chapter 7 〈迫る時間〉
夜の闇が深くなったころ、アヤは黒い外套を羽織り、一人外を歩いていた。
昨日アクマとの戦いで無理をしたことによる倦怠感がとれず、ほぼ一日布団の中にいたせいで眠れなくなってしまったのだ。暫くは眠ろうと努力もしたが、一向に眠気は訪れず、反対に目が冴えてしまった。部屋でじっとしているのも辛く感じたアヤは、見守りの目を掻い潜って城を抜け出して今に至る。
アヤが向かったのは、お気に入りの小さな丘だった。
丘の上にある一本の木に辿り着く前、先客がいることに気付いた。こんな夜遅くに街から離れたこの場所に来るなんて変わり者だなぁ、とアヤは自分のことを棚にあげて思う。
月明かりがあるとはいえ、真夜中。相手も暗い色の服を身に纏っているのか、すぐには容姿が判らなかった。
ただ、近付くにつれて感じられる魔力で、そこに立つのが誰かを知る。
「……タ、クト?」
思わず、口から声が零れた。
「アヤ……」
アヤの声に反応して人影が動く。
呼ばれた名前に、今までと違う雰囲気を感じて、アヤは静かにタクトの傍で足を止めた。
「こんな時間に、どうしたの?」
タクトはアヤの方を見て問いかける。
「眠れ、なくて……」
「それでこんなところまで来たの?」
「気分を変えたくなってね。城の中じゃ落ちつかないし。それに、何となく、呼ばれた気がしたから……」
そう答えるアヤの声は、次第に小さくなっていった。それを切り替えるかのように、同じ質問を返す。
「タクトの方こそ、どうしてここに?」
「夜の、散歩かな」
先程から、タクトの口調が今までより柔らかい。それに、夜の闇を包む月のような穏やかな空気を纏っている。
きっと、今のタクトが本来の姿なのだろう。
「こんな遅くに散歩?」
「うん」
頷いたあと、タクトは少しだけ迷い、静かに口を開いた。
「……アヤには、ちゃんと話すよ」
困った笑みを浮かべながら紡がれた言葉。その声は、どこか哀しみを含んでいるような気がした。
「少し、長くなるけどいい?」
「うん」
アヤが頷くと、タクトは見たことのない優しい笑みを浮かべて手招きをした。それに従って隣に立つと「座る?」と聞かれ、首を横に振る。
短い沈黙が長く感じられる、一拍の間をおいて、タクトは言葉を紡ぎ始めた。
「僕はね、アクマの中でも変わり者なんだ」
なんとなく、そうだろうと思っていた。タクトは、アクマにしては優しすぎる。
「物心ついた時にはもうアクマとして生活してたけど、僕は自分の両親のことを知らないんだ」
少しだけ似ていると思った。
アヤも、幼い頃に両親が行方不明になっているため、今は父親の兄弟夫妻の元で暮らしている。
しかし、タクトは両親のことを何も知らないと言う。本人はどう思っているか判らないが、それは哀しいことだと感じた。
「そんな顔しないで。育ててくれる人もいたし、近くにいて面倒みてくれる人もいたから」
きっと、哀しそうな表情を浮かべてしまったのだろう。タクトが遠回しに一人ではなかったんだと、言ってくれた。
「でも、僕を育ててくれた人はアクマのトップで忙しい人だったから、あまり迷惑をかけないように気を付けてた。あまり一緒にいることはなかったんだけど、主様のお気に入りみたいな立場だと思われることが多くてね。ただでさえ他のアクマ達から妬まれやすかったのに、おまけに魔力まで強かったから余計に、ね。だから、一人でいることがほとんどだった」
それから、タクトは今までのことを簡単に話した。
他のアクマ達の誤解と、タクト自身の能力のせいで嫌がらせを受けることがあったこと。一人でいることが多かったため、いつも本を読んで過ごしていたこと。
きっと、そのおかげで魔術に関する知識は他のアクマより豊富になったはずだ。そして、魔力の強さと飲み込みの早さから、今の上級アクマという立場があるのだろうと思った。
「僕も変わり者だったけどもう一人変わり者がいてね」
そう話すタクトは、苦笑いを浮かべていた。
