chapter 8 〈線を越えて〉
夜中にタクトと話をした翌日の放課後、いつものように帰り支度をしているとユキが声をかけてきた。
「アヤ」
「なに?」
「最近、無理してない?」
そう尋ねる声や表情から、アヤを心配しているのが判る。
「してないよ」
ユキが心配しているのを知っていながら、アヤはいつもと同じ答えを返す。
「本当に? 最近、ちょっと変だよ?」
「そんなことないよ」
「嘘つき。ここのところ何かに焦ってる感じがするもの」
ユキはその答えを信じることなく、思っていたことを口にする。意表を突かれたアヤは、一瞬だけ目を見開いた。ユキはそれを見逃さず、呆れたような様子で言葉を紡ぐ。
「何年一緒にいると思ってるのよ。長い付き合いだもの、それくらい判るわよ」
アヤとユキは小学部の頃から友達だった。一緒にいることも多かったため、言葉にしなくともお互いの変化には気付けてしまう。
「そっか。でも、大丈夫だよ。無理はしてないから」
いつものように笑顔を浮かべてそう答える。嘘くさい笑みになってしまっているだろうなと思っていると、やはり感づかれてしまった。
「……ねぇ、何か私に隠してない?」
ユキが先程とは違う、少し険しい声で尋ねてきた。
「隠してないよ」
アヤはユキと目を合わせずに答える。
「それなら、ちゃんと私の方を見て言ってくれない?」
それがアヤの悪癖であることを知っているユキは、咎めるような口調で言う。アヤもそれを判っているため口を噤んだ。
「目を合わせようとしないし、そこで黙るってことは、何か隠してるってことでしょう?」
少しきつい口調で言ったところで、アヤが何も話さないことをユキは判っていた。
きっと、普通の教師と生徒という関係以上に親しいハルルにはもう話してあるのだろう。虚しさを感じたユキは、自信なさげな声でアヤに尋ねる。
「……私には、話せないことなの?」
「……何を聞いても嫌いにならない?」
躊躇いながら小さな声でユキに言う。
ハルルとは親友だが、ユキのことはまだ親友として思えていないのが正直なところだった。それでも、普通の友達より親しいし大切な存在だと思っている。だからこそ、嫌われたくない。そう思うと、敵対しているはずのアクマとのことは言わない方が良いと思った。二人の上級アクマとの奇妙な関係を話したとして、誰もがハルルのように受け止めてくれるわけではないと判っている。ユキのことだから、そう簡単にアヤを嫌うとは思っていない。しかし、不安でもあるのだ。
「それは、聞いた内容によるわね」
アヤが何を隠しているのか見当もつかないユキは、正直に答えた。そうやって嘘を吐かずに答えてくれるのは、ユキの良いところだと思っている。
「アヤは、私に嫌われるようなことをしたの?」
アヤが意味もなく人から嫌われる行動をすると思えなかったユキは、ゆったりと優しい声で尋ねた。
そんなユキの対応に心を落ち着かせたアヤは、俯いたまま素直に言葉を返した。
「呆れられることをした自覚はある。けど、嫌われるかは、話してからじゃないと判らない……」
「アヤに呆れるのはいつものことよ」
もう慣れたことだとでもいうように返される。心なしか、ユキが諦めの空気を纏っているような気がした。
「それはそれでひどい……」
思わず心の中の声が零れる。
「それで? 今話せることなの?」
「……大まかに話しても、少し長くなると思う。時間、大丈夫?」
アヤはユキに話すことを決意し、時間の確認をする。
ユキと話をしている間に、教室に残っていた生徒がクラブ活動に行ったり帰途についたりして二人きりになっていた。話すには絶好のタイミングだが、ユキに予定があるかどうかは判らない。
「大丈夫よ」
ユキは話を聞くことにしたようで、アヤの近くに椅子を持ってきて腰をかけた。少し長くなると言われているのに、立ったままではアヤも話をしづらいだろうと思ったのだった。
ユキが話を聞く態勢をとると、アヤは一呼吸おいてから口を開いた。そして、タクトとクリスの二人のアクマに出会ってから今までのことを大まかに話した。タクトがアクマの一番偉い人物に操られていて、その術を解きたいと思っていることも含めて。
「……はぁ」
話が終わってすぐ、ユキから返ってきたのは大きな溜め息だった。
アヤは思わず身体を縮こませた。
「二人が普通のアクマと変わっているとしてもよ? どうすれば仲良くなれるのよ」
呆れた様子の物言いに、嫌われなかったと安堵する。そう思ったら、いつもの調子に戻ることができて何も考えずに答えていた。
「なりゆき?」
「……判った。もう何も言わないわ」
すっかり呆れられてしまった。いつものことだから、特に気にする必要はない。そう思っていることが知られたら、ユキには怒られそうではあるが。
