第18話。スワンプマン
こんな時につきまとう声がある。
それで本当に上手くいくのか。失敗したらお前がミサキとハスキを殺すんだぞ。お前に責任が取れるのか。お前より優れた誰かに任せるべきだ。
他の誰でもない、失敗を恐れる私自身の声だ。
昔はそんな声など無視できた。失敗しても私が死ぬだけだったし、失う物など何も持っていなかった。開き直って自己完結の人生を生きる事ができた。
だが今は違う。仲間を作ったおかげで、絶対に失えない物が生まれてしまった。
失敗するわけにはいかない。失敗するわけにはいかない。最善を尽くしたとか一生懸命頑張ったなんて言葉は、死なない程度の失敗にだけ許される言葉だ。
私は以前よりも失敗を遥かに恐れるようになった。
冒険者のくせに冒険を恐れるとは、物笑いの種だ。
私は、臆病になった。
私の実力など、大したことはない。
それは分かっている。
あの時も、あの時も、ただ運が良かっただけだ。
それも分かっている。
私程度が考えた作戦で本当に上手くいくのか。
それは分からない。
だからこそ、あえて言い切らなければならない。
「安心しろ。この程度の問題なら何度も片付けてきた。私が来た時点でもはや勝利は決まっている。この地に巣食う元凶も魔女狩り部隊も、今夜中に片付けてやる」
嘘でもこうして口に出してしまえば、恐れを知らない英雄のように振る舞うしかない。英雄にはなれなかった私だから、自分自身にも嘘をついて不安と恐れを噛み殺す。
私は私のやるべき事をやろう。
「主よ、我らを救い給え、導き給え。闇の中にひとすじの光を示したまえ」
「「主よ、我らを救い給え、導き給え! 闇の中にひとすじの光を示したまえ!」」
「あなたの愛は海より深く、太陽より暖かい。世界はかくも美しいのは、あなたの愛によって創られた故に」
「「あなたの愛は海より深く、太陽より暖かい! 世界はかくも美しいのは、あなたの愛によって創られた故に!」」
家の外では、集まった何十人もの村人達にミサキが聖書を読み上げている。ミサキが聖書の一節を読み上げるたびに、村人達が声を合わせてミサキと同じ一節を唱える。
力と恐怖は実に効果的に人を操るものだ。
死体の血で全身を染めたハスキが村を襲い、そこに駆け付けたシスター服のミサキが聖書を掲げて一説を唱えると、ハスキが怯えて逃げ出す。
この芝居を打っただけで、純朴な村人達は易々とミサキと聖書の聖なる力を信じた。
今もハスキが時折吠えたり唸ったり木をへし折ったりして、そこから出たら恐ろしい魔物がすぐお前達を襲うぞと、アピールを繰り返している。
一方で私はグロ過ぎる作業がたった今、終わった。
ダグラス家のテーブルの上には、処置が完了した死体が横たえられている。
あまりにもグチャグチャでもはやどれがどれだか分からなかったので、泥人形を腹の中に置いて腐った肉を縫い合わせただけだが、形式上の出産なのでこれでも十分だろう。
しかしこの作業のせいで、私は泥と血と汚汁塗れになった。実行した事からして、どこからどう見ても魔女が行う邪教の儀式だ。もし魔女狩り部隊に見つかったら言い逃れは出来ないなこれは。
魔法少……あの黒歴史から十年くらい経った今、今度は魔女になるなんてとんでもない皮肉だ。
「さて、そろそろ頃合いだな。始めよう」
椅子を引き、腕を組んでテーブルの前に腰掛ける。不自然に腹が膨らんだ死体を眺め、どう切り出すべきか物思いに耽った。ランタンの灯りが照らし出す小屋の中にいるのは、まだ私だけだ。
「まずは気になる事がある。どうして記憶の消去は、他者への真実の伝達によってのみ発動するのかという事だ」
とりあえず、死体の腹の中にいる泥人形に話しかけてみる事にした。今はまだ何も変化は無く、外では信者達の大合唱が響いているので、私の声が他の誰かに聞かれる心配は無用だ。この山に居る何者かを除いては。
「外部に自分の所業が漏れない為だけか? 違うな。確かにその一面はあるが、それだけならば伝達に限定する必要は無い。お前が人の頭の中を覗き見れて、真実の理解度を記憶消去の基準としているならば、伝達されずとも真実に近づいた奴の記憶は全部消してしまえばいい。ここから考えられる可能性は、一つ」
