弥生の過去 2
虎之助は息を止めたまま、このまま呼吸ができなくなるんじゃないかと
パニックになりそうなほど驚いた。離婚はもはや珍しい出来事ではない。
学生時代に付き合いのあった友達や中学高校の同級生の中にも親が離婚した、なんて話は時々耳にした。だから弥生が離婚していた事に対しては特別驚きはしないが、
浮気が原因で離婚して、浮気調査専門の探偵事務所を開くことにしたなんて誰が想像できるもんか・・
あの顔は、きっとその時の嫌な思い出を蘇らせてしまったに違いない。
余計なことを聞いてしまった、と虎之助の肩は縮こまり、のどがカラカラに乾いているのに
目の前の飲み物を手に取る事すらできずに固まってしまった。
「あなたがそんなに暗くなることないでしょ?それにもう15年も前の話なんだから」
弥生の声に少し顔をあげると、手の付けられていなかった海藻サラダに箸が突っ込まれたのが見えた。
野菜の上に丸くまとめられて盛り付けられている海藻の半分以上を自分の皿に取り、
レタスやトマトも箸でごそっと挟みあげると、そのまま大きく開けた口の中に押し込んだ。
シャキシャキと咀嚼の音を立てながら、弥生はサラダの大皿を虎之助の前に押しやった。
「今の私をよく見て。別に死にそうな顔とかしてないでしょ?
逆境をビジネスに結びつけちゃうんだから、たくましいでしょ?
人生には思いもかけない出来事がいくつもある。
私なんかよりもっと不幸な目にあってしまった人だっていっぱいいるのよ。
それを思えばくよくよなんてしてらんない・・私のできることで誰かを助けられるなら・・
そこで考えついたのが浮気調査専門の探偵事務所なの」
ひとしきりしゃべり終えるとグレープフルーツサワーをまるで水を飲むかのように喉に流し込む。
江戸川乱子こと田所弥生の奇抜とも言える発想から生まれたこの商売。
その手伝いをするために雇われた自分・・当たりくじだとはもう言えないか・・
「いわゆる・・仕返しってやつですか?」
虎之助!その通り!と間髪入れずに弥生が叫ぶ。デカい声だと思ったけど、
同時にカラカラと戸が開く音と大将のいらっしゃいという大声が重なったから、
たぶん他の客は気にも留めていないだろう。
はっはっは!とおばさん特有の笑い方に虎之助もつられて笑う。
そして思う。マレーシアのおじさん達より弥生の話のほうがよっぽど面白い、と。
結局、閉店まで弥生の酒につき合わされ、途中で加わってきた女将のミヨちゃんにからまれ、
虎之助はこれまで飲んだことのないくらいの量の酒を飲まされた。
サワーを4杯、ビールも1杯飲まされた。シメには緑茶で割った焼酎を飲まされ、
気づいたら終電まであと10分という時間になっていた。
「あのぉ・・もう終電に乗れなくなっちゃうんで・・でも・・走れないっす・・」
「じゃあウチに泊まればいいわよ」
「えっ?でも・・」
雇い主のお言葉はありがたいが、女性の一人暮らしの家に若い男が泊まったりしてもいいのだろうか。
まあ間違いはまずないが。
「柳君は下の休憩室で寝ればいいんだから、なんにも問題ないわよ。お布団もちゃんとあるから、ね?
寝床の提供だけだから、遠慮しないでそうなさいよ」
そうだそうだ泊まっちゃえ、とミヨちゃんと大将が歌うように援護射撃する。
迷っている間に時計の秒針は何度も一周を繰り返し、とうとう終電の時間になってしまった。
覚悟を決めた虎之助は、お世話になりますと頭を下げた。
「よしっ!じゃあ帰るか」
テーブルに手をついて立ち上がると、そのまま店を出ようとした弥生の服の背中を
ミヨちゃんが掴んで引き戻す。
「ちょっと!お金払ってから帰りなよ、無銭飲食なんて誰がさせるかってんだ!」
「あれぇ?払ってなかったっけ?悪い悪い!酔っぱらっちゃってさぁ」
全然足取りがしっかりしてるくせに、と虎之助はわざとらしい寸劇を鼻で笑う。
その反面で、こんなに歳とってもこれだけ仲良くしていられる友達がいて、
弥生のことを、そしてミヨちゃんのこともうらやましいと思った。
