弥生の過去 1
慣れる、ほどの仕事はしていない。まだコノミ書店で働いて3日め。
一日に店に来る客は、虎之助の想像よりも多かった。
初日に抱いた印象だと日に10人くらいしか来ないのでは、なんて軽く思っていたが、
実際店に入ってきた客は100人近くに上った。その全員が本を買っていったわけではないが、
売り上げは一万円前後あった。
神楽坂という場所柄か、観光目的っぽい、特に女性がふらりと入ってくることが圧倒的に多い。
だいたい2人組くらいで、目的を持たずに歩いているらしく、
店の前で古民家を見上げて歓声を上げてから入ってくる。
ガラガラ、と引き戸が音をたてるとさらに笑顔がはちきれる。
昭和の香り漂う空間に、異世界を見るかのように目を輝かせている。
大半の客は狭い店の中で棚に並ぶ本をじっくり見るその合間に虎之助に目を向けて、そして出ていく。
古民家で営む小さな本屋のレジ前に座っているのが若い男子というのが意外性があるらしく、
店員をも吟味するかのような視線を何度となく浴びた。
そうやってなんとか2日目の閉店を迎えた昨日の夕方、引き戸に鍵をかけカーテンを引いていると、
虎之助の背後から乱子こと弥生がポンポンと肩を叩いた。
「柳君、明日の土曜の夜は何か予定あるの?」
「え?いえ、別にないですけど・・」
「そう、じゃあ明日の夜、柳君の歓迎会をやりましょう!この近くに評判の焼肉屋があるのよ。
もちろん私のおごりだから、どう?」
虎之助の表情は勢いよく開いた。
「行きます行きます!ありがとうございます」
タダで焼肉、と一番はそこに魅かれたが、たった一人の従業員のために歓迎会をしてくれる、
それも虎之助の心を浮き立たせる要因となった。
「じゃあ明日の夜、お店閉めたら行きましょう。さっそく予約しておかなきゃ」
弥生もどことなく嬉しそうで、手にしていたスマホでさっそく焼肉屋に電話を入れ、
明日の夜6時半に2名で、と声を弾ませた。
そして勤務3日目である今日の夕方。
あと1時間で店じまい、という時間になって、一人の女性客がやってきた。
その女性は本には目もくれず、虎之助の前に立った。
「あの・・コノミ探偵事務所というのはこちらでよろしいんですか?」
どうやら調査依頼の客らしい。だが江戸川乱子は今不在だ。
現在進行中の調査で外出し、戻りは閉店時間くらいだと言っていた。
その事を告げ、教えられたとおり名刺を渡し後日連絡をして予約を取ってほしいと伝える。
女性は名刺を受取り、帰ろうとして本棚にチラリと目を向け、
迷わずに1冊の本を取り出してレジに持ってきた。
「これ、お願いします」
「あ、ありがとうございます。カバーはおかけしますか?」
虎之助の問いかけに、どんなカバーかと女性は聞いた。
取り出して見せてやると、お願いしますとにっこり笑った。
カバーを掛けながら、しっかりと表紙を見る。
松本清張の本だ。だがタイトルだけじゃどんな内容なのかまではわからない。
あとで江戸川乱子に聞いてみよう。
虎之助の手から女性に本が渡されると、ありがとう、と静かな声で軽く会釈して店を出て行った。
6時の閉店時間を迎え、ガラスの引き戸に鍵をかけ、カーテンを引き、
レジのお金をまとめているところへ弥生が戻ってきた。勝手口からただいまとはずむ声が聞えると、
なんだか家族が帰ってきたような気分になった。
「お疲れさま。何事もなく無事に閉店?」
暖簾の間から顔をのぞかせた弥生に、さっそく今しがた来た客の事を報告した。
「乱子さんの名刺を渡しておきました。後日予約の連絡くださいって、ちゃんと言いました。
その人、ついでに本も買っていってくれたんですけど、清張のこの本なんですけど、
どんな話か知ってますか?」
売れた時に、挿んである栞みたいなのを回収する。そこには本のタイトルやら出版社やら
もろもろ明記されている。その紙を見せると、弥生はゆっくりと二、三度うなずいて、
口元をニヤリとあげた。
「これね・・簡単に言うと、不倫の話よ」
それを聞いて、虎之助の脳みその中でまるで点と線が繋がったように納得した。
浮気調査専門のコノミ探偵事務所にやって来た客が買って帰ったのが不倫ネタの本。
わりときれいな人だったけど、目に氷のような鋭さがあった。女性の中に渦巻く感情の表れなのか。
虎之助が語った女性の印象を聞いた弥生は、
「美人だからって浮気されないとは限らないわよ。見た目とかって、案外関係ないのもんなの。
フッと魔がさす瞬間みたいなのがあるんだと思うわ・・」
手にした栞状の紙を指先で挟んでひらひらと遊ばせながらつぶやくようしてに言葉を押し出した。