実のところ、一つ大きな疑問がある。人の頭の中を覗き見れるのならば、なぜこいつは私が神殺しを決めた時点で記憶を抹消しなかったのかという点だ。思い当たる可能性があるにはあるが、まだ確証が足りない。
だから挑発するために、今はあえてこう言っておこう。
「お前は、本当は自分の事を知って欲しいんだ」
ザワリと、空気が変わった気がした。
妙に背中が冷たい。振り返っても誰も居ないが、どうも誰かに見られている気がする。
「考えてみれば当たり前の事だ。ホルローグから遠く離れた地にも耳が効き、真実はおろか関係する固有名詞を口に出しただけでも記憶を消しにかかるような臆病者が、こうして真実をポンポンと口に出す私を無視するはずがない。ホルローグ。三番村。ダグラス。ミサキ。ハスキ。こうして固有名詞を口にしても、独り言に限っては私の記憶を消す気は無いし、私の頭の中も読まないだろう。それは何故か」
よく聞こえるようにと、死体の腹に口を寄せて囁く。
「お前は、自分が話しかけてもらっていると思い込みたいからだ」
「…………ァ」
村人達の声が大きくてよく聞こえないが、どこからかほんの微かに何かが聞こえた。よし! 反応が返ってきた!
「私はお前の事をよーく知っているぞ。お前は独りぼっちで寂しがり屋だ。自分の同種を知らない。外に出る勇気も無い。ずっとこの山に隠れていた。楽しそうに仲間を作る人間達をずっとずっと眺めていた。だがお前の本音は仲間が欲しい。自分の存在を知って欲しい。話しかけて欲しい。だから他人の独り言を自分が話しかけてもらっていると解釈した。お前は本当に寂しがり屋だな」
相手を怒らせて冷静な判断力を奪うのは有効な戦術だ。
さあ、怒れ。私はお前を挑発しているぞ。お前が神様気取りなら、許せないだろう。村人に、忘れられた神の祭壇に、魔女狩り部隊。今まで神を崇める者は居ても、馬鹿にする者は居なかったはずだ。
どうした、私に罰を与えに来い。
「そのうち、お前は見ているだけでは満足出来なくなった。土で作ったささやかな贈り物をしたりして、村人達に神だの妖精だのと騒がれて喜んだ。やがて魔術組織を名乗る変な連中が来てお前を大々的に奉り上げた。それでお前はますます自惚れた。ただの化け物のお前は、自分を神だと思い込むようになった。だがそんなお前の自惚れは、ある日突然打ち砕かれる事となる。外敵の来襲だ」
うん、これは……まあ、誰とは言うまい。
「それは抗う全てを踏み潰す、絶対的な暴力だった。それを目にしたお前は怯え、隠れ、息を殺して情けなく生き延びた。お前を守ろうとした者達の屍の下で、お前は惨めに生き延びたのだろう。いかにも臆病者のやりそうな事だな」
この事件が日照りや嵐と同じただの現象なら、私に打つ手は無かった。真実に辿り着いたところで、捨て台詞を吐いて逃げ帰るのが精一杯だっただろう。
「神だ何だと持て囃されておきながら、お前は信者達を守れなかった。だから逃げ隠れする能力を鍛えた。もう二度とあんなのに会わなくて済むように、自分に辿り着くかもしれない記憶も記録も消して消して消しまくった。そしてお前の事を覚えている者は、誰も居なくなった。寂しがり屋のお前は、それでも我慢し続けた」
だがお前は違う。
言語を理解する。意思の疎通が出来る。それは確かだ。
「ではそんな臆病者が、何故急に村人を殺し始めたか。考えてみれば、これも妙な話だ。暴れれば外敵に目を付けられるだろうに。それはそれは、よっぽど我慢出来ない何かがあったんだろうな。当然、私はその理由も知っている」
なら戦える。
「答えは、アイさんが現れたからだ」
お前を私のリングの上に引きずり出せる。
「お前は驚いた。人間ではないのに人間として共に暮らし、人間に寄り添っている者が居る。人間に愛され、家族として受け入れられている者が居る。それはお前にとって許し難い事だった」
「ダ、マ、レ」
怒りを孕んだ声が、どこからか聞こえた。床板が一斉に軋み、持ち上がり始める。ようやく重い腰を上げたな……!
