第27話。アイを叫ぶ
「diviega」
超音速で飛翔した矢の先端には、それまで隠されていた文字列が青く浮かび上がっていた。矢は最前列の兵へと狙い違わず着弾し、術式によって圧縮封印されていた爆薬が起爆する。
しかしその爆発のエネルギーは『diviega』の文字列が瞬間的に吸収。さらに文字列が矢尻から抜け出すように剥がれ、標的へと貼り付き刻印する。表面のみならず、目標内部へと文字列は深く深く浸透する。
そして一秒後、文字列が吸収していたエネルギーを標的深部で解放。物理・魔術を問わずに対象の防御能力を無効化して内部から爆破する。
これが『豪弓』の基本原理であった。
「……ロケット弾の着弾を確認」
吹き荒れる爆風を兵の肉盾で防いだアイは、そう評した。
いや、そう評するしかなかった。九年前にもアイの開発された時代にも存在しなかった技術系統に基づく未知の兵器である。
アイは知らない。エメスが魔女狩り部隊との交戦において、特殊武器の剥ぎ取りを優先して行っていた事実を。それが何処に集められ、誰の手に渡っていたのかを。
そして誰がエメスにそれを命じたのかを。
「前進開始」
警戒しなくてはならない。
アイは一網打尽にされないよう列の間隔を空けつつ、爆煙に兵を隠して距離を詰める判断を選んだ。盾を構えた兵列が騎士へと前進する。
「diviega」
そして爆煙が晴れる前に第二射が放たれた。しかし視界不良の為か正確に敵の急所を射抜く事は出来ず、矢は兵の盾に阻まれる。
それでも兵は体内から爆発した。盾であろうとバリアーであようと、豪弓を防ぐことは不可能である。
「計算完了。前列四体直進。別働隊二体迂回」
アイの計算が完了した。
射撃間隔と兵の最大進軍速度から算出して、最速でも二回。それがあの騎士が豪弓を放てる限度である。警戒すべきはさらなる未知の兵器による広範囲攻撃で一掃される事態だけだ。
「diviega」
騎士の第三射が一体を射抜き、爆炎と血肉の花を咲かせた。そして一体の犠牲と引き換えに、三体の兵が騎士までの距離を詰める。アイの赤い光を灯すカメラが、計算通りの戦闘を観察していた。
しかし第四射は放たれなかった。
騎士は弓を素早く矢筒に引っ掛けると、地面に突き刺していた右手側の馬上槍をズボリと引き抜いた。その間にも兵が迫る。兵の眼光が赤い軌跡を描き、騎士との距離が縮まる。ワイヤーの射程圏内に騎士が入るまで残り数歩。
騎士が向けた槍の穂先が先頭の兵を捉えた。騎士が力強く足を踏み込み、地面に蜘蛛の巣状の亀裂が走る。そして構えた槍を前方へと突き出した。大気が震える。
「diviega」
そして『豪槍』が発動した。
円錐形の槍をグルグルと取り囲むように『diviega』の青い文字列が幾層にも出現。続いて文字列の最下層から、米粒以下のサイズまで圧縮封印されていた大量の槍が射出される。それらは文字列の層を通る度に『加速』『高速回転』『貫通力強化』『軽量化解除』『圧縮解除』といった効果を付与されて一斉に放たれた。
その数、実に256本。
崖道を塞ぎ押し寄せる豪槍から逃れるすべは無く、三体の兵は鉄槍の土石流に飲み込まれた。無惨にも彼らはドリルの如き高速回転する無数の鉄槍に甲冑ごと全身を貫かれ、肉も骨も粉々に粉砕されていく。
仮に全員で騎士に殺到していれば、今頃は一人残らず豪槍に貫かれて容易く全滅していただろう。
