裏路地の小さな本屋兼探偵事務所
古民家の前に立ったのは9時20分。
開店の準備があるから10時よりも前に出勤しろと言われたが、
具体的に何分前と指示されたわけではない。虎之助の感覚で40分前に来た。
ギリギリに来るのは性に合わない。
前のバイト先でも5分前に駆け込んでくるヤツが結構いたが、余裕で職場に着き、着替えを済ませてからのんびりと缶コーヒーを飲むのが自分流。だいたい25分か30分前くらいに出勤していたが、
弥生からは開店前の準備も仕事に含まれると言われていたので、
とりあえず初日は早めに来ることにした。
引き戸に手をかけると、開かない。あれ?なんで開かないんだ?
何度かガタガタと引き戸を動かしてみた。その音に気付いたのか、弥生の声が家の中から聞こえた。
カーテンをシャッと勢いよく引く音に気を取られていると、ガラスの向こうに弥生がぬっと立っていた。お互いガラスに顔を近づけていたので、ビックリしてひるんだ虎之助は後ろに飛び跳ねた。
「おはよう、早いのね。いい心がけだわ。次からは勝手口から入ってちょうだい」
戸を開けた弥生はそのまま虎之助を引き連れて表に出ると、勝手口の場所を教えた。
店に入ってから弥生は、カウンターの引き出しから鈴のついた鍵を取り出して虎之助に渡した。
「これが勝手口の鍵ね。たいていは鍵を開けておくけど、私が出張したりしていない時には
柳君が自分で開けて、帰りもきちんと戸締りしてちょうだい。失くさないようちゃんと持ってるのよ」
コロンコロンと深みのある音を奏でる鈴がついた鍵。耳元で鈴を鳴らしてから虎之助は、
自分のキーチェーンに付け加えた。
「じゃあさっそく、店の前の掃き掃除。その次に店の中の掃除、よろしくね」
弥生はあらかじめカウンター横に置いておいたほうきとちり取りを、虎之助のリュックと交換するようにして手渡した。
受け取った虎之助は一瞬考え込んだ。店の前を掃除する、ってどうやればいいかはなんとなくわかる。
何十年もやっている国民的アニメの中でそのシーンはしょっちゅう目にする。
家の前の道路をシャッシャッとほうきで掃けばいいんだろう?
ただ、境界線の無い道路をどこまで掃いていけばいいんだろう?・・
「あのぉ・・」
ほうきとちり取りを手にしたまま突っ立っている虎之助の姿に、弥生は斜めに視線をさす。
「なに?どうしたの?掃除の仕方、わかんないわけじゃあないわよね?」
半分怒って半分バカにしているような弥生の眼差しと息遣いに虎之助は身を硬くしながらも
勇敢に問いかけた。
「店の前の道路を掃くっていうのはわかりますよ、ただ、どこまで掃けばいいんですか?
何軒隣までとか、そういうの・・」
「はぁ?あっきれた!そんな事いちいち指示されなきゃできないの?まったく今どきの子は、
もっと自分の頭使いなさいよ!基本店の前だけよ。
でもお隣やちょっと目につくとこにゴミがあったら少し離れていても
ついでに掃いてあげればいいでしょう?臨機応変、そしてお互い様、
これが人情ってもんよ、わかった?」
「あ、はい・・わかりました」
弥生に怒鳴られたおかげでスッキリした。基本店の前。そういう、マニュアル的な一言をもらえると、
たとえそれが怒りの返答であってもやっぱり安心する。そして虎之助は密かに思う。このおばさん、いや美魔女は親や学校の先生よりも実践に役立つ教えを授けてくれそうだ、と。
「わかったらさっさと掃除する!」
一人ニヤける虎之助に弥生の命令が飛んでくる。急に俊敏な動きを見せながら、身長172センチの体を小さく折りたたむようにして、丈の短いほうきで軽快な音を奏でた。
開店の20分前にはすべての掃除も終えると、奥から弥生に呼ばれた。
「コーヒー淹れたから、開店までゆっくりしてちょうだい」
面接の時に通された応接室の向かい側の部屋の中から弥生の声が聞こえた。引き戸は開け放たれ、こちらにも丈の長い暖簾が下がっている。その暖簾を手で払う時、
「この柄・・青海波っていうんですよね?」
布の感触を手のひらに包んで確かめながら、柄の名前を知っている事に
虎之助はちょっとばかし胸を張った。
「あら!よく知ってるじゃない?」
「はい、バアチャン・・いえ、祖母が手ぬぐいが好きで、僕も子供の頃ハンカチ替わりだって
持たされて。そん時は婆臭くて嫌だったけど、
