幽居の内緒
愛おしくて愛おしくてたまらないけれど、伽夜はいつも悠夏を膝に乗せて抱きかかえて撫で続けてるわけではない。
朝方、悠夏には外に出るなと言っておきながら一人で散歩に出かけてしまった伽夜のいない社の中で。悠夏は文字通りひとりぼっちになっていた。
せめてぬいぐるみの一つでもあればいいのに、社の中には座布団の一枚すらない。そのあまりの殺風景さがまた悠夏の恐怖だとか焦燥感だとかを募らせる。
先が見えない不安は体を蝕んで、本人も分からないほど静かに命を削る。
暇を慰めて気を紛らわせるために伽夜がいない間、カバンの中から悠夏は財布を取り出す。そしてレシートを何枚か出して綺麗に並べた。
「あと6枚...切り詰めても2食分かあ。」
レシートにはよく通うコンビニの名前とお菓子、お茶、菓子パンと時々消しゴムやら文具の文字が刻まれてる。
一枚一枚日付を見て、先週買ったもの、伽夜と出会う前日に買ったものを思い出しては切なくなって、悠夏は歯を食いしばった。
「はあ...」
思わずため息が出てしまう。今からこれを、ひとり惨めに食べるなんて。
レシートもいってしまえば契約書のひとつ。契約書しか口にできない呪いの中で、数日の飢えを悠夏は財布に溜めていたこの紙切れでなんとかしのいでいた。
先週の自分が羨ましい。贅沢して、ちょっと無駄遣いして、有意義な時間を過ごしていて。
今ならラムネ一粒でさえもご馳走だろうに、悠夏は自由の手綱を取られた。
なんでこうなっちゃったかなあ。自分がひどく哀れで悲しく思えてきてしまうよ。
こうなったのは全部伽夜のせいだ。何もしていないのに、全部全部伽夜のせいだ。
全部...全て伽夜が悪い。
少し苦いレシートの味と怨嗟の声が悠夏の頭の中に響いた。
食事と言っていいのかわからないけれど、こんな憎悪だらけの食事が美味しいはずがない。嗚咽まじりに悠夏は3枚、長さが揃ったレシートを噛み締めるたびに溢れ出す怨みに吐きそうになりながら、全て飲み込む。
もちろんこの程度じゃあ全く満足することはできない。普段は太るからなんて遠慮しがちだった白米を思う存分に食べたいと悠夏は寂しくなる。
だけど今そんなものを咀嚼しようものなら、チョコとガムを一緒の食べた時のようなねっとりと歯にベタつくドロドロとした気持ち悪い食感と、都会の薬臭い水に浸した安いティッシュのような味だけが口いっぱいに広がるだけで、悪寒と吐き気と寒気に苛まれることになる。
そして残るのはどうして食べてしまったのだろうという後悔。
どうしてこうなったんだろう。
どうして。
一人になると悠夏はいつもこのことばかりを考えてしまう。
どうして。
悩み事の解決法は自分の中になるなんてどこかの偉い人が言ってたのを悠夏は思い出したけれど、今回のこの件に関してはどうしても悠夏の中では解決できないものしかなかった。
さて、あと1食分、3枚のレシートしか手元に残っていない。
伽夜も悠夏に契約書をくれることにはくれるのだけど、やっぱり婚約の契りだとかそれに準ずるものばかりで。仮に結婚なんてしてしまえば、相手は神なのだからどうなってしまうのか全く分からない。
まして伽夜は同性---神に性別なんてあるのか分からないが---なのだから、異性愛を信じる悠夏には拒まざるをえないものばかりだった。
しかたない、かくなる上は今伽夜がいないうちに何か買ってこよう。
でもこっそりここから抜け出して、もし見つかったらきっと殺されるだろうか...