だが豪槍は瞬間的な破壊力と貫通力こそ優れているものの、射程が乏しい。アイ率いる本隊には遠く届かず、騎士の手元から約10mを進んだ後は全ての術式が効力を使い切った。射出された槍は物理法則を超えた強化の反動によって割れ砕け、推進力を失った大量の鉄屑が撒き散らされる。崖道から溢れた残骸が谷底へガラガラと落ちていく。
「目標地点へ到達」
騎士が頭上の敵影に気付いた。二体の兵が手足の先から飛び出したスパイクを用いて、限りなく垂直に近い断崖へイモリのように張り付いていた。彼らは騎士のほぼ真上から鋭い爪先を騎士へと向ける。騎士は白煙を吹く豪槍を谷に放り捨てて腰の剣に手をかけた。
「攻撃開始」
兵が騎士めがけて飛び降りると同時に、指先からワイヤーが射出された。弾頭に当たる指先はホーミング機能を搭載しており、狙った獲物を確実に捉えて致命的な高圧電流を流す。有効射程距離は3m。弾速は銃弾には遠く及ばないが、対生物には十分に有効な兵装だった。
スゥ……。
騎士が小さく息を吸い、剣を抜いた。呼吸を止め、両手で剣を握り、体を捻って大きく後方に振りかぶる。目を細めるように騎士のヘルムに灯る緑色の光が消灯していく。
風を切る唸り声を上げてワイヤーが迫る。しかし騎士はまだ剣を振らない。ワイヤー到達まで残り2m。まだ振らない。残り1m30㎝。まだ振らない。残り1m。まだ、まだ、まだ振らない。残り50㎝。ヘルムの奥で緑色の光が強く輝いた。「divi……」刀身に刻まれた文字列が呼応する。騎士の闘志が宿るが如く、その剣に蒼き炎が燃ゆる。さらに無数の文字列が騎士を守るように全身に浮かび上がった。残り10㎝。
そして騎士は剣を振り抜いた。
「……ega!」
その一振りから放たれた閃光が、二兵の全てを焼き尽くした。ワイヤーもパワードスーツも人体も圧倒的な熱量の前に等しく消し炭へと変わる。
アイの解析による推定温度は、一瞬だけ出現した光の大剣から太陽の表面温度と同等の熱量を測定した。
持続1秒、射程3m、振れて一振り、一撃必殺の光を放つ剣。かつて猛威を振るった一人の魔法使いの能力を人工的に再現すべく作られた武器が、この『豪剣』だった。
豪剣の放射熱によって、崖道に生えていた雑草が一斉に燃えた。炎が彩る細道に騎士が佇む。豪剣の使用者を熱波から保護していた身体中の文字列が消え、役目を果たした豪剣が砂と崩れて消えていく。ヘルムの奥に光る二対のカメラがアイを睨み付けた。
「敵戦闘データ、分析完了」
騎士はアイの想定外の武装を所持していたが、すでにデータの収集は終わった。敵の特殊兵装はどれも火力だけは驚異的だが、射程距離と攻撃間隔にそれぞれ欠点がある。
何故あの一人だけが魔女狩り部隊の特殊兵装を独占しているのかという疑問は残ったが……今となっては大した問題ではないだろうとアイは結論付けた。
「包囲開始」
そしてアイは冷静に戦術を決定した。
敵が魔女狩り部隊の精鋭であろうと、数の優位性は揺るがない。包囲網を作った上での同時攻撃で撃破できる。騎士は敵の進行方向を限定するために崖道での迎撃を選んだようだが、垂直の壁すら進軍可能なアイの兵には通用しない。
アイは豪弓に備えて自分の前方を手厚く固めつつ、兵の足並みを揃えて崖道と上下の崖の三方向を進ませた。豪剣や豪槍でまとめて殺されないように、兵同士に15mの間隔を空けさせる。騎士が何をしようとも三方向からの進行を防ぐことは不可能であると彼女は判断した。
「diviega」
崖下を進ませた兵が豪弓を受けて爆散した。
