第29話。「眠れ。人を愛してしまった機械兵器よ」
二人の体勢は入れ替わっていた。
アイは仰向けで花畑に倒れ、クレアは逆手に突き立てた刃に体重を乗せ、アイに覆い被さる形で彼女の胸に致命の剣先を押し込んでいた。それは彼女の心臓部を完全に貫いており、機能を停止させるに十分過ぎる致命傷を与えている。
見上げるアイと見下ろすクレアの視線が交差する。クレアの顔は彼女の髪で隠れており、彼女が今どのような表情をしているのかはアイにしか分からない。二人は何も言わず、しばらくそのままお互いを見つめていた。
そのうち、アイの目にポタリと水滴が落ちた。
アイがあれほど望み焦がれた涙。彼女が涙を流せなくても、共に泣いてくれる者はここに居た。
「なぜ、泣いているのですか」
アイはクレアに率直な疑問を投げ掛けた。
「私は悪党だぞ……泣くわけなんて、ないだろう……。雨でも、降ってるんじゃないか……」
そう言いつつも、アイの瞳に再度の水滴が垂れる。
子供騙しにすらならない、あまりにも下手な嘘だった。
「ダグラスは……まだ側にいるか?」
「いえ……」
アイは少しだけ微笑んだ。
「『また後でジョーを連れて迎えに来るから、その間にそこのお人好しに謝っておけ』とのご命令です……」
アイが全機能を停止するまで残り数分。彼女はダグラスから受けた最後の命令を実行する。
「ど、どうかお許しください……クレア、さん……。私は、機械のくせに、心を持たないくせに、冷静さを、失って、いました」
クレアは唇を噛み締め、鼻を啜り上げた後に答える。
「いや許すよ、許すけどさぁ……! そもそもお前らが死ぬ原因を作ったのは私だって言ってるだろ……! さっきみたいにもっと私を恨めよ! このバカ夫婦……!」
「お許しを、くださり、ありがとう、ございます……」
「頼むから礼なんて言うなよ……!」
「お、思えば、滑稽な、話でした。機械である私に、魂があるはずが、ないのに。ただの道具が、人間と同じ、地獄へ行きたがるなんて、愚かな、願い、でした……」
「愚かなんかじゃない!」
クレアは断言した。
「機械や道具にも魂はある……!」
かつてクレアには、独善的な正義感を振り回した事を激しく後悔した時期があった。これは当時の彼女が、自分は何を壊したのかを知ろうとした折に学んだ知識である。
「神は唯一無二の存在ではなく、この世に存在するあまねく全てにそれぞれの神が居る! 空には空の神、海には海の神、土には土の神が居るんだ……! そして、ただの土に命を与えられる土の神が実在したんだから、機械の魂を司る機械の神だって居る……! 絶対に居るんだッ……!」
アニミズム。
クレアが熱を込めて断言したそれは、万物に神と霊魂が宿ると信じ、崇拝する宗教。かつてアイが貸し出されイノセントが滅ぼした魔術組織【忘れられた神の祭壇】が掲げていた信仰だった。
「機械の、神……。それは、演劇用語ではなく、そのままの意味でしょうか……。しかしそれは、唯一神を信仰する、教会の教えとは、異なるのでは……?」
「ああ、その通りだ。これは異教の教えだから、それを信じる私は異教徒だ。だから……」
クレアはようやく動くようになった左手を動かして、半壊したヘルムを邪魔そうに脱いだ。そしてヘルムに描かれている十字架をわざとらしくアイに見せつけてから、それを丘の下へと投げ捨てた。
「……だから異教徒の私に殺されたお前ら夫婦は、地獄へなんて行けないぞ。神の敵と勇敢に戦って死んだのだから、強制的に天国行きだ……。残念だったな」
悪役を引き受けてあげること。
それが命を救ってくれた相手にクレアができる、唯一の恩返しであり……彼らを殺してしまった罪に対する、せめてもの償いだった。……他にもう何も思い付かなかった。
「それは、詭弁です。教会を信じるのか、異教を信じるのか……矛盾していません、か」
