森
第二話にお越しいただき、ありがとうございます。
夜の真っ暗な森を歩いていると、どんな気がするでしょうか。
今回もお楽しみいただけますと幸いです。
一番大きな衝撃が、高い跳躍からの着地によるものだと気付くのにはしばらく時間がかかった。ようやく魔女の肩から降ろされて地に足を着けたものの、揺らされ続けた体は奇妙な浮遊感に包まれたまま拭えそうにない。
幾度か瞬きをして周りを見れば、真っ暗な闇ばかりで灯りのひとつもない森の入り口だった。振り返れば今日まで過ごしていた街の塀が見える。門はすでに閉じられている時間だ、ということは屋根の上を跳んだだけでなく塀からも飛び降りたらしい。まさか、あの塀からここまでがひと跳びだったのだろうか。
「歩けるかえ」
言われて言葉がつっかえるが、何とか返事を絞り出した。魔女の話には、きちんと返事をしなくてはいけない。
「あの、はい…歩けます」
「よろしい、では行くとしようか」
魔女が歩きだす、その背中が森の中へ消えてしまう前にふらつく足で追いかけた。鎖は既に彼女の手からは放されており、リトカが歩くたびに引きずってしまうので自分の手で持つことにした。自分の鎖を、主人ではなく自分自身で持っているのは不思議と心細いことだった。持っていてくれれば、離れてしまう恐れもないのに。
会話もなく、ひたすら背を追い歩き続ける。灯りも目印も無い森の中を、魔女は迷いなく進んでいった。心細さは次第に増していく。時間が経つほど歩く足どころか全身が疲弊していく。5月とはいえ風が吹くたびに体が冷えてきた。この背を見失ったら自分はどうなるのだろうか。見える背中以外は右も左も闇、闇に紛れた木の陰、黒い茂み。すべてを包むかのような闇が、自分の背をずっと追いかけて来ている気がする。黒い影が手を伸ばして、そして、
「さて」
必死に追いかけていたはずの魔女の背が、突然目の前に押し寄せてくる。しかしそれは錯覚で、止まった彼女の背中にリトカがぶつかりそうになったのだった。なんとか足を踏ん張り立ち止まれば、額を指でつつかれる。
「紹介が遅れたのう。私はエルダーという。用事で旅に出ていたが、その帰りにおぬしを見つけて買うと決めた。さて、おぬしの名前は?」
「トカゲ、……いえ、リトカ…といいます」
「リトカ、よろしくのう。では今日はここで休む。日の出とともに出発するから、さっさと眠ることじゃよ」
言うやいなや木に背をつけながら腰を下ろし、さっさと眼を瞑ってしまう。流れるような動作に返事すら忘れてしまったが、エルダーと名乗った主人は咎めずに休む姿勢を決め込んだ。よくよく見てみるとその背の木は大きく、根と根の間に腰を下ろせばすっぽりと体が収まるほどだった。
どこで眠るべきか悩んだ後、リトカはエルダーのすぐ近くの根の間に蹲る。けれど眠れる気はまったくというほどにしなかった。今夜だけで色々な事が起こりすぎていて、暗闇でじっとしているほど自分の心臓がドクドクと鳴り続けているのがわかる。
それに、森の中で焚き火も焚かず、見張りも置かずに野宿をしたことなどない。夜の森はこんなにも暗く、何もかもが存在せず、何もかもが存在するような闇。風が吹けば葉の擦れるざわざわという音が連なって、何か大きな生き物が通り過ぎていくようだ。じっとしているから良いが、もし動いて見つかれば食べられてしまうかもしれない。そして動かないでいようとも、何か恐ろしいものがひたひたと足音を立ててこちらに向かっているような気がして仕方がない。
すると、エルダーが身動いだ。
「眠れないのかえ」
「…はい」
「3つまで聞こう。気になること、眠れない要因だと思うことを話してごらん」
3つ。そうと言われると一気に混乱した。これだけ色々あったなかで3つ、何を言えば良いのだろうか。でも眠れない原因であれば、暗くて怖いというのは当てはまる気がする。でも怖いだなんて言って良いものだろうか、恥ずかしいことなんじゃないだろうか。
またエルダーが身動ぐ音がして、焦った。待たせてしまっている、何か言わなくてはいけない。
「あの、暗くて…怖くて」
「森の暗闇が怖いか。人の気配がする環境で育てば、この静かさに慣れぬのもわかる。けれど…そうじゃのう。おぬしが恐れているのは、おぬし自身じゃよ」
「ぼく自身、ですか」
「そうじゃ。森も闇も、おぬしのようなちっぽけな存在のことなど気にかけておらぬ。おぬしを怖れさせるものがあるとすれば、この『他』というものが隔絶された森の中で、向き合わざるを得ない自分自身の声じゃ」
森も闇も「こちらを気にかけない」だなんて、生き物みたいに言うのが不思議だった。そしてぼく自身が怖いというのも不思議だった。走っていた時はすぐ後ろまで迫ってきて、今にも触れてくるかと思ったほどの暗闇。じっとしていてもにじり寄ってきた、こちらに触れようとしてきたあの暗闇。それがリトカ自身だったというのだろうか。理解はできないが、そんなわけないと言い切ることもできない気持ちも確かにあった。
けれど夜の森で怖いのは、それだけではないはずだ。
「なら…狼だとか、獣だとか、そういうのに食べられたりするかもしれない」
「みんな生きるために食べる、食べるために狩りをする。こんな狩りやすい場所で眠る餌があれば、逃す手はないじゃろうのう」
「え、じゃあ、やっぱり危ないんですか」
「この木の下であれば大丈夫じゃよ。これはニワトコの木という。私はこの木と『約束』をしておるから、この木の下で眠る私たちを襲ってはいけないことを森中が知っておる」
「約束…?森中…?」
「さあ、今夜の話は残りあと1つじゃ」
「あっ、ええと」
残り1つ。今夜は、ということは『約束』も『森中』もいつか質問することができる。でも今は眠るために必要なことを質問するべきなのだろう。
闇も心配ないという。森も心配ないという。獣も、心配ないらしい。そもそもエルダーがリトカを獣の餌にするとしても、主人のいうことなら聞かなければいけない。そう育ってきた。こうなると、もう何も思いつかなかった。
悩むリトカの話を、エルダーがじっと待ってくれているのがわかる。この人はもしかすると、優しい主人なのかもしれない。気付くと最後の質問を口にしていた。
「ご主人様は、魔女ですか?」
お読みいただきまして、ありがとうございました!