虎之助、本格始動 2
二日後、虎之助が出勤すると店の前には臨時休業の札が掛けてあった。
「おはようございます!弥生さん?」
勝手口は開いていて、いつものように中に入ると弥生の声が返ってきた。
「おはよう。今日は調査の仕事に一緒に連れて行くから、お店は休みにしたわ」
A4サイズのショルダーバックを斜め掛けし手には一眼レフカメラを提げて、
すっかり支度のできている弥生が奥から出てきた。
「柳君のリュックの中にカメラ入れられる?」
「え?ああ、入りますけど・・」
上がり框の上でリュックの口を大きく開ける。特に何が入っているわけではない
スカスカのリュックの中に、弥生がカメラを裸のまま突っ込んだ。
ケースに入れなくていいのかと虎之助が聞くと、
「いつでもすぐに写真撮れるようにしとかなきゃでしょ?」
当たり前のこと聞くなとでも言いたげに口をへの字に曲げた。
「よしっ!じゃあ出かけるわよ、ワトソン君」
いきなりホームズかよ、と小さく鼻で笑った虎之助を引き連れて田所弥生は江戸川乱子へと変身した。
「今日のターゲットはね、42歳のサラリーマン。部下の若いOLと頻繁に乳繰り合ってるらしいの。
その現場を押さえるのよ」
地下鉄の車内に響く轟音を隠れ蓑にしてさらりと卑わいな表現を使った江戸川乱子に、
首をかしげながら虎之助が聞き返した。
「チチクリアウって、なんですか?」
真顔の虎之助と目を合わせた乱子は、ウッと絶句してからハァとため息をついた。
「そっか、柳君くらいの若者たちは乳繰り合うなんて古典めいた言葉なんか使わないか。
ようするにね、エッチしてるってことよ」
「ああ、なるほど」
昔の人っていろんな言葉を持ってるんだなぁ。
そして言葉には日本語のしなやかさが感じられる。学生の頃に比べたら格段と本を読む時間が増えて、
文章の中に揺らぐ言葉の耳触りと雰囲気が理解できるようになってきたと虎之助も自覚している。
エッチ、よりも乳繰り合う、という言葉のほうが色気がある。
「乳繰り合うっていう言い方のほうがいかにも浮気してるって聞こえますね。日本語って不思議だなぁ」
自分の言葉に酔いしれながら視線を宙に泳がせると、週刊誌の中刷り広告が目に入る。
まさに今話題の政治家の不倫騒動の見出しが大きな文字で書いてある。
なんでそんな事するのかなぁと虎之助は鼻を鳴らす。そして隣で電車の揺れに身を任せる江戸川乱子こと弥生をチラリと見る。彼女も浮気の犠牲者なわけで、でもその悔しさや苦しみを原動力にしてか
悩める同類たちのために一肌脱いで、いや商売をしていることに、
なんとも言えないたくましさのようなものを感じていた。
電車のスピードが落ちてきて、しだいに明るいホームが近づいてくる。ここで降りるよと乱子が虎之助の腕を突く。ホームに吐き出されると人の波に乗ったままエスカレーターまで流されて、地上に出てから
そこが新宿だとわかった。いくつもの出口や通路が迷路のように入り組んで、東京23区育ちの虎之助でさえいまだに出口を間違えたり自分の居場所がわからなくなったりする。
加えてものすごい数の人、人、人。はぐれないようにと江戸川乱子の後にピタリとついて歩く。
やっとのおもいで地上に出でも、ここもまた大勢の人であふれかえっていた。
「まずはゴンスケたちのオフィスが入ってるビルに行くわよ」
「ゴンスケ?」
「あだ名よ、対象者の。人前や公共の場所では本名を出さない事、いいわね?」
これだけの人があふれかえっているのだから、もしかしたら近くに対象者の知り合いや関係者が
いるかもしれない。万全を期しておけばそれに越したことはない、というわけだ。
一度もへまをしたことのないという江戸川乱子所長の仕事ぶりをしっかりと学ばなければと
虎之助の手にも力が入った。
新宿の南口にできた大きなバスターミナルを正面に見てから右へと甲州街道を進む。
信号を2つ超えてから細い道へと入り、立ち並ぶ雑居ビルの中でも少し大きめのビルを指差して
乱子が立ち止った。
「あのビルの4階に入ってる広告代理店がゴンスケ達の働いている会社なの」
「へぇ、広告代理店。なんかクリエイティブな仕事でかっこいいっすね。
じゃあゴンスケさんって見た感じもかっこいいんですか?」
「さん付けなんかするこたあないわよ!それにゴンスケは見た目はちゃっちいの!