なんとなく、想像がつく。お互いに、今思い浮かべている人物は同じだろう。
「いつも一人でいる僕を気にかけて、話しかけてくれたのがクリスだったんだ。だから、クリスも変わり者の扱いをされてた。とは言っても、クリスには他のアクマとの付き合いもあったからね、いつも一人で本を読んでる時の方が多かったかなぁ」
タクトが上級アクマとして強い理由が判った気がした。きっと、タクトはアクマの中でも魔術に詳しいのだ。
魔力が強いだけでは、ただ力が強いだけの魔術師だ。魔術の知識が豊富だから、様々な魔術が使える。いくら魔力が強くても、術を使う知識がなければ使える魔術は少ない。
「アクマが人を襲う頻度が多くなってクリスが誘ってくれてからは、よく一緒にいるようになった。あと、何故か育ててくれた人、主様と会う機会も増えてった」
話の雲行きが怪しくなる。
「初めのころは報告のためだと思ってたけど、本当は違う目的があったみたい。僕に気付かれないように、少しずつ操りの術をかけてた」
そしてタクトは、自嘲の笑みを浮かべて言った。
「気付いた時にはもう、手遅れだったよ」
以前、夜中にタクトと話をした時のことを思い出す。
誰かに操られていると言っていた。その相手が、まさか育ての親でもあるアクマのトップだったなんて。
「ただね、夜は少しだけ術が弱まるみたいなんだ。特に、今日みたいな月の明るい日は、尚更」
タクトの言葉に、アヤは夜空を見上げる。
今日の月は綺麗な円形で、真夜中の今、一番高いところにあった。
「それに、この丘は浄化の力があるみたいで、術が少し弱まるんだ。僕が此処に来るのは、それが理由。でも、そろそろ本当に時間がなくなってきてもいるんだ」
そこまで話して、タクトはアヤを見る。
「僕が、僕でいられる時間が、ね……」
自嘲気味に笑って、ふっと目を伏せた。
何とも言えないやるせなさを感じる。何かしてあげたくても、何もすることができない自分がもどかしい。
アクマの中でも魔力の強いタクトに気付かれないよう掛けられた操りの術は、確実にその身を蝕んでいる。もう、自力で解除するのは困難な程に。タクトもそれを判っているから、話しながら何度も自嘲する笑みを浮かべていたのだろう。
「正確なことは判らないけれど、今の私じゃ、きっと本気のタクトには敵わないだろうね」
「……だから、そろそろ僕に関わるのは止めた方がいいよ」
「そうかもしれないね」
一人の学生とアクマという関係。本来ならば、アクマと関わること、況してや一緒に過ごすこと自体がありえない。そう思われている。それが普通。今のアヤとタクトの関係の方が、他の人からしたら信じられないものなのだ。
「そうかも、じゃない。いつか、アヤを傷つける時がくる」
タクトは、辛そうな表情を浮かべて言葉を紡ぐ。
「もう、僕にはどうすることもできないのは判ってる。でも、アヤを、優しくしてくれた人を傷つけることはしたくないんだよ……」
タクトの切実な願いに、一瞬だけ言葉をなくした。
「……タクトの気持ちは嬉しいよ。でも、そしたらタクトはどうなるの? ずっと操られたままになるの?」
「……術が解かれない限りは、そうなるね」
諦めたような言葉に、アヤは堪らなくなる。
「前に、言ったよね」
桜並木でタクトを見かけた日の夜、噴水前で交わした言葉を思い出す。
「自分の意思がない、誰かの操り人形でいるなんて哀しいって」
そう言ったアヤの表情は、あの日と同じ、今にも泣き出してしまいそうなものだった。
「アヤ……」
「それに、今関わりを切っても、多分、いつか戦わなくちゃいけない日が来ると思う」
「どうして?」
「確証はないけど、私がアクマに狙われてるから。タクトにも私を捕らえるように命令するんじゃないかな」
昨日街で中級のアクマに襲われた時に交わした会話から、アヤを狙っているように思われた。
それを聞いたタクトは、ただ静かにアヤを見つめる。
「……その反応は、もう既に命令されてる?」