歳とってきたら味わい深さがわかるようになってきました」
「そう、柳君はおばあちゃん子だったんだ」
「隣に住んでますからね。だから両親がそろって出かけちゃう時は隣に行っていて。
っていうか、あずけられるからってよく2人して出歩いてました。
うちの両親、今でもけっこうラブラブなんですよ」
まるで自分ののろけ話をするかのように照れる虎之助と目があった弥生は、スッと視線を逸らした。
一瞬見せた表情をもたない弥生の目が、虎之助はなぜか気になった。
だが当の弥生はすぐさまギアチェンジをしたかように、明るい目元を作り出した。
「ほら、コーヒー、冷めないうちに飲んで。早くしないと開店時間になっちゃうわよ」
「あ、はい、いただきます」
今まで仕事前に飲んでいた甘い缶コーヒーとは比べものにならない。
なんといっても、ちゃんとマグカップで飲めるところが本物っぽくていい。
一杯飲んでカップを捨てることはない。缶コーヒーのように使い捨てられることはない。
毎日、このカップが自分を待っていてくれる。イコール必要とされているのだと、
虎之助のやる気は一気に膨らんできた。
10時に店は開店。といっても客が待っているわけでもないので、店を開けてから仕事の細々とした説明をすると弥生から言われた。
改めて店の中を見回す。3坪という狭さ、というより向かい合う左右の壁に文庫本がきっちり並んでいるだけで、入り口と対面するレジカウンターの内側に座っていればすべてが丸見え。
これじゃあ万引きなんてされるわけがない。
「見ての通りだから・・説明ってレジの使い方とかお金のことくらいね。
銀行へ行って入金だの両替だのってこともあるんだけど・・当分は私がやるからいいわ。
あとは・・そうそう、本のカバーを希望するお客さんがいたらカバー掛けてあげて」
そういうと、レジの棚に置いてあるカバーを一枚取り出した。
「わぁ、きれいな色ですね」
ゴールド一色で、紙の表面には模様のような凹凸があって、
下の方に「konomi book・store」と茶色の文字。
「お客さんに聞いて、カバーしてくれって言われたらかけてあげてね」
弥生は棚から文庫本を適当に1冊取り出してカウンターの上で実演してみせた。
よく本屋で見る光景だから、虎之助もすぐに理解した。
「まあ、解らない場面に出くわしたらその都度説明するわ。お客が来ない間は調査書の作成とか
パソコン使ってやってもらったりお使い頼んだりすることもあるけど、
やる事やり尽くしたら本を読んでいてもいいわよ。
ただし、漫画と、あとスマホでゲームは絶対ダメだからね」
腕組みをする弥生の気迫に、ジーンズの後ろポケットに入れていたスマホがむずがゆい。
「あ・・じゃあ、リュックに入れておきます」
すすっと弥生の後ろを通り抜け、休憩室に置いたリュックの中にしまった。
戻ってきた虎之助にさらに弥生はこう付け加える。
「あと、店にお客さんがいる時には弥生の名前は出さない事。乱子のほうで呼ぶこと。
それか所長って呼ぶのでもいいし。いいわね?」
「あ、はい」
「調査依頼のお客は本屋のほうから入ってもらってるから。依頼人がきたら応接室に通して、
それからここの扉を閉めてちょうだい」
引き戸は窓の無い木製のものだし、暖簾もかかっているから家の奥の様子は全く分からない。
密談にはうってつけだが、店に誰もいないとなると、客を装った誰かがこの戸に耳を押し当てて盗み聞きするかもしれない。それをこの自分がこれから守っていくのだという使命感みたいなものが、
虎之助の内側に湧き上がってきた。
今までこんなふうに、誰かのためになんて気持ちになったことはない。
初めて抱える感情に、戸惑う気持ちも同時に生まれてきた。
ガラガラ・・不意に音がして、虎之助は弾かれるようにして入り口に顔を向けた。
「あの、江戸川乱子さんとお約束してるんですが・・」
来た!さっそく客がきた。隣にいる弥生、いや乱子がにこやかな顔で一歩前に踏み出した。
「いらっしゃいませ。江戸川でございます。ではどうぞ、奥のほうへ」
廊下のほうへ腕を伸ばすようにして客を導き、先に客を通してから乱子は虎之助に
店を頼むわねと目で合図する。黙って頷く虎之助。
二人が奥へと入っていくのを見届けて、虎之助は戸を閉めた。