帰る前にコンビニに寄ろうと弥生が言い出したので、焼肉屋「太郎」を出ると
コノミ書店とは反対方向の通りへと歩く。
コンビニに入ると欲しいものをかごに入れろと弥生に渡された。とりあえず水、それと缶コーヒー。
それだけ入れたかごを見せると、弥生がアイスクリームを種類取り混ぜて4つほど放り込み、
食パン一斤を足してからレジに持っていく。
会計している間、弥生の後ろに突っ立っている虎之助のことをレジのにいちゃんがチラチラ見ている。
きっと変な想像してるんだ。
弥生の事を社長、と呼んでもその想像内容は変わらない。どうとでも思ってくれ、と開き直りの気持ちが虎之助の背筋を伸ばす。店を出る時も堂々と胸を張って弥生の後をついて歩いた。
しんと静まり返る神楽坂の細い路地に靴音を響かせて、虎之助は弥生の後ろを歩いていく。
同じ東京23区でも渋谷の夜とじゃ大違いだ。虎之助の住む千駄木ともまた違う。
生活の匂いよりも夢だとか憧れだとかを提供してくれる街でもあり、人々の日々の暮らしのの営みを
見守る町でもある。いろんな顔を持っているんだ、東京は・・
猫が少し先を横切る。街灯の下で立ち止った猫は、虎之助たちをじっと見ている。その猫にむかって「あら、ポン太、夜遊びしてんの?早くおうちに帰んな」と弥生が声をかけると、
ものすごい瞬発力で壁を乗り越えていった。
店をでた時には気づかなかったが、コノミ書店の入り口の上に、
真ん丸の外灯がオレンジの淡い光を放って家主の帰りを待っていた。
昔の古い映画、横溝正史の小説の映画の中に出てくるような雰囲気だと虎之助が呟くと、
「ちょっと、いつの時代と一緒にしてんのよ?だいたい、あの映画ってそんなに昔じゃないじゃない、
私が小学生の頃だから」
それを昔というんだ、と虎之助は心の中だけで呟いた。うっかり声に出そうものなら
このしんとした住宅街に怒鳴り声が響き渡る事になるだろうから。
コノミ書店の夜は鋭いほどの静けさだった。
電気をつけるとかすかなモーター音が聞こえるだけ。
弥生が上がり框に置きっぱなしていた荷物を足で端に押しのける。
右側の休憩室に入っていくとすぐに布団を敷いてくれた。
「私、明日も調査の仕事で出るから7時くらいにはたたき起こすわよ」
反射的に腕時計を見る。1時を過ぎていた。
「あ、はい、わかりました」
和室の隅っこに正座して待つ虎之助に、好きなやつを食べて残りは冷蔵庫、といつものように
短く命令して、おやすみと食パンを手に階段を踏み鳴らしながら2階へと上がっていった。
再び静まりかえる部屋の中に、ゴソゴソとコンビニ袋をかき回す音が響く。
ソフトクリーム型のアイスを取り出してから、すぐ隣にある小さなキッチンの冷蔵庫に残りを入れて
戻ってくると、布団の上に胡坐を掻いてアイスを頬張った。
頬張りながら、弥生との会話を頭の中で反芻した。
焼肉屋「太郎」で弥生のピッチの速い酒にこっちのほうが酒に酔いそうだと時折生あくびをした。
そんな虎之助の様子にはお構いなしの弥生は、虎之助の質問に答えるだけでなく、
自分の中の想いもそのまま聞かせてくれた。
こんなに歳がはなれている大人の女性と話を弾ませたのは、初めてだった。
「なんか・・自分でも不思議に思います。こんなにすぐになじめるなんて」
「そう?そう言ってもらえてよかったわ。正直迷ったのよね、バイトを雇うの。
今までは自分一人だからすべて自分の思い通りだったけど、そういうわけにもいかなくなるし、
だいたいうまくやっていけそうな子が来てくれるかどうか、まずそれが心配だったわ」
「なんでバイトを雇おうと思ったんですか」
「やっぱりね、体力の問題は大きいわね。女は50超えると急にあちこちガタが来るからね、
こりゃ限界かなぁって」
「えっ?弥生さんって50超えてんですか!」
張り上げた虎之助の声を店のざわめきの中から聞き取ったミヨちゃんがすかさずテーブルにやって来た。
「ねえ!虎ちゃん、50越えって聞いてどう思った?歳より若く見えるなって思った?