「命令は、されてない。ただ、アクマ達の中で噂になってる。上級アクマと同じかそれ以上に強い学生がいるらしいって」
「なるほど」
誰もが厄介者は捕らえておきたいと思う。可能ならば、術で操り仲間にしてしまった方が楽だと。命令がなくてもアクマがアヤを狙うのは、邪魔な存在であるが故のことだった。
「ねぇ、アヤ。いつか戦う時がくるなら、尚更、今のうちに関わるのを止めた方がいいよ。完全に操られたら、アヤのことを忘れるだろうけど、少しでも意識が残ってたら堪えられないよ」
「……タクトは優しいね」
相手は敵だからと、割りきってしまえばいいのに。そうすれば、アヤを傷つけることにも抵抗はなくなる。他のアクマならそうしただろう。
「少しだけ、待っててよ」
アヤの言葉の意味が判らず、タクトは首を傾げる。
「タクトにかけられてる術、解くから」
「無理だよ。いくらアヤが強くても、それは出来ないよ」
まっすぐタクトを見て伝えると、返ってきたのは諦めの言葉だった。
予想はしていたが、実際に本人の口から諦めた返事を聞くと堪える。その理由は、薄々と判っていた。
「僕ですら、どんな術がかけられてるのか判らないのに」
だからタクトは諦めている。
どんな術か判らなければ、解くことはほとんど出来ない。
「難しいだろうね」
「難しい、で済まないよ。術の種類が判らなければ、解くことだって出来ないんだよ」
それは、魔術師であれば誰もが知っていること。アヤが理解していないはずはないのだ。
「そうだね。でも、それはみんながよく使う魔術に関してでしょう? 例外もあると思うんだよね」
「何か、考えがあるの?」
「確証はもてないけど、一つだけ。でも、試さないでいるのは嫌だから」
この前ハルルと話をした古代魔術なら、解けるかもしれない。小さな可能性でも、試さずに終わらせることだけはしたくない。
「……何を言っても無駄なんだろうね」
アヤの強い意思を感じとったタクトは、困ったような笑みを浮かべて言った。
「ごめんね、諦めて」
「……判ったよ」
タクトは溜め息混じりに呟く。そして、まっすぐな目でアヤを見る。
「ただ、これだけは言わせて」
先程とは違う、真剣な声だった。
「無茶はしないで」
タクトに残されている時間は少ない。アヤの解術が間に合わない可能性の方が高い現状で、この先に待つのは戦闘だ。
「善処するよ」
アヤの答えに、タクトは少しだけ表情を歪ませる。
それでも、アヤは答えを変えなかった。
操られたタクトを前に、防戦しながら術を解くのは困難なことだと、もう判っている。無理をせずに解決できるとは思えない。きっと、無茶をすることになるだろう。けれど、まっすぐ向き合ってくれた相手に嘘を返したくはなくて、出てきた言葉はありきたりなものだった。
「ごめんね。でも、タクトを助けるためなら少しの無茶くらい平気だよ」
「敵なのに、何でそこまでするの?」
「前に、タクトは私を助けてくれた。タクトは優しい人だから助けたいんだよ。後は、私がそのままにしておきたくないだけ」
「……アヤの方が優しいよ」
タクトは少し苦しそうに呟いた。放っておけないからとはいえ、他人のためにそこまですることは自分にはできないから。
話が一段落すると、月明かりが少しだけ陰る。
空を見ると、満月に薄い雲がかかっていた。
「随分と話しこんじゃったね」
ぽつりとアヤが呟く。
「……長話してごめんね」
「そんなことないよ。タクトのこと、知れてよかった」
知らないままだったら、きっと今より手遅れになっていただろう。今でさえ既に厳しい状態だが、タクトの気持ちを確認することが出来ただけでも幸いだった。
「途中まで送ろうか?」
「いいよ」
「そっか。気をつけて帰ってね」
アヤがタクトの申し出を断ると、優しい笑みを浮かべて言葉を投げてくる。
「ありがとう」
お礼を言うと、外套のフードを被り丘を下る。
タクトは、丘の上からアヤを見送った。
春にしては冷たい夜風が吹き抜ける。雲が風に流されて、白い光を放つ丸い月の姿を隠した。