「そんなの……アレだ。両方の都合が良い部分だけ信じればいいだろ……。それにどっちの神も文句を言いに来ないんだから、私の言い分を許してるってことだ。宗教は神の為ではなく、人間の為にあるんだからな……」
「それも詭弁です……詭弁ですが、いい考え方ですね……。なら私も、機械の神を、信じることに……します」
アイは両手を合わせて感謝の祈りを捧げようとしたが、死にゆく体にはもはや腕を動かせるだけの動力は残っていなかった。
「私を、ダグラス様と巡り合わせてくれた、あなたと……私を、ダグラス様と再会させてくれた……悲劇が嫌いな、機械仕掛けの神……デウス・エクス・マキナに、深い、感謝を……捧げ、ます」
世界はとても静かだった。
アイの内側から鳴り続けていた全ての異音が消えた。ノイズの雑音も虫の声も風の音も、もう何も耳に入らない。
「クレア、さん……。敵まで、救おうと、するなんて……しばらく、見ないうちに、他者の、救い方が、上手になりましたね……。あの頃より、ずっと……ずっと……」
「……どうだかな」
別れの時間が来た。
アイの目から光が消え、僅かに残っていた予備動力も尽きていく。
だがまだ死ねない。まだ心残りがある。
どうかあと一分だけ待ってください。
アイは機械の神に少しばかりの猶予を願った。
「さ、最後に、一つだけ、お願いが、あります」
「……今の私は冒険者だ。お願いではなく仕事の依頼なら、報酬次第で何でも引き受けてやる」
「私が、間違っても、再起動され、ダグラス様と、引き離されないように、私の頭部を、完全に、破壊して、ください。そして、私と、ダグラス様を、どうか、どうか、人目につかない場所の、同じお墓に……」
「分かった、引き受けよう。絶対に墓を暴かれない場所があるんだ。別の国だが、妙に人懐っこい人狼たちが住む秘境の山奥だぞ。そこに二人の墓を作ろう。何ならジョーの骨も探して一緒に埋めてやる。ただし、報酬はしっかり頂くからな」
「報酬は……愛、以外なら……何、でも……」
「……絶対言うと思ったよ。じゃあ適当に貰っていくぞ」
「ありがとう、ございます……これで、心置きなく、ダグラス様と……ジョー様と、再び一緒に……暮らせます……」
「…………うん」
アイの声は、今や耳を澄まさねば聞こえないほど小さくなっていた。クレアはもっと何かを言ってあげたかったが、どれだけ心の内を探っても、気の利いた言葉一つ出てこない。
「お、お待たせしました……ダグラス様……。これから、また三名で、掃除や、洗濯や、散歩をして…………ああ、た、魂なら、私も、一緒に食事が可能でしょうか……? あ、味さえ、理解できれば、きっと、料理も、上達、しますから……。それに、これから……もっともっと……覚えないと、いけない……ことが……たくさん………………」
アイの目に溜まった水滴が、ひとすじの涙となって零れ落ちた。その頬を伝う最後の輝きが、夜空の流れ星のように儚く消えていく。
クレアが次の言葉をどれだけ待っても、もうアイが二度と口を開く事は無かった。
世界で最も人をアイした機械は、ここにその生涯を終えた。
「ああ……しまった……」
もう動かなくなったアイを看取っていたクレアが、ポツリと後悔を漏らした。
「私を二度も助けてくれたダグラスにありがとうを伝えてくれって、言えばよかった……。私は、いつもこうだ……」
クレアはアイの上から体をどかし、彼女の手を胸の上で組ませてあげようとした。しかし硬直した彼女の関節はクレアの思い通りには曲がらず、下手に力を込めると彼女をさらに壊してしまいそうだったので断念した。
「死んだ人間にも助けられたくせに、誰も私を助けてくれないと嘆くなんて、私はどこまで甘ったれなんだろうな……。それに、命を救われたんだから……こっちが報酬を払いたいくらいだよ……」