それともそんなに歳いってるようには見えないって思った?あたしたち」
よくよく考えればその二通りの考えは云い方こそ違え結果同じじゃないか。
50越えてるようには見えないだろうと念押ししているミヨちゃんを見上げながら、
弥生も同感とばかりに顎を引く。
「私達、今年で52歳になるの、とてもそんな歳には見えないでしょう?」
社長の言う事にいいえというわけにもいかない。
が、実際虎之助から見ても歳よりは若い印象があるのは事実だ。
初めてコノミ書店で弥生と顔を合わせた時、40か50か、どの位置なのか判断がつかなかった。
「確かにお若く見えます、お二人とも。とても50過ぎているようには見えないですよ」
いつ、どこでこんな大人の対応を身につけたのか自分でも記憶にないが、
あの時の自分の言葉は100点をつけられるよな、と背中を丸めて思い出し笑いをした。
ふと、ちゃぶ台の上のスマホに目をやると、2時近くになろうとしていた。夜中の2時。
そう確認したとたんに眠気が襲ってきた。
スマホのアラームを7時にセットして、虎之助は布団の上に転がった。
いつも寝ているベッドと違う地に体がつく安定感に多少の違和感を覚えながら、
しだいに夢の中へと吸い込まれていった。
*
細かな音で目が覚めた。
それは2階から聞えてくる。まな板と包丁のぶつかり合い。
その後に熱さに悲鳴を上げるような何かを焼く音。そして虎之助の鼻を擽るコーヒーの香り。
枕元に置いたスマホで時間を確認する。6時53分。画面の真ん中にドンと大きく居座る数字に、
一旦は目をしかめたが、ここが自分の家ではない事を思い出し、慌てて体を起した。
昨夜はコノミ書店に泊めてもらったんだった。
焼肉を腹いっぱい食べて、今まで飲んだことの無い量の酒を飲み・・と、それを思い出したら
急に頭がズキズキとしてきた。
大きく伸びをして、布団から這い出て布団をたたんでいると、階段を下りてくる音が聞こえてきた。
足音はそのまま応接室へと続いていく。その足音の続きを少しの間じっとして聞いていると、
またすぐに二階に上がっていき、ほんの何秒かでまた下に降りてきた。
ドンドン、とふすまを叩く音の後、弥生の声がした。
「柳君、起きてる?」
虎之助は起きてますと返事をしながらふすまを開ける。
朝の、まだ疲れを知らない弥生の顔は、いつも見るよりも若々しく見えた。
「おはようございます。昨夜はありがとうございました」
「よく眠れた?」
「あ、はい、ぐっすりと」
「よかったわ。朝ごはん出来たから、応接室に用意したから召し上がれ」
もう一度弥生は二階へと上がっていく。その間に虎之助は応接室のテーブルに並べられた
目玉焼きとサラダとトーストのフルコースに喉を鳴らしながら弥生を待った。
コーヒーの香りが近づいてくる。マグカップにたっぷりと注がれたコーヒーが目の前に置かれると、
鼻の奥が香ばしい匂いにくすぐられた。
「いただきます」
みずみずしい野菜を口に押し込むと、体の中まで潤うような、すがすがしい感覚。
早起き、というほどの時間ではないが、いつもの日曜の朝とは空気さえ違って感じた。
「あの、今日も仕事って浮気調査ですよね?」
「そうよ」
「日曜と月曜が店の定休日ですけど・・調査の仕事は定休日は関係ないんですか?」
「当ったり前じゃないのよ!」
口の中にパンが残っているにもかかわらず、弥生はすかさず返してきた。
もごもごと咀嚼して、残りのパンをごくんと飲みこんでからトントンと胸のあたりを叩いた。
「カップルによってだいたいパターンが決まってくるのよ。家庭もちだと大抵は日曜は動かない。
子供がいたりすると日曜は家族サービスしなきゃならないからね。それでも人によっては
日曜に行動する奴らもいるからね。今回のターゲットは日曜に動くことが多いの」
なるほど・・ということは、自分がこっちの、いわゆる裏仕事を振られたら
定休日関係なく仕事にでなきゃいけないってことか。
「具体的にはどんな事をやればいいんですか?僕は。やっぱ張り込みとかですか?」
「それが主ね。尾行して、ホテルとか入っていったらその瞬間を写真に収めて。
あ、もちろんカメラは事務所にあるから。おっきなレンズのついた一眼レフよ。
カシャカシャ連写するのって気持ちいいわよ」
「でも・・僕使ったことないんですよね」
今時はスマホがカメラ。その前だってケータイで写真撮るのが普通の時代に生きている虎之助には、
一眼レフカメラなんて縁遠い。高校の時、クラスに鉄道オタクがいて、撮った写真を見せながら
カメラの自慢もしていたけれど、そいつみたいに撮りたい被写体があるわけじゃない人間としては、
その機能の素晴らしさは右の耳から左の耳へと抜けていった。
「そっちの仕事を任せるようになったらカメラの使い方も教えるから、そんなにかまえなくても
大丈夫よ。まあ当分は本屋の仕事と報告書作りに専念してもらうから」
「あ、はい、がんばります」
そう返事をした後、弥生の後ろに見えるスチール棚に目がいった。
これまでどんな事件が、いやドラマが、どういう終りを迎えたのか、
この棚の中にそのすべてが詰まっている。何ヶ月かしたら自分もこの中に完結したドラマを収めることになるのかと思うと、頭の中で小さな興奮が躍り出した。
そんな事を考えているあいだに弥生の皿の上はきれいに片付いていた。
虎之助も急ぎ気味でパンを口に押し込み目玉焼きの黄身を丸のまま器用に食べる。
20分足らずで朝食をたいらげて、ごちそうさまでしたと両手を合わせた。
「悪いわね、慌ただしくて」
のんびりと腹を休ませる間もなくテーブルの上を弥生と共に片付け、
一足先にコノミ書店を出ることにした。
「じゃあ僕は先に失礼します。どうもありがとうございました」
「どういたしまして。また明後日からよろしくね」
もう一度ありがとうございましたと頭を下げて、虎之助は勝手口から表に出た。
日曜の静かな朝。まだ8時前だから余計に静けさが際立って、心地いい。
細い路地から駅へつながる道に出ても、人はほとんど歩いていない。
すれ違う人のいない歩道を体を開いてのんびりとした足取りで歩く。
穏やかそうな町に面白そうな仕事のために通うこれからの日々を想像しながら、青空を見上げた。