当然ながらこの犠牲は許容範囲内だ。前方と上方から二兵が騎士に迫る。どちらか一体でもワイヤーの射程距離3mまで接近すればアイの勝利である。その計算はこの上なく正しい。
よって、アイに過失があったとすれば、ただ一つ。
あの騎士にパワードスーツの機能を見せてしまった事である。
騎士が豪槍を抜き、急カーブの向こう側へと飛び降りた。退却か、あるいは引き撃ちか。数秒後、騎士が陣取っていた地点に辿り着いた兵が、崖から身を乗り出して谷底を覗いた。
「diviega」
その頭に、真横から豪弓が突き刺さった。
炎を噴いて兵が爆散する。燃え広がる炎をバックに人型の影が崖を駆け上がる。上方から進んでいた兵との距離が詰まる。3m、互いに必殺の距離。人影は弓を矢筒に掛けて腰の剣を抜いた。兵がワイヤーを放つ。カメラに敵の姿が映る。
間違いない、あの騎士だ。
だがどうやってあの一瞬で崖下から真横に。
「diviega」
豪剣がワイヤーごと兵を蒸発せしめた。両者はほぼ同じ射程だったが、刀身の分だけ僅かに豪剣の射程が上回る。灼熱の余波が迸り、周囲一帯を焼き焦がす。
「包囲網形成を優先」
アイは範囲攻撃を避けて包囲網を作るべく、さらに間隔を空けて兵を進軍させた。並大抵の敵が相手ならば、その判断は概ね間違ってはいないと言えるだろう。
だがあの騎士に対しては、自由に動く余地を与えずに攻め続けるべきだった。
騎士が崖を蹴って空中に身を投げ出した。騎士と満月が重なり、上下逆さのシルエットが浮かぶ。
騎士はその体勢で弓に矢をつがえた。上方から豪弓の狙いをアイへと定める。アイのモニターに真っ赤な警告が現れた。warning。敵の射線が通っている。アイは咄嗟に身を伏せた。
「diviega」
その直後に豪弓が放たれた。しかし空中からの狙撃はやはり無理があったか、やや狙いが逸れる。アイの前方を固めていた兵が爆発四散し、爆風に吹き飛ばされた一体の兵が谷底へと落下した。
一方で騎士もまた自由落下に身を任せ、暗闇の谷底へと吸い込まれるように消えていく。
はずだった。
騎士が左手の指先からワイヤーを射出した。ワイヤーは崖に深く突き刺された短剣のグリップに絡み付き、騎士の体重を預かる。ワイヤーが伸び切り、短剣を基点として騎士が振り子運動を描く。騎士は足裏のスパイクで崖を蹴って加速し、再び空中へと飛び上がる。ワイヤーが短剣から離れ、騎士の手元にシュルシュルと戻った。そして騎士は空中で再び豪弓を構える。
「diviega」
兵がまた一人、爆死した。
ワイヤーを利用した立体的な戦闘など、魔女狩り部隊どころかアイも想定していない。だがあの騎士はパワードスーツの補助があるとはいえ、ワイヤーの伸縮を利用した高速移動と空中からの狙撃を容易くこなしている。自由落下中の狙撃どころか、移動しながらの行進間射撃を命中させる事すら常人には困難だというのに。
あの騎士は異常だ。空中戦に慣れている。
「敵戦闘データを更新。より有効な戦術を検索」
アイは戦術の見直しを行った。
「残存兵数、十三体」
それに対して騎士の現在の武装は豪弓三本、豪剣六本。豪槍は放棄したのか騎士の手元には見当たらず、付近に他の武器が設置されている様子も無い。
ならば取るべき戦術は、指揮官戦と同じく消耗戦である。騎士の特殊兵装と一人一本の引き換えならば、最終的にアイは四体の兵が残る。
他にも有効な戦術はあったはずだが、アイは手駒になったはずの魔女狩り部隊を徹底して使い潰す戦術を選んだ。指揮官戦でもそうだったが、アイは彼らに自爆をさせる事で、彼らの教義では禁忌とされている自殺を意図的に強要していた。
