逃走
第二話にお越しいただき、ありがとうございます。
環境の変化は怖いものですよね。
そんな気持ちでお楽しみいただけますと幸いです。
「逃がすな!追え!!」
鎖を引かれるまま、追う怒声を背に走り続けた。この人は魔女らしい、それなら自分は魔法の材料にされるのだろうか。考えるうちに「トカゲ人間」である自分は魔法の材料にうってつけな気がしてきた。これはもうほとんど自棄だ。
石畳の上を、素足がぺたぺたと走る音が響く。檻の中ばかりで走ることなど殆どなかった足で必死に駆けるが、何度となく転びそうになる。そのたびに引かれる鎖がバランスを取ってくれているが、息も上がってしまって苦しい。
右に左に追手を撹乱するように曲がるたび足が滑る。せめて躓かないようにと、ひたすらに足元ばかりを見て走り続けた。
突然、数メートル先の扉が開く音がする。先回りされたのか、と思った時にはもう扉の中へ飛び込んでいた。最後につまずいてひっくり返り、思い切り顔面を打ち付けた。それと同時に背後で扉が閉まる低い音がする。自分の後ろには誰もいない。外から誰かが閉めたのか、それとも魔法で閉められたのか。
そのままゼイゼイと荒く息をしながら呼吸を整える。そのうちに扉の向こうで「魔女を探せ!」という追手の声が走り去っていくのが聞こえた。どうやら逃げ切ることができたらしい。だが魔女と団長、どちらの方がマシとも思えない。自分だってなにか気に障ることを言えば石にされるかもしれない。
ようやく息が整ったので顔を上げれば、鎖の先に魔女はもうおらず、奥の部屋の扉が開いたまま蝋燭が灯してあるのが見える。打ち付けて痛む鼻を手で擦れば少し血が滲んでいた。どうしたものかと途方に暮れ、床に座ったままでいると灯りの漏れる部屋から魔女が顔を覗かせた。
「何をしておるんじゃ、さっさとおいで」
呼ばれた。買われたからには(お金を正しく払ったかは別として)今の主人はあの魔女だ、従うべく慌てて立ち上がるとすぐに駆け寄った。
「なんじゃ、話せぬのか?」
「あ、あの、いえ、話せます」
「ならば返事くらいせい、わかったら『はい』じゃ」
「はっ、はい!」
「あら、なんて可愛いの!」
突然やわらかい腕に抱き込まれる。慌てて顔を見れば、豊満な胸と全身がふくよかなご婦人だった。よく見れば部屋の中にはたくさんの服が並んでいる。どうやらここは服屋のようだ。
「相変わらず賑やかな事になってるねぇ、エルダーさん」
「こいつを買う時にひと揉めしてのう。夜分にすまぬが、今夜中に森まで逃げる。服を見繕っておくれ」
「とうとう奴隷を持つ気になったの?それとも弟子かしら?まあいいわ、面白そうだけど話はまた今度にしましょう。ぴったりの服があるわ」
楽しげに話しながらもリトカのざんばらな髪を撫で回していたご婦人は、そう言うとすぐに動き始めた。店内を進み、迷いなく服を選び取っていく。あっという間に戻って来れば、台に並べられたのはリトカの身の丈に合いそうな子供用の服がひとそろいと、大人用の外套がひとつだった。
「ありがとう、これで足りるかのう」
「まあ!古着屋のうちじゃこんなに貰えないわ、あなたからはいつも貰いすぎるのよ」
「多いぶんは口止め料じゃよ、取っておいておくれ」
机の上には金貨が音を立てて積まれた。服代と口止め料。まともに買い物をしたことがないリトカには多い少ないも分からなかったが、サーカスに居る間に金貨を見たのは物好きな貴族が来た時だけだった。客が使うのは銅貨ばかりだ。
支払いを済ませた魔女と目があってハッとした。命令だろうか、外套を着る手伝いをするべきかと言葉を待つ。
すると魔女は「店主に礼をお言い」と行った。状況について行けていないリトカは一瞬、呆ける。
「え?」
「え、ではない。服を売ってくれた彼女に礼を。『ありがとうございます』じゃよ」
慌ててご婦人の方を向き、もつれる舌で「ありがとうございます」と言った。こんなに言葉を喋ったのはいつぶりだろう。それを見たご婦人は嬉しそうに笑って、魔女も満足そうに目を細める。そしてすぐに服を指さして「着なさい」と言った。
すぐに従い、しっかりとした靴に、下着と襟のあるシャツ、革のベストを順に着ていく。自分の鋭い爪が邪魔でシャツのリボンがなかなか結べなかったが、急かされることはなかった。
ここまでしっかりとした服を着たのはいつぶりだろうか。それでも窮屈さを感じない、丁度良い服を選んでくれていることに気が付く。外套まで羽織る頃には、もしかするとこれはとても良い変化なのではないかと思い始めていた。
さっさと外套を着ていた魔女は、店の二階へ上がり外の様子をうかがっていた。その後ろに立つと、彼女がふう、と息をついたのがわかる。
「大丈夫そうじゃ、もう行く」
「ちゃんと逃げ切ってね」
「本当に助かった、ありがとう。恩に着ておるよ」
「水臭いこと言わないで、あなたには返しきれない恩があるわ。きっとまた来てね」
「そうしよう、手紙も書くからのう」
「楽しみにしているわ。またね」
魔女が窓を開き、屋根に一歩踏み出す。どうやらここから出るらしいと察したリトカは、ご婦人に向き直りもう一度礼を言った。今度はあまりもつれずに言えたと思う。
「あの、ありがとうございました」
「あらぁ!いいのよ、元気で逃げてね」
小声で返された言葉に、胸に温かいものが灯った気がする。「ありがとう」は良い言葉だ。魔女の方を見れば、彼女は一つうなずいてから先に進む。慌ててそれを追い斜めった屋根に降りると革の靴は少し滑る。それでも足を踏み出して魔女の居る屋根のてっぺんの方へ向かった。
すると急な浮遊感に、腹部への圧迫感が襲う。
魔女が空を飛ぶ魔法でも使ったのだろうか、と思った時には視界に広がる景色が変わり果てていた。屋根が、地上が見える。下を向いているらしいが強い風とともに体は進んでいく。
何が起きているのかようやく理解するとともに驚いた。魔法というより、これは。肩に担がれている。体格が良いとはいえない魔女の肩に。そして彼女は風のように屋根から屋根へ跳んでいた。ふと、今日まで自分が居たであろうちっぽけな見世物小屋が視界に入った。大きな変化よりも、苦しいが変わらない日々が良かったのではないかという思いが過ぎる。それでも、あそこにはもう戻らないのだろうということも分かっていた。
これから自分は、いったいどうなるのだろうか。ひどく心細い気持ちで前を向いた。
お読みいただきまして、ありがとうございました!