智慧の灯火
先刻の突然のキスにまだ驚いたままの悠夏の手を引きながら帰路につく。
ほんのり夕日に差し掛かった頃、未だ赤面しつつぼんやりした悠夏をつつきながら伽夜はクスクスと笑っていた。その様子が子供っぽいと言えばそうかもしれないが、伽夜は飽きもせず悠夏をつつく。
一度ちょっかいを出してしまえばそれが面白くて人は何度でも繰り返したくなってしまう。社が見えてきたいつもの砂利道で、次はどんないたずらをしようか悩んでいる時、ゴマを撒いたような鴉の群れが空に見えた。伽夜は咄嗟に、強引に悠夏の身を引きつけて自分の着物で隠す。
「どうしたの...」
突然に戸惑うが、唇に指を置かれた悠夏は条件反射に黙る。その瞬間鴉達がけたたましく鳴き、その不穏に気づいた。
「久しいな、言結綾識ノ耶姫。」
社の前に誰かいる。こっそり顔をのぞかせ、悠夏は鴉の濡羽色をした不穏の正体をはっきりと見た。
黒い長髪や、心を見透かすような眼差し、どことなく伽夜に似た...いや、伽夜が彼女に似ているといったほうがいいかもしれない。
風もないのに草花が彼女にひれ伏す様は、彼女が人間を超えたものであるということを直感的に悠夏に知らしめた。
できれば自分だけを見て欲しい伽夜は、思わず目の前の神に目を奪われている悠夏にムッとしてわざと視界を着物の袖で覆う。
「お久しぶりです、智然識守大鴉主様。」
かしこまり、いつもよりずっと穏やかかつ余所行きの口調でカヨは会釈をする
「うむ、元気そうで何よりだ。お前と会うのは数十年ぶりだな、その間お前は何をしていたのか私に教えてくれるか。」
「はい。
朝な夕な社で文字を綴り、時折外へ出てこの地を護っております。」
「それで?他には何もないのか?」
その問いに、カヨは眉ひとつひそめずずいぶん涼しい顔で答える。
「はい。私はただ墨を磨る日々を送っておりました。それ以外は何も変わりありません。」
わずかに髪飾りを揺らし、やたら凜とした声で。
嘘をついているはずなのに伽夜はやたら自信がある顔をしていた。
それでも嘘をつくことにはどこか罪悪感があるようで、何度も握っては開くを繰り返すその手に悠夏は気づく。
智然識守大鴉と呼ばれた神も、その見え透いた嘘は伽夜が素直に白状せずとももう既に知っている。だから目の前の愚者を熱が冷めきった目で睨め、鼻で笑い飛ばす。
「ずいぶん面白い冗談だ。お前は私を馬鹿にしているのか?」
伽夜は一度目線を智然ではなく、すぐ見下ろせばいるユウカに移す。そして自分がかすかに震えていて、怯えていることに気づいた。
「...」
私は何を恐怖しているのだろうか。
先日、悠夏が軽率に外へ出て迂闊に鴉に見つかった時からいずれはこうなることを伽夜は知っていた。というのも伽夜は元々ただの人間。智然の神力を授かり神格化した、所詮下級の神。
神の世界には人間社会同様取り決めがいくつかあり、その中には下級程度のもの、つまりは伽夜程度のものが呪詛を使ってはいけないというものがある。
智然は鴉を使者としてあちこちへ放ち、伽夜が与えられた場所含む広大な土地を監視ないし見守っている。だから烏に見つかった時点で早かれ遅かれ自分が何をしていたかは智然には筒抜けであり、そしてこれから制裁を下されることも知っていた。
金平糖のように少しとがった甘い気持ち、若葉が萌える青い春の思慕の情。遠い昔に抱いて、そして昔に諦めたこの気持ちを悠夏に向けはじめてからまだ間もない。
だから、だからこうなる前に焦がれ渇望したものは手に入れたのに。やっと手が届いて、それで満足したそのはずなのに。
...私は迫るユウカとの別れを悔み、そして夢が現に負けることを怖がっている...