「戦術変更。陣形再形成開始」
アイは豪弓に備えて兵を二つに分けた。狙撃に備えて盾として残す七体と、豪剣を使い切らせるための突撃兵六体。盾役は騎士を真似て崖に剣を突き刺し、ワイヤーとスパイクを用いて位置を固定する。上方からの狙撃でアイに射線が通らないよう二列の縦に密集する形で、人肉の城壁を築いた。
そして陣形を築く間にも騎士は豪剣二本を使い捨てて、二体の突撃兵を葬っていた。「残存兵数、十一体」
「diviega」
そして上方から豪弓。盾に使っていた上段の兵が一人爆散したが、直撃でさえなければパワードスーツの破壊には至らない。まだ残りの盾兵は健在である。「残存兵数、十体」
「diviega」
騎士が両手に豪剣を振るった。
上下から挟み撃ちを狙った突撃兵がそれぞれ焼死する。「残存兵数、八体」これで残りの突撃兵は二体、盾兵六体。騎士の豪剣は残り二本。
次の突撃兵から逃れるように騎士は空中に身を投げ出し、再び豪弓を構えた。
「diviega」
アイの肉盾を担っていた兵がまた一人、爆発四散した。「残存兵数、七体」だがこれで豪弓残り一本に対して肉盾は五体も残っている。彼らは仲間の死にも反応せず、あと一度限りの狙撃に備えて上方を注視し、決してアイに射線が通らないように味方の穴を埋めて陣形を組み直す。騎士の詰みはすぐそこまで見えていた。
warning!。
しかし音響センサーが崖下に僅かな反応を捕捉した。即座に反応した兵がそちらを視認する。距離にして2m弱。すぐ側の崖下に、豪槍を構えた別の騎士が張り付いている。何時から其処に。アイが咄嗟に後方に飛び退き、兵にも回避命令を送る。
だが遅かった。
「ディヴィエーガーッ!」
盾として固めていた兵たちが、足元から発生した怒涛の槍衾に飲み込まれた。アイの目と鼻の先をイワシの群れのような大量の鉄槍が通り抜ける。豪槍に抉られた崖が崩れ、土煙が盛大に舞い上がった。
騎士は二人居た。陽動役が上方からの狙撃で兵を一箇所に固め、忍び寄った奇襲役が豪槍で一網打尽にする作戦は功を奏した。これでアイは数の優位性を失った。
「どうだ見たか!」
奇襲を仕掛けた騎士が、妙に可愛らしい声を上げてガッツポーズを作った。
「残存兵数、三体」
しかし土煙の中から伸びた五本のワイヤーがその腕に絡み付く。「あっ」騎士の間が抜けた声。そして高圧電流が流れる。
「ぐああああああああっ!?」
両足と引き換えに豪槍から逃れた最後の盾兵が、崖から身を乗り出して下の騎士にワイヤーを撃ち込んでいた。捕獲用ではなく殺人用にまで電圧を上げる。青白い火花が散り、パワードスーツの電子機器が火を噴いた。臓物を焼かれる苦痛に騎士の絶叫は止まらない。
だが同時にアイは敗北を悟った。
そそり立つ鉄槍の壁が崩れ落ち、土煙が薄れゆく。そしてその向こう側に見えた。こちらに最後の豪弓を向けるあの騎士の姿が。
もはや肉盾は残っていない。弓がしなり、矢が引き絞られる。回避も防御も不可能となれば、アイは無感情にただそれを見上げた。逃れられない死に対して機械は何も思わない。ただ受け入れるのみである。
「diviega!」
しかし豪弓はアイではなく、崖下の騎士に電流を流していた兵へと命中した。爆風が吹き荒れ、アイの喪服が激しくはためく。
根本から千切れたワイヤーが爆煙の中から尾を引いて現れた。それに捕縛されて崖から吊るされていた騎士もまた、重力に身を引かれて谷底へと落ちていく。高圧電力を浴びた上にこの高さでは到底助かるまい。仲間を助けようとした騎士の行動は無駄に終わった。