だけどこのままじゃ飢え死にしてしまいそうだからと悩み、悠夏はぴったり閉ざされた少し重い木戸を開ける。ローファーを履いて久しぶりに外気に触れた。
「さむい...」
夏だというのに、木漏れ日が差し込むこの雑林はひんやりした空気が流れていた。それはまだ今日が早朝だからだろうか、それともここが"そういう場所"だからだろうか。
数歩歩いて振り返り、悠夏は改めてここが"どんな場所"なのかを確認した。
ここは伽夜の場所である。社のあちこちに貼られた、まるで伽夜を封印するためにも見える札がそれを物語る。
規模は小さいがそれなりに存在感のある建物だが、数日前この近くに来た時は無かったような気がしたけれど。悠夏は記憶を辿る。
伽夜に出会い、突然迫られて逃げ帰った次の日。
いつも通り行った学校で悠夏は嘔吐に加え吐血した。その後手首に突然に現れた呪印に怯えて思わず学校を飛び出し、無我夢中で伽夜と出会った場所へ、誘われるように走ってしまった。
その後は貧血で倒れてしまって覚えてないけれど、どうも例の細道で倒れているところを伽夜に見つかったのは確かである。
今度は何一つときめきもしない砂利道を歩いて、多分朝方4時くらいのいつもの通学路に出る。
烏が鳴いているが、記憶と何も変わっていないこの道に少し安心感を得る。緊張し続けていた体の力が抜けた瞬間、軽い貧血を起こしてしまった悠夏は一度しゃがんだ。
何度も立ちくらみやめまいに加えて、若干の吐き気を数日の間で味わったけど。不快感というのはいつまでたっても慣れるものではない。
5分ほど休んでから、悠夏はまず自分の家がある方へ足を向けた。
何年もここに住んでいたけれど、悠夏は早朝のこの道は歩いたことがない。
住宅が並ぶ閑静な場所に住んでいるけれど、人気が全く無くいつも以上に静かで、その静かさが不気味に感じる。だけどその不気味はいつまでも続くものではない。
やがて玄関先の鉢植えに植えられた淡い桃色の花、悠夏の母が昔植えたあの花が目印の自宅へたどり着いた。
カバンから青いペンギンのキーホルダーが付いた鍵を出して、静かに差し込み扉を開ける。そして悠夏は、ずっと言いたかった言葉を静かにつぶやいた。
「ただいま。」
きっと母も父も寝てるからと、物音を立てないように住み慣れたフローリングの床を歩く。それから最初にリビングを覗いた。
締め切ったカーテン、消えたままのテレビと照明。早朝の外と打って変わって暗いこの部屋の真ん中にあるテーブルに誰かがいて。悠夏はできればいますぐ、疲れ切ってテーブルに突っ伏して寝ている彼女に抱きつきたくなった。
「お母さん...」
だけど今それはできないことは知っている。もし母に伽夜のことと自分が呪われたことを話したら悲しむことは間違いない。それに伽夜のこのことが他人に知られたら...きっと伽夜だもの、タダでは済まないだろう。
私の家族が傷つけられるかもしれない。
彼女は賢いからそう考えてしまう。行き場もやり場も無ければ昇華のしようもないこの17歳の悠夏の気持ちは、理解しようものなら胸が痛くて泣いてしまうかもしれない。
叫びたいのを我慢して、悠夏は二階の自室に向かい、血で汚れた制服を一度脱いで新しい服へ着替える。
ホットパンツにパーカー。これが普段の悠夏のスタイルである。
その後救急箱から包帯をいくつか取り出してリュックにしまって背負い、思いついたように一つ置き手紙を書いて自室の机の上に置いた。
最後に寝室で寝ている父を一目見て、行ってきますをつぶやいてまた静かに家を出たが。家の前に彼女がいることに気づく。
「ユウちゃん。」
そう名前を呼ばれただけなのに悠夏の背筋は凍って、頭の中は"ヤバイ"の3文字が大きく浮かんだ。蛇に睨まれた蛙とはまさにこのことだろう。悠夏は今、怯えきって一歩も動けない。
「ユウちゃんったら。外にでちゃダメって言ったじゃない。」
「えっと...」
どう切り抜けようか。手のひらが汗でぐしょぐしょになるくらいには今、悠夏はあれやこれやを一瞬のうちに考える。
だけど伽夜は悠夏の肩を掴むなり少し切羽詰まった様子で問い詰めた。
「ユウちゃん、烏に見つかってない?」
「か、からす...?」
「そう。見つかった?見つかってない?どっち?はやく。」
「えっと...さっき鳴いてるのなら見た。」
「...そう。」
その顔はなんとなく寂しそうで、今まで悠夏を弄んでいた伽夜は焦るようにうろたえる。悩みながら眉をひそめて手揉みをする。その後開き直ったように手を叩く。
「まあ見つかってしまったものは仕方ないわ。
ところでユウちゃん。どうしてお外に出たのかしら。あれほどダメって言ったのに。ユウちゃんはダメが分からない子なのかしら?」
巻き直した悠夏の首の包帯を指に引っ掛けて引き寄せ、目だけ笑ってない笑顔でまっすぐ伽夜は悠夏を見つめる。
悠夏は伽夜の威圧にすっかり硬直してしまって、口の中が今まで感じたことがないくらい苦く酸っぱくなっていった。