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悠遠の御伽噺  作者: じゅるり
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悠遠の御伽噺

 あなたへ接吻をした日。桃という果実はあなたのその赤い頬を表すためにあるのかもしれないと思いました。胸元へ顔を埋めれば見えるその朝露の重みにたわむ若草のようなまつ毛、その奥で朧月のように恥ずかしげに控えめな眼差し。柔らかくみずみずしいその果実へ私は口付けをしました。


 拝啓、私は知っております。あなたの香りはとても優しく甘いため、この歯牙を立てずともその果肉は人々を綻ばせることを。

 そしてその穢れの知らなぬ白絹のような肌に触れられたことを、私の眼へその姿を収められることを、地の上から太陽の住む気圏の外のせかいへ舞い上がるほど嬉しく思いました。

 言葉が溢れてくるのです。ただ、伝わらなくては言葉には価値などありませぬ。あなたへ分かりやすく、もっと端的に送るとするならただ一言。愛しています。


 あなたは自分の顔をちゃんと見たことはあるのでしょうか。

 凛とした眉に桜の花びらのような唇。多少クセのある髪の毛は柔らかく触り心地が良いものでした。

 初めて会った時は不機嫌そうでため息ばかりだったあなたは本当は優しいけれど、猫のようなその目は元々だったのね。

 大人と子供の間で揺れ動く年頃のあなたは今日は少し背伸びした顔をしているけれど、普段はまだ青く幼い顔をしています。

 雑踏の中にいたとしても、私は遠目に群れを一望しただけで迷う事なくあなたを見つけられるでしょう。


 しかしやがてはあなたを見つけられなくなるでしょう。いずれ訪れる別れ。私にとってはいつの7月も変わらない永遠だけれども、あなたの永遠は常に移り行き、この7月はもう訪れる事はないのです。あなたが見る世界は次々変わっていくのです。あなたは、やがて私を忘れなければいけないのです。


 ***


 悠遠の昔にて伽夜は、人の気持ちを欲しがることがどれほど欲張りで強欲であり、そして私に与えられるべきものでない至極贅沢なものであったのだと思い知ったはずだった。そして愛されることはなかった。

 穏やかな春の兆しは夢物語、それはすべて御伽噺の中でしかあり得ないことだったのを思い出して、ただ一言ああやっぱりと泣きじゃくりながら笑った。

「バカね、私。」

 夢を見たかった。

 愛した人に愛されたいって思うのは当然じゃない。だから愛されたいってそう願ってしまった、そんな自分へ送るただ一言。


 伽夜はあの胡蝶と過ごしたあの日々を抱きしめるが、もう彼女は神にも鬼にも人にもなれない。


 ***


 鴉の舞う空で、神はひっそりと佇む小さな社を見下ろす。

 あの貧相な場所はもはや誰も立ち入れない。そういう呪いをかけたからだ。

 智然は伽夜が泣きながら最期に綴った四十一音の詩を見もせず破き、どこへ向かって吹くか分からない気まぐれな風に乗せてばらまいた。だから鬼姫のいた証はもう悠夏の手紙しか無い。


 彼女は自分のためだけに少女を巻き込み、智然の名前を呪い、穢したのだ。

 だから見合った罰として伽夜に唯一与えられたあの社、伽夜の居場所へ幽閉した。

 その事に情などあってはならない。彼女はあくまでも、自己中心的な私情で他人の名を汚し悠夏を縛ったのだから。神の怒りを買うには十分だった。


「...ああ本当に愚かだ。愚か。その言葉がよく似合う。お前など惨めたらしく朽ちるがよい。」

 誇り高き名前を穢された神の怒りの念は呪いへ変わる。そしてその通りへとなる。


 ただの人の子になった伽夜は人知れずゆっくりと死んでいく。比喩ではない、本当に誰も知らないところで死んでいく。

 日常に戻り、1週間の失踪を神隠しだの何だのと言われ時の人となった悠夏でさえももう彼女を知る事が出来ないし分からない。

 非情では無い、これが当たり前なのだから何らおかしいことでは無い。

 もとよりこうなる運命だったことは伽夜もどこかで知っていて、彼女の踏ん切りはもうついていた。


 もう名を呼ばれることが無い彼女が死ぬまでの時間は実はあまりかからなかった。

 全ての忘却の末に砂のようなチリのような、もしくは霞のように、たった数十年で彼女は虚空へ身をほどかれる。

 こうして秋の暮れのような魂は、悠遠の御伽噺は、そっと幕を閉じた。


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