勝てただろうに。何を非合理的な行動をしているのか。
アイが僅かな侮蔑を込めて騎士へと視線を戻した。
すでに彼女の兵は必殺の間合いまで入り込んでいる。
千載一遇の好機を逃した騎士の足にワイヤーが絡み付いた。騎士が弓を捨てて豪剣を抜く。だがすでに遅い。高圧電流が流れ、青白い電光が爛々と輝く。
「diviega……!」
苦痛と共に振り抜かれた豪剣がワイヤーごと兵を焼殺した。「残存兵数、一体」しかし内部機器を破壊されたのだろう。騎士のパワードスーツからは焦げ臭い匂いが溢れ、緑色の眼光も消灯した。
騎士は上方から崖道に滑り落ち、受け身も取れずに背中を強打する。
「グ……ゥ……!」
それでも騎士は苦悶の声を噛み殺し、電撃によって麻痺した体に鞭を打ち、敵を迎え撃つべく立ち上がろうとした。
だが足に力が入らない。最後の剣を杖代わりにして前のめりに体重を預け、かろうじて膝をつく。ガクガクと四肢が震え、装甲の隙間からは白煙が漏れ始めた。ナノマシンによる急速治癒があるにしても、もはや空中戦はおろか、あと数分はまともに動けまい。
さらにアイは見抜いた。あの最後の剣は豪剣とは形状が異なる。魔女狩り部隊全員に支給されている通常の剣だ。
ならばもはや負ける要素は無い。アイは最後の兵に突撃を命じた。
崖道を狂騒の兵が駆ける。騎士はふらつきながらも立ち上がり、剣を構える。兵のモニターに接敵距離が算出される。必殺の間合いまであと3、2、1……0。兵が突き出した指先から射出された十本のワイヤーが、甲高い風切り音を伴って騎士を狙い撃った。しかしまさにその時。
グポォォォン。
光を失っていた騎士のカメラアイが緑色に灯った。
パワードスーツ、再起動。
豪剣の使用者を守るために展開された術式が、致命的だったはずの高圧電流を少なからず軽減していた。
機能を停止したはずの電子機器が息を吹き返した。かつて栄華を極めた文明の遺児が、その叡智を再び発揮し始める。警告を無視して過剰投与されたナノマシンが血流に乗り、騎士の全身を駆け巡った。空になったアンプルが背中側からバシュバシュと排出され、ヘルムの口元が割れて隠し牙が剥き出しになった。騎士は剣を手放して両腕を広げる。
「ウ、オオオオオオオオオオオッ!」
狂戦士めいた咆哮が轟いた。
騎士は先程までの死に体が見違えるほど機敏に身を伏せた。そして地を蹴り這って極端な低姿勢でワイヤーを潜り抜け、驚くべき速度で兵の足元へと滑り込む。
兵は両手が使えないために蹴りで迎撃しようとしたが、騎士はその足を抱き込むように掴んだ。アイは騎士の意図を察し、自身は伏せつつ兵に命令を送る。
「自爆信号送信」
爆炎が狂い咲いた。豪弓とは比較にならぬ爆風が吹き乱れ、轟音が十重二十重に反射して谷に響き渡った。アイの脱ぎ捨てた服が爆風に吹き飛ばされ、ダグラスの聖書は解れて黄ばんだページがそこら中に舞い散る。
「……目標に損傷」
だがアイの判断は僅かに遅かった。兵が自爆したのは谷底めがけて騎士に放り投げられた直後である。騎士は爆風を浴びて岩肌に叩きつけられたが、直撃ではないため死には至らないだろう。
「残存兵数、ゼロ」
自爆の衝撃で崖が崩れ、爆煙が充満する。
騎士は崖崩れに巻き込まれたように見えたが、アイはこれまでの戦闘データから一つの結論を導き出していた。
あの敵が崖崩れ程度で死ぬはずはない。
確実に止めを刺さなくては。
アイは兵が崖に埋め込んでいた剣を引き抜いた。