クレアは次に、遺体の顔にかけてあげられそうな布切れを探した。しかし自分の手元には無く、アイもまたボロボロになった喪服以外には何も持っていない。
「私は、こうも色んな人に助けられて……のうのうと生き延びてるくせに……」
ならば聖書の一節でも唱えてあげようかと思ったが、ダグラスの聖書は戦闘に巻き込まれて失ってしまったし、死者の弔いに相応しい一節などクレアは憶えていなかった。
「何で私は……こんなに無能なんだよ……!」
クレアはアイの隣で力なく座り込み、顔を伏せて鼻を啜った。悔しげに歯を食い縛り、垂れた前髪は彼女の目元を隠す。
「全然駄目だったじゃないか……! 私の立てた作戦なんて、穴だらけで、失敗ばかりで! ダグラスもアイさんもエメスも全員死なせてしまった……!」
孤独な勝利者は目元を何度も拭った。
「もっと……上手いやり方があったはずなんだ……! 全員を救えるような、最善の方法が……! 私のようなどうしようもない極悪人さえ救った先生達なら、きっと……きっと……!」
体をわなわなと震わせて、あらん限りの力を両拳に込める。声を上げて泣きたくなる衝動を、クレアはそうやって懸命に噛み殺した。さらに何度も深呼吸を繰り返して、揺れ始めた感情を無理やり抑え込む。
「……でも、私はもう、子供じゃないんだ……。いつまでも泣き言を垂れ流してないで……やるべき事を、やらないといけないんだ……」
溢れかけた感情を胸の内に押し隠し、彼女は立ち上がった。「彼らの墓をここに残せば暴かれるな……。エメスも含めると四名分だ。泣いてる暇なんて無いぞ……」そして涙の跡を念入りに拭う。
「頑張れ私……頑張れ、私……」
クレアはさらに何度か深呼吸をして息を整え、頬をパンパンと叩いて気持ちを切り替える努力をした。「ふぅ……よし」そして彼女は立ち上がり、やるべき事に取り掛かる。
「本物の正義の味方は、賞賛や感謝なんて求めない。神に背いても悪名を背負ってもどれだけ無能でも、ただ自分に出来る最善を…………尽くすんだ」
普段の彼女ならば正義の味方など子供の妄想だと一蹴し、口が裂けても決して自称しないだろう。
本人が気付けないだけで、誰にも弱さを見せられない彼女は、心身共に弱りきっていた。
魔女狩り部隊の捕虜と村人たちを連れたミサキと、谷底から這い上がってきたハスキが、クレアと合流できた時にはすっかり夜明けも近くなっていた。
クレアが組合から受けた依頼は解決したが、やらねばならない事後処理はまだまだ残っている。
魔女狩り部隊には戦果を譲り、手土産を持たせて手打ちにする交渉をしなくてはならない。その上でアイやダグラスの遺体をどう持ち去って弔うかという問題もある。可能ならホルローグに彼らの慰霊碑なども置いてやりたい。
だがそれらの問題に手をつける前に、まずはこの場の全員に状況を共有する為の勝利宣言をしなくてはならない。
クレアは名実ともに、ホルローグにおける全ての敵を倒した勝利者である。彼女は全員を並べ、極めて威圧的な態度で場の主導権を握った。
そして誰が生殺与奪を握る支配者であるのかを、その場の全員に骨の髄まで叩き込もうとしたまさにその時、集められた村人の中から一人の少女が歩み出てきた。
その十歳前後の少女はクレアの凶悪な眼光に怯えを見せつつも、花畑から摘んだ白い花をクレアに差し出し、ぎこちなくも精一杯の笑顔でこう言った。
「みんなを助けてくれて、ありがとう……」
その一言でクレアの虚勢は剥がれた。
彼女は腕で目元を隠して膝から崩れ落ち、歯を食いしばり肩を震わせて嗚咽を堪えるばかりで、落ち着くまでしばらくの間、勝利宣言どころかまともに言葉を発する事もできなくなってしまった。
英雄が来なかった世界の片隅で、仮初の命でも生きていたいと願った者たちが生んだ因果の事件は、こうして静かに幕を引いていくのであった。
最終話の前に、失われてしまった16話を挟みます。