私の好みじゃあまずないわね。あんなブヨブヨしたおっさん、どこがいいのかしら?」
言いながら乱子がバッグの中から写真を取り出して虎之助に見せた。依頼人が持ってきたものだろうか、小さな子供一人を挟んでピースサインをするぽってりとした体型の男。
人は悪くなさそうな顔つきだけど、確かに不倫だとかの色恋が似合うようには見えない。
じっと写真を見続ける虎之助に、乱子はぽつりとつぶやく。蓼食う虫も好き好き、だからね、と。
さすがにその意味は解る、と虎之助はうんうんと頷く。
それに、好みの問題だけじゃないんだろ?浮気って。それも理解できる。
お金の有る人に引っ付いていく事も貧乏でもバッチリ自分のタイプだからという事も、
世の中の掟を破るという事に変わりはない。
「なんでこんな事するのかわかんないけど・・とにかく依頼人が苦しんでるってことはよくわかります。
だから調査を依頼してきたんですよね・・」
「そうよ。自分がこれだけ苦しんでるんだから相手にも大きなお灸をすえてやらないとって、
思う気持ちはよくわかる・・でもね、必ずしも依頼人が女性とは限らないからね」
「えっ?奥さんのほうが浮気?ですか?」
「あるわよぉ、そりゃ。男も女もどっちもどっち、でしょ・・おっと!出てきた!」
反射神経の良さを見せつけるかのように、江戸川乱子は虎之助を突き飛ばしながら電信柱の影に隠れた。一瞬虎之助の体は電柱から完全にはみ出したが、素早く体勢を戻し電柱と乱子と一体化して陰に隠れる。様々な騒音にかき消されているであろう息を殺し、ビルから出てきた男女に視線を注いた。
「いつものパターンね。取引先へでも行くんだろうけど、だいたい木曜の昼前くらいから
2人で出てくるの。ランチしてからどっかのオフィスに30分ほどいて、その後ホテルに行くのが
パターンね。もう2回尾行してるけど2回ともそうだったから、たぶん今日も同じだと思うわ」
ゆっくりと歩き出した乱子と並んで虎之助も歩調を合わせる。ジリジリと照りつける日差しに
手をかざしてから乱子は日傘を差し、虎之助は手にしていたペットボトルの麦茶を飲みながら、
あくまでもさりげない動きでゴンスケ達の後を追った。
2人はまず大通りに出てから大手牛丼チェーン店に入り、ものの20分ほどで食事を済ませて
出てくると、山手線に乗って五反田で降りた。駅にほど近いきれいなオフィスビルに入っていったのを
見届けてから、乱子が虎之助に見張りを託した。
「ちょっとトイレもかねてコンビニ行ってくるから、おにぎりかなんか買ってくるわね」
そう言い残して乱子がその場を離れると、途端に緊張と不安がのしかかってきた。
いきなり一人で張り込みなんて。どうしてりゃいいんだろう。テレビドラマで見るみたいに
腕組みをしながら電信柱にかっこつけて寄りかかって出入口を見張ってればいいのか?
まさに昨夜見た刑事ドラマの中の若手俳優のように斜に構えて気取ってみた。
時折通り過ぎるOLにジロリと見られたが、その冷たい視線に耐えながら乱子の戻りを待った。
ほんの5~6分の間だったろうが、乱子が戻ってくるまでの時間はものすごく長く感じた。
だから乱子の声が聞こえた時には足元の力が抜けて座り込みたい気分になった。
「おまたせ。まだ入ったばっかりだからね、当分出てこないだろうから、おにぎりでも食べて」
差し出されたコンビニ袋の中にはおにぎりが3つと菓子パンも2つ入っていた。
立ったまま、それも電柱の陰に隠れておにぎりを食べるなんて今まで経験の無い事。
隣でメロンパンにかぶりつく探偵事務所の女所長はこれまで何度も経験しているのだろう。
それも1人で。通り過ぎる他人の目などお構いなしでパンを食べ進める。
時々ペットボトルのお茶を喉に流し込み、パンを食べ終えると次はおにぎり、と普段通りの食事を
堪能しているように見える。負けじと虎之助も2つ目のおにぎりを食べ終えると
ソーセージののったコッペパンの袋を開けた。
「弥生さん・・いえ乱子さんていつもこれを一人でやってたんですよね?すごいっすね!」
唇の端についたマスタードソースをペロリと舐める虎之助に、だって商売だもん、と
探偵事務所の女所長はさらりとかわした。
「最初はそりゃ恥ずかしかったわよ。っていうより張り込みしながらおにぎり食べるなんて
できなかった。でも慣れって怖いよねぇ、おなかすいたらなんか食べたいじゃない?
ああもう我慢できないってなったら恥ずかしさとかなんとかはすっ飛んじゃったわね」
先に食べ終えた乱子が虎之助のリュックの中からカメラを取り出し、体勢を整える。
いつまでも満腹の腹を擦ってのんびりしてはいられない。ビルの出入り口だけに神経を集中させて、
ゴンスケ達が出てくるのを待った。
「いい?柳君、ここからが重要な時間になるからね。これから必ずホテルに行くから、こいつら。
ホテルに入って出てくる、その現場をしっかりと押さえるのよ」
「はいっ!」
威勢のよい返事は思いのほかでかい声で、思わず乱子は声デカいよと虎之助の腕を叩く。
すみません、と何度も首をうなだれていると再び乱子が腕を叩いた。
「出てきた!」