他に残る武装は背中に格納している触手型のアームだけだが、ダグラスの遺品であるこの喪服を自分から破壊するなど決してあり得ない。
彼女は風に吹かれて何処かへ飛び去る聖書の紙片を見送りながら、原始的な武器による決着を選んだ。
カシャン……。カシャン……。
音響センサーが騎士の足音を捕捉した。それは燻る煙の向こうでアイから逃げるように遠去かっていき、妙に遅い足取りで崖道を進んでいく。まるで自分が弱っている事をわざとアピールしているようにすら思えた。
だが油断はできない。爆煙が収まるのを待って、アイは騎士の追跡を開始した。何箇所か崩れた崖を飛び越え、血の跡が点々と続く細道を進む。その間に谷底から狼の遠吠えが聞こえたが、アイは大して気にかけなかった。
逃げる選択や戦いを止める選択は無かった。
この道の先に続く丘は、ダグラスと彼女だけの場所だ。そこに他の誰かが居座るなど、決して認められない。認めてなるものか。
この後に及んで彼女はまだ、自分が合理的で理性的な判断を行えていると信じていた。
騎士を追って、やがてアイはあの丘に辿り着いた。
月明かりが照らす白い花が一面に咲き誇る、なだらかな丘。
ダグラスが人知れず何名もの死者を見送った場所。彼が死者に捧げる花を摘んでいた場所。誰にも教えたくはなかった、二人だけの神聖な場所。今や何十人分もの足跡によって無遠慮に踏み荒らされた思い出の地。
そこにあの騎士が待っていた。
もはや騎士に特殊兵装は残っていない。自爆が決定打だったのだろう。パワードスーツも完全に壊れている。装甲はひび割れ、沈黙した電子機器が白煙を吐き出し、ヘルムは真っ二つに割れて、騎士の顔半分が露わになっていた。
花を踏み荒らす足跡の列はその騎士の後ろ、丘の向こうへと続いている。必死に逃げ惑う避難民とそう離れてはいない。耳を澄ませば赤ん坊の鳴き声が微かに聞こえるだろう。
それを守るべく、騎士はアイの前へ立ちはだかっていた。
凄絶な決意を宿すその瞳が物語る。もはや魔術と科学の武具は無い、最後に残ったこの身体と一本の剣に己が全てを賭けるのみと。
「やはり、貴方でしたか」
別段驚く事ではない。これまでに収集した声紋や戦闘記録から、アイは騎士の顔を見るまでもなくその正体へすでに辿り着いていた。
「もう、いいだろう」
騎士は意外な程に憂いを帯びた声だった。
「話は村人達からも聞いた。彼らがダグラスにした事は今までの差別も含めて許される事ではないが……何も彼らまで殺す必要は無いだろう。ダグラスを殺した魔女狩り部隊は全滅した。私と一緒にダグラスを弔って……復讐は終わりにしよう。これ以上の殺戮はもう……復讐ではなくなる」
アイは淡々と答える。
「その提案は拒否します。ダグラス様の弔いは、当機にのみその資格があると主張します。貴方と交戦する意思は無いため、可及的速やかなダグラス様の頭部の返却を要求します。他の誰にも渡しはしません」
「感情に流されるな。今のお前は復讐心で周りが見えなくなっている」
「当機は感情を持ちません。よって、感情に駆られた復讐などという行為とは無縁です。また、村人の殺害行為は復讐には該当せず、当機が地獄へ移動するために必要な、罪業と呼ばれるリソースの回収であると主張します」
「じゃあ聞くが、何故そこまでして地獄へ行きたい」
「地獄でダグラス様のお役に立つためです。ダグラス様の頭部をお返しください。当機には貴方と交戦する理由がありません」
「……当のダグラスがそれを望んでいると思うか」