「それで、アヤはそのタクトっていうアクマを救いたいのね?」
確認をとるユキに、アヤは頷きを返す。
「うん」
「アヤが決めたことに口を挟むつもりはないわ。私も、それが間違いだとは思わないし」
呆れられはしたが、ユキが理解を示してくれたのは良かった。そう思っていると、ユキから不満そうな声で言葉をかけられる。
「どうせ、アヤのことだから、いざという時は私を巻きこまないように遠ざけるんでしょう? この前みたいに」
「……ごめん」
数日前に無理やりユキを戦いから遠ざけたことを思い出し、アヤは申し訳なさそうに謝る。
しかし、今のアヤでは誰かを守りながらやフォローしながら上級アクマと戦うことはできない。何かあった時、近くにいる友達を守ることができないのなら、初めから安全なところに居て欲しいと思ってしまうのだ。
「責めたいわけじゃないわ。力不足なのは判っているもの」
ユキはユキで、自分の魔力では上級アクマに及ばないことくらい判っていた。アヤを心配するあまり一緒に付いて行ったとしても、最終的に足手まといになってしまうことを理解しているのだ。ただ、そんな自分が情けなくて、ついアヤに不満をぶつけてしまっていることも。
アヤもそんなユキの心境を判っているのか、不満の言葉に対して何か言うことはなかった。
「アクマとの戦いで役に立つことはできないけど、話を聞くくらいならできるから。無理に、とまでは言わないわ。でも、何かあったら話してね? 流石に、何も知らないままでいるのは嫌だもの」
「うん」
「それじゃあ、私はもう帰るわね。話してくれてありがとう」
ユキは椅子を元の位置に戻すと、自分の鞄を掴み教室の扉の方へ歩いていく。
「うん。私の方こそ、ありがとね」
今まで隠していたことを話した後、理解を示してくれたのは嬉しかった。ユキの背中に向かってそう声をかける。
「今度からは、そこまで抱える前に少し話してくれると嬉しいけどね」
振り返ったユキが、素直な気持ちを告げる。
「善処するよ」
アヤがいつもと同じように返すと、ユキは困ったような笑みを浮かべた。
長年の付き合いで、アヤがそう答える時は大抵また同じようなことが繰り返されることが判っている。仕方がないけれど、今まで通りに付き合っていくしかない。しかし、ユキは今日のことで少しだけアヤとの心の距離が近付いた気がした。それに免じて、ユキは何も言わずに別れの言葉を口にした。
「また明日」
「うん」
ユキが帰った後も、アヤは教室に残り自分の机でぼんやりとしていた。すると、ハルルが教室に入って声をかけてきた。
「ユキちゃんに話したんだね」
「また途中から聞いてたでしょ」
肯定ととれる言葉を返してハルルを見ると、いつも生徒達へ向けている笑顔を浮かべていた。
「ちょっと聞こえちゃっただけだよ。すぐに引き返したんだから」
「知ってるよ」
ユキと話をしている途中、アヤはハルルの気配を感じることがあった。少しすると、ハルルが気を利かしてすぐに立ち去ったことにも気付いた。だから、ハルルが嘘を吐いていないことはすぐに判った。
「でも、よかったね。隠したままはお互いに苦しいだけだもの」
「そうだね」
ユキに隠していたことを話したことについて後悔をしているわけではない。けれど、やはりまだ迷いはあったようで、ハルルの言葉にただ静かに頷くことしかできなかった。
そんなアヤに何かを感じとったハルルは、ゆっくり近寄りアヤを抱きしめた。
「はるるん?」
アヤは突然抱きしめられたことに戸惑い、ハルルの名前を呼ぶことしかできなかった。
「頑張ったね」
「……うん」
そんなアヤを気にせず、ハルルは穏やかな声で労いの言葉をかける。そして、優しい手つきでアヤの頭を撫でた。
ハルルは、アヤが友達であるユキを大切に思っていながらまだ心を開ききっていないことを知っていた。だから、今回のことはアヤにとって辛いことだと思えたのだ。誰だって、親しくしたい相手に嫌われたいと思うことはないのだから。
少しの間大人しく頭を撫でられていたアヤは、ゆっくりと身体の力を抜いた。そして、少しだけハルルに凭れかかる。
ユキに話をしていた時、無意識のうちに緊張していたようだ。
ハルルは、一瞬でアヤの緊張を見抜き、アヤが落ちつけるよう行動した。その優しい言動で緊張の糸が切れたアヤは、無言でハルルに甘えた。
少しして落ちつきを取り戻したアヤは、ゆっくりハルルから離れる。
「はるるん、ありがとう」
「どういたしまして。もう遅くなるから、そろそろ帰りな」
ハルルの言葉に教室を見渡すと、窓から茜色の夕陽が射しこんでいた。もうすぐで日が暮れる。
「うん。また明日」
「うん。またね」
アヤが学校を出て帰途についていると、噴水広場のところでクリスに声をかけられた。
「おい。今、ちょっと時間あるか?」