「お前は嫉妬したんだ。彼女はお前と同じ人外の身でありながら、お前の望みを先に手に入れた。お前は悔しかっただろうな。自分だって人間みたいな見た目になりたい。自分だって人々と一緒に生きたい。人間と一つになりたい。仲間が欲しい。そうして作ったのが人間と一体化する泥人形であったり、人間を複製する泥人形だ。泥人形よりもゴーレムと呼んだ方がいいか?」
「ダマラヌ、カ」
ポタリと、視界の端に何かが落ちてきた。それは水滴のように思えたが床に当たっても四散する事なく、粘着質な音を立ててへばり付いた。
泥だ。
見上げるとすでに天井は泥に覆われていた。いや、天井だけではない。壁と床からも際限なく泥が滲み出てきた。ドアも窓も泥に塞がれ、退路が消える。床から染み出してきた泥はあっという間に私の足首までも飲み込み、天井からは雨漏りのように泥の雫が次々と滴り落ちて私を汚す。それはさながら巨大な怪物の胃袋の様相を呈していた。
「いいのか? 私を殺せば、話し相手が居なくなるぞ」
「フヨウ。ワガシンリニ、フレシモノ、トケヨ」
「真理、あるいは心理か? どちらにせよ、お前は自分が嫉妬深い臆病者だと認めたな」
床の一角で泥が瞬く間に盛り上がり、人間大の塊となった。泥は意志を持っているかのように蠢き、徐々に人間らしき形を作っていく。頭が伸び、手足が生まれ、余計な部分が削げ落ち、顔には三つの穴が空いた。「オーーーーーーーー」そして不明瞭な声で鳴く。
「まさかとは思うが、これはお前から見た人間か? 彫刻家にでも弟子入りしたらどうだ。これではアイさんにはとても及ばない。お前に比べたら、人間の方がよっぽど上手く人に似せたゴーレムを作れる。おっと、だから人間と合成して手っ取り早くクオリティを上げようとしたのか? 神を自称するにしては、とんだ浅知恵だな」
「ブジョクセンバン、ユルシガタシ」
ゴーレムが水気を孕んだ足音を立てて、ノロノロとこちらに向かってくる。たった数歩の距離だ。溶けよという言葉からして、これに触れればゴーレムと一体化して死ぬだろう。
だが、お前がまだ本気で私を殺すつもりが無いのは知っているぞ。お前は他者との対話に飢えているからだ。これは私の態度を改めさせるための、ただの脅しだろう。
「侮辱かもしれないが事実だ。そしてお前も、このやり方では人間を取り込む事が出来ないと気付いたんだろう? だからやり方を変えた。次は人間の記憶と人格を丸写ししたゴーレムの作成だ。せっかくだからそちらも見せてくれないか? 私を殺すのは構わないが、お前の工夫を見せてからでも別に遅くはないだろう?」
「タヤスキ、コト」
ゴーレムの隣の泥が盛り上がり、新たなゴーレムが生まれた。怒っているようでいて、こちらの要求を飲んでくれている。よしよし、分かりやすくて結構。
「ふーむ、見たところ最初の一体との違いが分からないが、これは本当に私か?」
「ゴーーーーーーー」
二体目のゴーレムは、私の眼前に迫りつつあった一体目の肩を掴んで、後方に引き倒した。ゴーレムは背中から泥中に倒れ込み、撥ねた泥飛沫が私の頬に付着する。二体目は足を振り上げて「オーーーーーーーー」何事かを叫び、一体目の頭を踏み潰した。
グシュッ。二体のゴーレムの頭が同時に潰れる。
そうして頭を失った二体目もまた後ろ向きに倒れ、足元を浸す泥の中へと沈んでいった。仲間割れ……ではないな。
「ゲセヌ」
「説明してくれ。今の奴は何て言っていた?」
「ワタシハ、ニセモノダ、キニスルナ、ト」
つまり二体目は私の記憶と人格を写した泥人形だったから、オリジナルの私を守る為に自分を犠牲にして一体目を壊したという事か。ううん……いや確かに私ならやりそうだが……気にするなと言われても、疑似的な自分の死を見るのは気分の良いものじゃない。
「何が解せない。私の模造品が自分を偽物だと認めた事か」
「イカニモ」