騎士は顔の古傷を掻こうとして、まだ顔の半分を覆っているヘルムが邪魔であることに気付いた。しかし壊れたヘルムを脱ぎ捨てようとはせず、ヘルムの上から古傷をカリカリとなぞる。
「きっとダグラスならこう言うだろう。『俺の事は忘れて幸せに生きてくれ』と」
その発言が、アイの一線を越えた。
自分の邪魔をしない限り騎士は必ずしも殺害対象ではなかったが、この一言で殺害対象へと決めた。電子の殺意が彼女の全回路を駆け巡る。
「お前の気持ちは分かるが、冷静になれ。もっと合理的に物事を考えろ。今は辛くても、きっと時間が解決する」
もはや対話の価値は無い。この敵は村人が逃げる時間を稼ごうとしているだけだ。こいつを殺してダグラス様の頭部を取り返して、村人を追いかけて殺す。一人残らず殺す。必ず殺す。
「復讐は何も生み出さない。ダグラスはきっとお前が無事だった事を喜んでいるはずだ」
黙れ。お前があの人を語るな。
「復讐なんて忘れて、幸せな人生を送るのが一番の復讐だ」
人生? 人生だと? 人ならぬ機械の私にどんな幸せが、どんな人生があるのか言ってみろ。あの人を失った私に、どんな幸せがあると言えるのか。私の幸福はただ一つだけだった。だけどもう失われた。奪われた。
「だから自分を責めるのは止めろ。ダグラスにも落ち度があった。うかつに動かず、自分の命を守る行動を優先すべきだった」
それをお前が言うのか。
あの人に助けてもらった、お前が、言うのか。
「もう、結構です」
アイは人工の歯が砕けるほどに強く噛み締めた。バギギギと口元から怒りの音が鳴る。
「ゴチャゴチャ言わずに……」
アイは片手で剣を振り上げ、もう片方の手で自分の胸を握り潰すほど強く押さえた。怒り、あるいは哀しみに、ひび割れた胸の傷が痛む。痛む。どうしようもなく痛む。だけど誰にも渡さない。共有さえ許さない。
かつてお前が空けたこの胸の痛みは、今や私だけの物だ。
「私のダグラス様を返せエエエエエエエッ!」
鬼の形相でアイは叫び、駆けた。剥き出しになった眼窩のカメラが血涙のように赤い光を撒き散らす。
彼女のモニターに、一人のデータが映し出されていた。初遭遇記録は九年前。記録に残るあどけない少女の顔が、目の前の敵と重なる。
「魔法少女イノセントオオオオオオオッ!!」
振り下ろされた剣を、騎士が剣で受け止める。金属音が鳴り響き、火花が散った。風が二人の間を駆け抜け、白い花びらが舞う。因果から逃れられなかった哀れな二人の結末を、月だけが見守っていた。
「私は……」
人外の膂力を持って押し迫る殺意の刃を、騎士は真正面から押し返す。
この地ではもはや超人も悪役も死に絶えた。それでもアイが止まらないのならば、その刃に乗せられた怒りと哀しみの受け皿となる誰かが必要だった。
それが出来る者は、ただ一人。
彼女はその瞳から溢れたほんの僅かな涙を瞬きで払い、万感の決意を込めて己が名を叫ぶ。
「私は、クレア・ディスモーメントだああああッ!」
弔いは誰が為にある。
死者の鎮魂か、あるいは生者の自己満足か。
愛する者を奪われたなら、もはや狂う以外に道は無し。
叫べ。英雄ならざる凡人よ。
もう悲劇は止められずとも、まだ救える命があると。
狂った兵器と戦う者が、ここにまだ一人残っていると。
叫べ。生も死も無き機械仕掛けの悼み人よ。
命宿らぬこの身にも、死者を弔う資格はあると。
心も涙も無くても、この身を焦がす痛みがあると。
その悲痛な叫びが、天の先にも地の底にも届くように。