今までより真剣な声に、足を止めてクリスを見る。まっすぐな瞳、そして少し焦っているような感じから、騙そうとしているわけではないと判った。
「どうしたの?」
アヤも同じように真剣な様子で言葉を返す。
「タクトのことだ」
今、一番気がかりなことであるため、クリスの方に身体を向けた。
「お前、あいつにかけられてる術を解くって言ったんだってな」
「タクトから聞いたんだね」
タクトのことだ。クリスにはあの夜のことを話すだろうと思っていた。
「あの日もあいつから忠告を受けたと思う。俺からも言っとく。もう、本当に時間がない」
クリスの様子から、もうほとんど時間が残されていないことを知る。
本当は、完全に操られてしまう前に助けたかったが、それは叶えられそうにないようだ。自分の不甲斐なさに嫌気がさした。
「そっか……」
「俺も何とかしてやりたいが、目立つ行動はとれない」
クリスもタクトのことを救いたいと思っていることが判るだけで十分だった。立場上、アヤに手を貸すことができないのは判りきっている。もともと敵対する関係である。他のアクマに見付かれば、裏切り行為と見なされてしまう可能性だってあるにもかかわらず、こうしてわざわざ声をかけてくれているのだ。
「おかしなことを言ってるのは判ってる。でも、もうお前にしか頼めない」
一旦言葉を切ったクリスは、真剣な表情でアヤを見つめる。
「お願いだ。タクトを救ってやってくれないか? 頼む」
クリスはそう言うと、アヤに向かって頭を下げた。それだけ、クリスにとってタクトは大切な存在であるようだ。
「もちろん、そのつもりだよ。あの夜、タクトとも約束したから」
「そうか。ありがとな」
「私がしたいと思ったことだから」
だからクリスが気を病む必要はないのだと言外に告げる。
「一つ、聞いてもいい?」
「答えられることだったらな」
「どうしてそこまでしてタクトを救おうとするの?」
アクマはペアを組んで行動するが、クリスからはただの仲間意識以上のものを感じる。そうでなければ、敵であるアヤに頭を下げてまで救おうとしないだろう。
「仲間だからなのは判らなくもないけど、それ以上の何かがあるの?」
「鋭いな。悪いが、その問いに答えてやることはできない」
「そう」
固い口調で答えるクリスに、アヤはすんなりと引き下がる。
「変なこと聞いてごめんね。タクトのことは、できる限りのことはするから」
「気にしなくていい。タクトのことは、協力してやれなくてすまない」
申し訳なさそうに言うクリスに、アヤは言葉をかける。どうすることもできないことがあるのは、仕方のないことだから。
「仕方ないよ。クリスにはクリスの立場があるもの」
「ああ、頼んだ。話はそれだけだ。時間とらせて悪かったな」
「そんなことないよ。ありがとう」
アヤがお礼を言うと、クリスは噴水広場を去っていった。
クリスがいなくなった後、アヤは噴水の前に移動して噴水を囲む石段に座った。
水が流れる音を聞いていると、心が落ちついていく。もう少し落ちついてから帰ろうと思っていると、学校へ続く道の方からハルルがやってきた。
「……考えこんでる? 何かあったの?」
俯いているアヤにハルルは声をかける。そして、優しい声で尋ねながらアヤの隣に腰をおろした。
「さっき、クリスに会った」
アヤは、ぽつりと言葉を零す。
「もう、ほとんど時間が残されてないって言ってた」
哀しげな声で話すアヤの話に、ハルルは静かに耳を傾ける。
「私も、もう数日も持たない気がしてる」
「タクトくんのことだね」
確認の言葉に、アヤは静かに頷きを返した。
「タクトが私を捕まえてくるように命じられて動くのが先か、私がタクトにかけられてる術を解くのが先か……」
「後者だといいね」
「そうだね。でも、もう手遅れな気もする……」
下を向いて呟かれた消極的な言葉に、ハルルは何も言えなくなる。こういう時のアヤの勘は良く当たるのだ。
「まぁ、どっちにしろ私がすることは変わらないよ。タクトにかけられてる操りの術を解く。そう、約束したから」
アヤはまっすぐ前を見て宣言した。その言葉に迷いはなかった。
そんなアヤの様子を見て、ハルルは安心する。
「そっか。何かあったら言ってね? 私じゃそんなに役に立てないかもしれないけれど」
それでも、一人頑張るアヤに手を差し伸べたいのだ。教師としても、アヤの親友としても。
「そんなことないよ。ありがとう」
アヤは嬉しそうにお礼を言った。
「さて、そろそろ帰った方が良いんじゃないの?」
「そうだね」
後者を出る時も夕陽は茜色で、沈みかけていた。クリスやハルルと話をしている間にも時間は過ぎ、薄い紫色に変わり始めている。もうすぐ夜が来る。
「はるるん、また明日」
「うん、またね」
アヤはそう言って、城へと続く道へ歩き出した。