その時の弥生の横顔が強烈な印象を放っていた。
きれいだけど冷たい雰囲気が、さっきの女性と重なって虎之助には見えた。
「さ、支度して、焼肉食べに行きましょ」
大きな荷物を上がり框に置き去りにして、弥生は小さなバッグを腕にかけ、虎之助の背中を押した。
*
店を出て、路地を進んで大きな通りに出る手前に、縄のれんの下がった店が見えた。
赤提灯に「焼肉」と書いてぶらさげてあるところが、
実際には体験したことのない昭和の時代を見ているような気がした。
虎之助の関心が赤提灯にあることに気づいた弥生は、
「中も昭和な雰囲気よ。なんたって七輪で焼くんだから」
そう言いながらカラカラと小気味よい音を立てながら戸を開けた。
「いらっしゃい!」
威勢のいい声の主が弥生と、その後ろからそろりとついて入ってきた虎之助に目を向け、
「おや、たーさん、めずらしいじゃないか、若いツバメなんか連れてくるなんて」
と一瞬動きを止めて2人に見入った。
「なに冗談言ってんのよ!この子はうちで新しく雇ったバイトくんよ、よろしくね」
「あらあ、かわいい子じゃないの、名前、なんていうの?」
横から突然口を挟んできたのは弥生くらいの年頃の女性で、
カウンターの中にいる大将の奥さん、つまり女将さんだと弥生が早口で説明した。
その女将さんにむかって柳虎之助ですとちょこんと頭をさげると、
あらかわいい!と虎之助の腕をとって予約席へと引きずるようにして連れて行った。
テーブルに着くとすぐに大将が七輪を持ってきた。
テーブルの真ん中は真四角に少し低くなっている。例えるなら掘りごたつの様に。
そこに七輪を置くと肉を焼くのにちょうどよい高さになる。
画期的で今風の椅子テーブルにレトロな装飾が合わさっている、今まで縁の無かった
大人の雰囲気を虎之助は感じた。
「柳君、何飲む?」
顔をあげて店の中を見回している虎之助に弥生はドリンクメニューを差し出した。
「じゃあ・・レモンサワーで」
「あら、サワーから始めるの?まだ大人になりきれてないわねぇ」
「え?なんでですか?」
虎之助の問いかけに答えることなく、弥生は女将さんにレモンサワーと生ビールを頼んだ。
すぐに運ばれてきたビールとサワーのジョッキを掲げると、
カンパイの一言でガチンと合わせるのかと思いきや、弥生が咳払いをしながら声の調子を整えだした。
なので当然、虎之助もジョッキを持ち上げたまま次なる動きを待った。
「え~このたび、わがコノミ書店に新たに加わってくれた仲間である柳虎之助君の
今後の活躍に期待して・・カンパイ!」
不意打ちを食らったようにいきなり虎之助のジョッキに自分のジョッキをぶつけてから弥生は、
喉を上下させながらビールを飲む。
虎之助のジョッキは衝撃でレモンサワーが波を打ちジーンズの腿にシミを作った。
ジョッキの半分ほどを一気に飲んでから、弥生はメニューを見るために眼鏡を取り出した。
じっくり見てから虎之助の方にメニューを向けて、好きなものを頼みなさい、と
手をあげて女将さんを呼んだ。
「はいはい、虎ちゃん、なににする?」
女将さんはさっそく虎之助を虎ちゃんと呼ぶ。
「ちょっとミヨちゃん、さっそく若い男子に目をつけたわね?でも引き抜きだけは絶対やめてよね」
「引き抜き?」
首をかしげる虎之助を挟んで熟女が声をあげて笑う。
ウチのほうがいい給料だすよっていう引き抜きのことだと弥生が説明すると、
今度は虎之助が笑い声をあげた。
「お二人は仲がいいんですね」
「そう、だって、幼なじみだもん」
女将のミヨちゃんが答えると弥生が大きくうなずいた。
「あっ!そうなんですか!え、じゃあもしかしてお二人ともこの神楽坂育ちなんですか?」
「うん、ここが地元。店もね、私が生まれ育った家を改築したのよ」
風格ある佇まいの古民家、今はコノミ書店となっているあの建物は弥生の実家だった。
都会のど真ん中、格式高い雰囲気が漂うこの神楽坂で、
二人はランドセルを背負って細い路地を駆け抜けていたのか。
実際の年齢は知らないが、おおよその見当で自分が生まれるよりもずっと前の風景だろう。
今ではコンクリートジャングルのようになっている東京23区も、彼女たちが子供の頃は
きっと素朴な生活感にあふれていたのだろう。
だって、コノミ書店はあんなにも人の息づかいが感じられる、温かみのある家なのだから。
「じゃあ店舗兼住宅ってことですか?」
「そうよ、住まいは2階。一人暮らしだからスペースは十分。通勤時間ゼロだからあれこれできるのよ」
「ちょっと、話の前に早く注文しなさいよ!
