神の蝋燭
運動なんて体育の時間でくらいしかしない。悠夏は引かれるまま走ってみたけれど、やがて足がもつれて転びそうになる。
ようやく鴉を振り切って逃げきり、悠夏は傷だらけの伽夜の腕に支えられていた。
「大丈夫?」
「大丈夫じゃないよ...何が起きてるか分かんないし、ねえ教えてよ。あの人は何?なんで怒ってたの?そのツノは何?」
「そうよね。ユウちゃんには何が何だか分からないわよね。教えてあげるから、まずはしゃんとして。」
背中をさすってもらいながら、悠夏は息を整える。
なんでこんな事になってるんだろう。それは多分、やっぱり伽夜が何かしたせいなんだろうけど。
ふと、悠夏は伽夜を全く知らない事に気づく。
彼女はただわがままでちょっと寂しい神様、そのくらいにしか分かってなかったし、知ろうとも思わなかった。何か知っていたら、こうなる前に何かできていたかもしれない。
不慣れに肺が息をするからか、それとも若干の後悔からか、胸がチクチクとして痛い。
走った後にしゃがむと、理由は忘れたけどとりあえず良くないなんて先生に言われたことを思い出して、悠夏は膝に手を置いて前かがみに深呼吸をしていた。
その間、どう説明すればいいか伽夜はぼんやり考える。けれど、正直自分でも何でこんな事になったのか腑に落ちず理解できなことがあった。それを説明するなんて、少し難しいだろう。
「そうね。まずさっきの人は智然っていう神様で、私に神格をくださった神様なの。
私が禁忌を犯すから怒ったの。」
「禁忌って...もしかして呪いの事?」
「ご名答。神様の中でも私は所詮人間から成り上がった者だから、位は一番低いの。だからね、しちゃいけないことがたくさんあるのよ。」
指を折り数えて、自分のできない事が両手じゃ収まらない数になって...
数えるのも思い出すのも、そしてそれを自分に突きつけるのも伽夜はめんどくさくなった。
「その中の呪いが、まあ一番危ないというか。思う以上に危険なものなの。人を呪わば穴二つなんて言うじゃない。呪いっていうのは自分の身も滅ぼすもの、"人間程度の者"じゃあ扱える代物じゃないのよっていう事なのよ。」
「その通り。お前のような神もどきの人間が呪いなぞ、千年早い。」
不意に背後から声がした。伽夜はハッとしたように悠夏に覆いかぶさる。その瞬間、伽夜の短い悲鳴が周囲に響き、伽夜は腕を抑えてうずくまった。
量は多くないが出血しているようで、伽夜の手には血が付いていた。普段表に出ないそれがふとした拍子に流れ出てしまうと、人は不安になるもので伽夜は動揺する。
今度は悠夏が伽夜を支えて、そして何かが飛んできた方向に目をやる。そこには赤と銀を基調とした狩衣の少女が立っていた。
「ここはこの八朝稲荷大明神、我の領地であるぞ。鬼がここに何の用ぢゃ。」
見た目は悠夏と同じくらいに見えるが、その口調から伽夜よりも古い者のように見える。
金色の目と栗色の八尾に裂かれた尾を持つ八尾は唸り、明らかに伽夜を敵視していた。
どうやら、無我夢中で走っている間に二人は別の神の地へ足を踏み入れてしまっていたようだ。
八朝の姿を見るなりすぐさま伽夜は立ち上がる。
「申し訳ございません、八尾様。今すぐこの地を去ります故、今回は見逃してはいただけませんか。」
「見逃すだと?馬鹿め。
邪と厄病の化身であるお前を、豊穣と繁栄を護る我が見逃すと思うのか。」
強く唸り、八朝は手に持つ弓を真っ直ぐに未だ怯む伽夜へ飛ばす。それは伽夜のツノへ向かって一直線へ飛んでいくが、さっき烏を追い払ったように伽夜は吠え、それを弾く。
「流石は鬼姫、見るに耐えない見苦しい御技だ。」
蔑むような冷たい目で、八朝は伽夜を睨む。
「これは私の心の臓でございますが...その様子では、私を殺したいと思ってらっしゃいますね。」
伽夜の2本あるツノは、人の邪さを神格化したものである。これが彼女が鬼と呼ばれる所以であるが、同時に神格の象徴でもあり、これが無ければ神や鬼として現存することができない。
八朝は頷く。
「左様。成り上がりの半端者め。もはや神でも人でもない鬼の貴様が我が歯牙に裂かれる事をせいぜい誉れよ!」
八朝は吠え、伽夜へ向けて鋭い眼光と共に矢を放つ。
伽夜も再び吠え、その矢を弾こうとしたが、怒りの情を交えた矢には勝てずツノの先を射抜いた。
伽夜は魂を削られた激痛に歯を食いしばり、その場に崩れる。
「ま、待って、八朝、様。」
「なんだ小娘。」
次の矢をつがえる獣の声に悠夏はひるむ。けれど目の前で伽夜が死ぬかもしれない恐怖が、悠夏の背中を押し、気づけば伽夜の前に立ちはだかっていた。
「やめて。許してください。お願いします。」
「いいや許さぬ。お前の祈りを持ってしても我はこいつを許さぬ。」
「なんで、どうして?」
八朝はわざと悠夏に聞こえるようため息をつく。
稲荷のため息は、空を曇らせる。雲のない夕焼けの空から一変、あたりは暗くなり始める。
「人と神の世界は違う。
神というものは純正で、和蝋燭の如く美しく無ければいけないものだ。
ところがどうだ、そいつは神に成り上がる前から使い古された、溶けきって見るも無残な蝋燭のようではないか。我はそれが許せん。彼奴と我が同じものなど、許せんのぢゃ!」
怒りに任せ、八朝は全力で弓を引き、矢を撃つ。
これまでの3本のどれよりも鋭く風を切る矢は、悠夏の真横を通り過ぎ、未だうずくまって動けない伽夜のツノの1本を、粉々に砕いた。
自身の存在が一瞬にして半分消え、伽夜は絶叫し震える。しかし鴉がそれを覆い隠すように鳴いた。
八朝は察したように弓を下ろすが、その表情は晴れないようだった。
「...お前は人間だったのか?厄ばかりを見に纏うお前は、本当に人間だったのか?...まあいい。
娘。お前はこいつに情が湧いたようだが、鬼といてもいい事などない。お前の先祖のように、さっさとこいつを見限れ。それが賢明という事だ。」
最後にもう一度、八朝は地に崩れる伽夜の姿を見下ろす。憎悪と哀れみの混ざったその目は、伽夜を惨めにさせる。
その後八朝は何も言わず、ただ首を振ってどこかへ去っていった。
黄昏時が終わり、暗い雲が夜と共にやってくる。
今すぐ雨が降るか。いや降らない。そんな憂鬱な空色の下、道の真ん中に残された悠夏は、静かに訪れる"別れ"に小刻みに震える。
「...ユウちゃん、驚かせてごめんね。」
「...」
蒼ざめた伽夜が、今にも死んでしまいそうで怖かった。
何も言えない悠夏は、伽夜を抱いてただその時を待っていた。