て、町の入り口を目指す。赤レンガ造りの家々もワラワラ出歩く人々も疎ましい。3日目には誰も彼もが本性を剥き出しにして暴れるくせに。
外からこの町に人が来る時は、必ず1日目の朝から入ってくる。この町の入り口は街道と港の二ヶ所しかないが、港にはもうずっと新しい船が来ていないので見に行く必要があるのは街道の方だけだ。
町への入り口はあるくせに出口は無いのは、あまりにも理不尽だと思う。
もしかしたら、もしかしたら今度こそ私を外に出してくれる人が来るかもしれない。
もう何度も踏みにじられた淡い期待を抱えて、私は歩き慣れた大通りを進んで街道を目指す。
するといつものように、喧騒が聞こえてきた。今日も繰り返しこの町を訪れ続けている人々の喧騒。この海沿いの田舎町に来た人も、そろそろ100人に近いかもしれない。
「どけどけ、道を開けろ! 轢き殺されたいのか!」
「なんだってこんなに混んでるんだ!? こんな人数、どこから湧いてきたんだ!?」
「おいおいおい! おかしいぞこの町! こんな朝から祭りでもあるのか!?」
みんなこの町に来るのは初めてという顔をしているけれど、本当は忘れているだけだ。
本当はあなたたちは、ずっとこの町にいる。何度も何度もこの町を訪れた場面を繰り返している。
全員、私からそのことを聞いていて……忘れている。
行商人、輸送業者、旅行者、冒険者、聖職者、町の外から帰ってきた人、吠え続ける犬、その他いろいろの大混雑。
いつものように彼らの間をすり抜けて、この町を囲む赤い霧を抜けてきてしまった人たちの中に新しい顔がないかと物色する。
…あ、あの馬に乗っている甲冑姿の男性5人組は初めて見る。
「ゴート卿! ゴート卿の姿が見えぬ! つい今しがたまで隣にいたのに! き、消えて、消えて……!」
「落ち着かれよバリス卿。少しはぐれただけではありませぬか。そう取り乱されては聖骸騎士の沽券に関わりますぞ。ゴート卿は昨晩の見張りで疲れていた様子でしたから、うたた寝をして落馬でもしてしまったのでしょう」
「し、しかしキュリオ卿! 落馬したのなら声の一つもあるはず! そ、それが突然なんの前触れもなく……!」
「ふん、大方臆病風に吹かれたのであろう」
「わざわざ馬だけを置いて逃げる理由がありますまい。ビステル卿、そのような物言いは良からぬ軋轢を生みますぞ。」
「それが何か?」
「まあまあ、皆さん落ち着いてください。ゴート卿の安否は気になりますが、口論しても仕方ないですよ。霧が晴れたら私が探しに行きますから、先に調査を進めておきましょう」
「この霧が晴れたら、か」
彼らは沈黙し、背後の赤い霧を振り返った。
この港町を覆い、一度飲み込んだ獲物は決して逃さない呪いの霧。海原のようにうねり蜘蛛の巣のように絡みつく悪魔の霧。
逃げたのか落ちたのかはわからないけれど、この町に入らずにすんだ人がいるのなら羨ましい。
話と身なりから察するに、彼らは騎士のようだ。名前なんて覚えるだけ無駄だけど、一応誰が誰なのかは把握しておこう。
大きな声を出して怯えている騎士はバリス卿。5人の中で1番体格が大きいが、おどおどしていて頼りない印象が強い。
それをなだめていた口髭の騎士はキュリオ卿。この人が一番の年長者に見える。年齢は30歳後半くらいだろうか。口髭がなければもっと若く見えるかもしれない。
髪の毛を後ろに撫で付けている喧嘩腰の人はビステル卿。不機嫌さを隠そうともせず、常に噛み付く相手を探しているタイプの人に見える。あまり近寄りたくない人だ。
仲裁をしていた金髪の若い騎士は、なんというかすごく整った顔立ちをしている。体の線も細く、後ろで束ねている長めの髪の毛をほどけば女性にも見えるかもしれない。
すごく優しそうな笑顔をニコニコと浮かべていて、私はつい見入ってしまいそうになった。彼の名前は呼ばれなかったのでわからない。
あと一人、一言も喋らなかった羽帽子の騎士がいた。帽子を深めに被っているために顔が影になって、目元は全く見えない。横一文字に結ばれた口元には皺があった。彼の名前もまだわからない。
騎士様がこの町に来るのは初めてだった。もしかして、やっと外の人たちがこの町の異常に気づいてくれたのかもしれない。
でも期待し過ぎてはいけない。きっと後で辛くなるから。
さあ、いつものようにお願いしなくては。
膝をついて両手を合わせてまっすぐ見上げながら、お客さまにいつものお願い。
もう何百回も頼み込んで、何百回も断られて、何百回も馬鹿にされて、何百回も心配されて、何百回も裏切られて、何百回も繰り返した、いつものお願い。
「お願いします。お願いします。どうか私を助けてください。この狂った7日間を繰り返す悪夢の世界から、どうか私を出してください。お願いします。私はユカリ・クレマチス。この町で唯一記憶を保ち続けている哀れな女です」
オマケの話です。
ホラー漫画やホラー映画を観ている時に出会う「どうすんだよこれマジで…」と言いたくなるような絶望的な展開が好きです。
脳みそを求めて走ってくる不死身のゾンビや、自分と同期した顔を持つ殺意に満ちた気球。そういった超常の存在に襲われる主人公たちを見ながら、解決策を一緒に考えるのが好きです。
そこで私も問題を作ってみることにしました。
どんな攻撃も効かない無敵の英雄の次は、狂気の一週間を繰り返す地獄の町です。「どうすんだよこれマジで…」感を出せるように努力してみましたので、登場人物たちと一緒に解決策を考えてくれれば幸いです。
もちろん全滅エンドにはしません。私が思い付ける限りの明確な解決策を用意しています。出題編と解答編を区切っていますので、自力で解決策に辿り着けた方や私より素晴らしい解決策を思い付ける天才に会えることを楽しみにしています。全30話です。