今夜はヒレは二人前しかないんだから、さっさと頼まないと他の客にとられるよ!」
隣りに突っ立って話に付き合っていたミヨちゃんはしびれを切らして急かしだした。
弥生にだけでなく虎之助にも。
虎之助は、好きなものを頼んでいいという言葉をありがたく受け取り、
極上タンとハラミとカルビ!と声をあげると、それにヒレ二人前と弥生が付け加えた。
ほどなくして赤々とした生肉ののった皿がテーブルいっぱいに並べられ、
美味しく食べられる分量だけを網の上にのせ、食べ頃になると虎之助の取り皿に乗せてやる。
熱々のうちに食べられる2枚3枚くらいを、食べては焼き、食べては焼きを
まるでリズムに乗るかのようにして弥生は繰り返した。
「はあい、お待ちどうさま」
弥生のリズムが止まると同時くらいに、女将のミヨちゃんが2つの皿を持ってきて、
それぞれの前に置く。本日二人前しかないと言っていた、ヒレステーキだ。
「これはうちのが鉄板で焼いたのよ。これだけ厚みのあるお肉は炭火で素人が焼くよりも
プロが焼いた方が美味しいからね」
ミヨちゃんは自慢げな眼差しを大将に向ける。目を合わせた夫婦は
こっちが恥ずかしくなるほどのデレデレとした笑顔をかわしていた。
「まったく見てらんないよ、年がら年中一緒にいるくせにさ!よくお互い飽きないでいられるよね!」
鼻の穴を大きく膨らませて弥生は言葉を吐き捨てる。
仲睦まじい焼肉屋夫婦の姿がそんなに気にいらないのか。
虎之助はレモンサワーを飲み干しながら弥生の怒りの理由を想像した。
だがこれといって思いつかなかった。
それよりも、早くこの美味そうに焼けているステーキを食べたい。
一切れを箸でつまんで目の高さまで持ってきて、ほんのり赤い半生の断面を眺めてから口に入れた。
「うわっ!ウマい!こんな美味い肉初めて食ったかも!」
「よかった!喜んでもらえて」
さっきまでの機嫌の悪そうな目つきから一変して、弥生の表情は普段通りの美魔女顔に戻っていた。
肉は一気に平らげられ、ご飯ものや野菜をメニューから選び出してから、
弥生が注文していた生絞りグレープフルーツサワーのグレープフルーツを虎之助がグイグイと絞る。
さっそく若い男子の体力を借りて楽をする構図が出来上がった。
「あ~ありがと~!柳君は気が利くわねぇ」
ご満悦、というのはこういう顔のことを言うのだろうと、虎之助も満足げに頷いた。
「ところで・・聞いてもいいですか?」
ほろ酔い加減なら口も軽くなるだろう。いろいろ聞いてみたいと思っていたことを、
まず思いついた質問からぶつけてみた。
なぜ本屋をやろうと思ったのか、という問いかけにはありきたりの答えしか返ってこなかった。
本が好きだから。ただ、好みの本だけを置くというのは、
よその本屋との差別化と話題性を狙ったのだと、サワー片手に弥生はビジネス論を一席ぶった。
「じゃあ・・なんで探偵事務所なんてやろうと思ったんですか?それも浮気調査専門なんて。
かなり特殊ですよね?実は儲かるからとかですか?」
その時タイミングよく海藻サラダを持ってきたミヨちゃんは、なにも口を挟まず
黙ってテーブルを離れた。
今の、半分ウケも狙った虎之助の質問はミヨちゃんにも聞こえていただろうに。
さっきのポンポンとしたやり取りを見せた幼なじみはなぜか無言で背を向けた。
弥生も、口元だけは笑っていたが目は笑っていなかった。
「私ね・・」
少しの沈黙の後、弥生は細長い息を吐いてから話を続けた。
「浮気されて離婚したのよ」
「えっ!・・」