自分一人の店の空間が、実際の倍以上に感じられた。
開店直後に探偵事務所に来た客が帰るまでの1時間半の間に一人だけ、客がきた。本屋の客だ。
30代くらいか。個性的なファッションと髪形。ファッション系の仕事でもしているのだろうか。
デザインの凝ったスカートだかズボンだかわからないモノを穿き髪形は前髪パッツンの
おかっぱ頭ってやつ。でも顔の作り自体は・・お饅頭のような、良い言い方をすればふくよかさ。
その客は入って来るなり虎之助の顔にジロリと一瞥をくれてから、右側の棚を上から下まで
順繰りに見始めた。まだ虎之助は並んでいる本をろくに見ていない。どんな作家の本が並んでいるのか、いやその前に、どの作家がどんな作品を書いているのかすらわからない。
お饅頭さんが背を向けている方の棚に視線を向ける。最初に見つけたのはもちろん、本家の江戸川先生。そして横溝先生をはじめ有名どころや人気の作家ものがずらりと並んでいる。
ところどころ、虎之助が見たことのない名前の作家のものもあった。
「これ、お願いします」
急に声をかけられて、虎之助はビクッと肩を持ち上げた。レジの前にお饅頭さんが本を手にして
立っている。慌てて虎之助も立ち上がり、うわずった声で返事をしながら本を受け取った。
差し出された本は恋愛小説のようだ。
その本を手に、一瞬動きが止まった。えっと、まず何からすれば・・お金が先か、商品を包むのが先か、迷っているとお饅頭さんが先手を打った。
「カバー掛けてください」
おっ、そうか、まずそれを聞かなきゃいけなかった。はい、と返事をしてからあのゴールド色のカバーを取り出し、弥生の実演通りにカバーを掛ける。なんという題名でなんという作家が書いたものか
わからないままゴールドに輝く衣をまとわされた本と、お饅頭さんが差し出す千円札とを交換するように互いの手の中におさめる。そして教わった通りにレジを開け、釣銭を渡した。
どうも、と平坦な声を残し、虎之助にとっての初めての客であるお饅頭さんは
ほとんど音をたてずに戸を閉めて帰っていった。
再びしんと静まり返った店の中、虎之助はゆっくりと歩きながら棚の本を目でたどった。
お饅頭さんが見ていた右の棚は恋愛小説、らしい。虎之助は恋愛小説を読まないので、
その作家が恋愛小説家なのかどうかを知らない。
でもタイトルでなんとなくわかる。愛だとか恋だとか、花だの待つだのといった
ワードが並んでいるから、きっと恋愛小説の棚なのだ。
そしてその棚と向かい合う、左の棚。こちらは推理小説。松本・・内田・・東野・・と
シリーズものでずらりと並ぶ作家もいるし、あまり見たことのない作家名もある。
これは・・今邑・・イマムラ?って読むのかな?
手に取って裏表紙に書いてある内容を読んで、おもしろそうだなと直感的に思った。本を読んでもいい、と弥生、いや乱子は言ってたけど、さすがに売り物はダメだよな?もしここの本を買いたいっていったら社員割引みたいなのしてくれるかな。その本を棚には戻さず、レジカウンターの上に置いておいた。
12時近くに探偵事務所の客を乱子と一緒に送り出した後、さっそく虎之助は切り出した。
「弥・・じゃない乱子さん、ここの本を買いたい時って、割引とかしてくれるんですか?」
「あら!もう読みたいのを見つけたの?いいわよ、いわゆる社割ってやつにしてあげる。
半額だと大きいから、200円引きでどう?」
630円の本なら430円か。悪くない。古本じゃなくて新品を安く買えるんだ。虎之助はさっそく財布を持ってきます、と声を上下させ休憩室から財布をもって来る。
ジャラジャラとした小銭から500円玉と、小銭を軽くするために10円玉3枚を選び出し
弥生の手のひらに乗せる。釣銭を財布に入れてからカバーを取り出す。
シンプルだけど色合いがしゃれているコノミ書店のカバーをかけて、自分の物となった真新しい本を、
カウンターの引き出しにしまった。
その様子を見ながら弥生は穏やかな笑みを浮かべた。
「柳君を採用してよかったわ。今までずっと一人でやってきて、仕事に支障はなかったけど・・
やっぱり一緒に働く仲間がいるっていいわね。期待してるわよ」
バシッと背中をたたかれて少しよろめく虎之助も、この職場が好きになりそうだと、
年齢不詳の美人オーナーに照れ笑いを返した。