「いわゆる『スワンプマン問題』だな。私の見解にはなるが、仮に私の体と頭の中身の完全なコピーを作れたとしても、それだけでは不完全だ。他に何が足りないか分かるか」
「ワカラヌ」
なんか割と素直だなお前。
「そもそも全ての生物は、常に違う存在に変わり続けている。髪も爪も伸びる、腹が減ったら飯を食って排泄をする。古い記憶は忘れ、新しい記憶は覚える。分かるか? 身体も頭の中身も、常に変化し続けているんだ。だから変化中の一瞬だけを切り取って外見と頭の中だけを複製しても、全ての要素を揃えない限りはオリジナルを名乗る根拠として成り立たない」
「デハ、ホカニナニヲモッテ、ジコトスル」
「何よりも主観。続いて客観。それらの連続性または歴史だ。つまりは生まれた時から現在まで私は私であり続け、それを自他両方の観点から観測され続けてきたという積み重ねだな。他者の記憶や認識をお前は改変できるかもしれないが、主観だけはどうしようもない。そして生物は仮に自分と瓜二つの存在が居ても『主観を持つ自分』以外を『本物の自分』としては絶対に認識しないから、私の目には私を模倣したゴーレムは泥人形にしか見えなかった。よって、それを理解している偽物の私は、不完全な自分を偽物だと認めたという事だ。理解出来たか?」
「…………トクシン、セリ」
多少強引な主張だが、納得させられたようだ。
ここから上手く次に繋げていこう。主導権は私が握る。
「さて、人間を複製する事も混ざる事も上手くいかなかったわけだが、次なるお前の工夫はあの食堂……『人間に自分側に来てもらう事』か? 私の周囲全方向は泥に覆われているが、これはもしかしてお前の世界へ片足を踏み入れているのか?」
「イカニモ」
だからいつの間にか、外の声も聞こえなくなってたわけか。
だが退路を断たれようと、もはや大した問題ではない。お前は私程度ならいつでも殺せるとタカを括っているだろうが、果たして今から追い詰められるのはどちらかな。
「実のところ、お前の発想は悪くはなかった。しかし悲しいかな、人間は人間性を保ったまま幽世の境界を越える事はできない。かくしてお前の誘いに乗った者は正気を失い、延々と餌を食い続けるだけの家畜になってしまった。これも失敗だ。……さて、私が知っているのはここまでだが、この次の手はあるか?」
「モサクチュウ、ナリ」
「考えるのは結構だが、このままでは村人が一人残らず死に絶えるぞ。お前の失敗のせいでもあるが、異変を嗅ぎ付けた魔女狩り部隊によって村人の殺戮が行われている。もはや外に集まっている村人達だけが最後の生き残りだ。彼らが全員死ぬとお前はどうなるか、考えた事はあるか?」
「………………」
どうやら言いたくないようだな。
だが沈黙は許さん。お前が答えたくないなら、私が代わりに答えてやる。
「お前は死ぬ」
「シナヌ。ワレハフメツナリ」
今度はすぐ言い返してきた。何とも分かりやすい奴だ。
「いいや、お前は死ぬ。お前は自分に繋がる記録を消し過ぎた。神や妖精といった伝承で、不完全ながらもお前の事を知っているホルローグの住民が死に絶えれば、お前は全ての観測者を失う。これが何を意味するか分かるか? 先程教えた自他両方の観測によって成り立つ自己の崩壊だ。自分自身の観測が出来ていても世界の全てがお前を観測出来ないのならば、それは『死』なんだよ。未来永劫の孤独を、お前はいつまで耐えられるかな」
「エイゴウノ、コドク……」
「残念だ。お前は死を恐れるあまりに、自ら死に向かってしまった。お前は根本的な勘違いを犯している」
「カンチガイトハ、イカニ……」
心なしか、こいつの声に元気が無くなってきたな。
よし、そろそろ切り札その一を使う時だ。
「それを知りたいのなら、まず私の過去を読み取るといい。記憶の複製が出来るなら簡単だろう? 私はクレア・ディスモーメント。私の原初の記録を、私の始まりを見ろ。お前の望みを叶えるすべが、そこに有る」