「嗚呼、やはり智然様にはすべてお見通しなのでしょう。私の口からお話しさせてくださいませ。」
伽夜が悩み、そして何か決心し、吹っ切れたような笑みを浮かべるまでのすべてを悠夏は見ていた。
しかし何がこれから起こるかはわからない。残念ながら悠夏はこの場に不似合いなごく一般的な女子高生であるのだから。
伽夜は悠夏を抱く腕を少し緩め、 勿体なさそうに智然に彼女を紹介した。
「この子は...これは桜庭悠夏といいます。」
「桜庭か。聞き覚えのある名だ。」
「はい。かつて伴侶として契りを結びましたが、私の元から去った男でございます。私は未だ未練を断てず、この子を手に入れるべく呪いをかけました。」
智然は前髪をかき揚げ、もはや黒色にさえ見える青色吐息をついた。その様子はだれがど見たって穏やかではないし怒っている。
鴉が一羽、智然の肩に止まりなだめるように頬に羽毛をすりつけた。
「お前たちの強い信仰と願いに応えて貴様に"言結綾識之耶姫"という名前を与えたのに。私はお前の未練...私欲のためにこの叡智を与えたわけではないぞ。」
「ええ、十分承知しております。」
「ならば今すぐ桜庭にかけた呪いを解け。それで全て許される事ではないが、罰は軽くしてやろう。」
「...申し訳ありません智然様。それだけはできません。」
なぜなら悠夏が好きだから。手放したくないから。自分のそばに置きたいから。
だから伽夜はずいぶんきっぱりと断り、悠夏を強く抱きしめた。彼女を奪われないために。彼女がこの手から離れていかないように。
神としての役目を放棄し、人の子を振り回し、約束を破り。神無の土地を哀れに思って起こした奇跡の恩を仇で返された。
伽夜のわがままで身勝手な行動にだいぶ苛立っていた智然は、ついに堪忍袋の緒が切れる。
智然は普段温厚であり、滅多なことでは心を揺らさない人であることを鴉たちは知っている。だから今回のように空気を震わすほどの怒りは初めてで、慌てふためき空に渋滞を起こす。
赤い背景に黒い靄。その様は智然の心内を表しているようにも見えた。
鴉といえば不吉だとか、あとはごみ捨て場を漁って散らかしている不潔なイメージ、簡単にいえば負のイメージが随分強い。 だから悠夏は鴉はあまり好きではなく、つんざく空の悲鳴におびえて伽夜にすり寄る。そしてギョッとした。伽夜の頭に、大きなツノが二本存在を放っていたのだ。その風貌は誰がなんと言おうとも鬼であるだろう。
「貴様、それは私に刃向かうということか?」
「滅相もございません。そもそも私と智然様では格があまりにも違いすぎます。衝突するのであれば早々に降伏した方が賢明であることを私は知っております。」
ツノの生えたその頭をわずかに傾げ、伽夜は小さく会釈をする。そして悠夏の手を強く握った。
「なので、逃げようと思います。
さ、ユウちゃん。」
「えっ、」
力強く悠夏は伽夜に手を引かれ、さっきまで歩いていた道を引き返す。悠夏は伽夜が走る姿を見たことはないし想像したこともない。だから目の前で自分の手を握りしめ駆けるその光景は新鮮だった。
「貴様...貴様!」
後ろで智然が何か言っているが、伽夜はもうその声には耳を傾ける気はないようだ。しかし怒った智然がみすみす自分を逃してくれはしないことは知っていた。
だから鴉に集られ鋭い爪に頬を切られようとも、悠夏をつないだ腕にいくつも赤い線が引かれようともどうでもよかった。
が、鴉が悠夏を怖がらせるようならその時は憐れみや慈悲などかけるはずも無く鬼神の力を惜しげなく使う。
言霊と言われるように言葉に様々な力が宿っていて、それが時に凶器ともなることを伽夜は十分知っている。しかし伽夜の力は強くはなく、例えば詠唱や呪詛のように、人らしい姿で鴉を弾くことはできず、咆哮して言霊の刃を放ち追い払う。
お淑やか。普段は一見するとその言葉が似合う姿からは想像もつかないような荒々しさは、獣のようだ。
悠夏は何が何だか分からないまま手を引かれ、鬼姫となった伽夜に導かれるまま走っていく。