chapter 6 〈かくしごと〉
次の日、前日に無理をしたアヤは学校を休むことにした。起きた時、とても学校に行けるような体調ではなかったからだ。
昨日の無茶が祟り、身体は鉛のように重く、朝食を摂るのが精一杯だった。その後すぐに布団へ戻り、身体を休めた。
一日布団の中でごろごろ過ごして、ようやく倦怠感がなくなったような気がする。そう思って時計を見れば、午後の授業が終わる時刻を示していた。
もしかしたら、昨日あまり良い別れ方をしなかったユキが来るだろう。心配性なハルルも訪ねて来る可能性が高い。ぼんやりとそんなことを考えながら寝返りをうつ。すると、部屋の扉がノックされて声がかかった。
「アヤさん、起きてますか?」
アヤに声をかけたのは、城の使用人だった。
「起きてるよ」
返事をすると、ゆっくりと布団から出て洋服に着替えた。まだ身体は重く感じるが、朝よりはかなり良くなっている。
「ハルル先生が来てます。通しても大丈夫ですか?」
「いいよ」
肯定を返してすぐ、ハルルが部屋に入ってきた。
丸テーブルがある方の椅子に座ってもらい、向かい合うようにして腰をかける。
「もしかして、起こしちゃった?」
「そんなことないよ」
起きたばかりであることを見抜いたハルルが心配そうに尋ねると、アヤは首を横に振って否定した。
「大丈夫?」
「まぁ、一応は」
本当のところはまだ怠さが残っている。朝に比べれば楽になった方で、日常生活には困らない程度の怠さはあったが、正直に伝える必要もないと感じて答えを濁した。
一瞬だけハルルが疑いの目を向ける。しかし、問い詰めたところで正直な答えを聞くまでに時間がかかると知っていたためか、すぐに違う質問を投げてきた。
「で、昨日あのあと何かあったの?」
「ちょっとアクマと出くわしちゃっただけだよ」
「珍しいね」
ハルルは、アヤが上級アクマよりも強いことを知っている。余程のことがない限り、翌日に休むような事態にならないことも。だから、今回は心配もしたし驚きもした。
「そう? 昨日は実技授業があったし、その時ユキもいたからね」
「フォローしてもらわなかったの?」
ハルルの言うことは尤もだった。アヤも同意見ではあったが、そうできない事情があった。
「相手は三人だったし、手伝ってもらってる時にユキにもしものことがあっても守りきれるとは限らなかったからね」
少し困ったような表情を浮かべて、一人で戦った理由を話した。
あの状況下で、ユキを守りながら戦う力はないと理解していた。アヤを目当てに追ってきたアクマのせいで友達が傷つくのは、どうしても見たくなかった。たとえそれで自分が無茶をすることになったとしても。
「もしかして」
「最初から離れててもらったよ。ちょっと強行手段をとったけどね」
昨日のことを思い出しながら、流石にあれは無理矢理だったよぁ、と今更ながらに思う。
「ってことは無茶したの?」
「無茶はしてないよ?」
「無茶はってことは無理はしたんだ」
ハルルの言葉に何も言えなくなったアヤは、静かに視線を逸らした。
「そこで視線を逸らさないでくれるかな」
アヤの無言の肯定に、ハルルは呆れる。判りきっていた答えだけれども、もう少し反省した言動をとってほしいものだ。咎めたところでそう簡単に直らないことは知っている。本人にその気がないため言うだけ無駄だと、ここ数年の付き合いで悟っていたハルルは別の質問をした。
「帰りは大丈夫だったの?」
「クリスに会ったよ」
「……よく、無事だったね」
「背後はとられたけど、襲われなかったからね」
何でもないことのように返された、とんでもない答えに一瞬だけ黙る。そんなハルルをよそに、アヤはのんびりとした口調で答えた。
「街でアクマ騒ぎがあった時からクリスの気配には気付いてたし、その時から私を捕まえに来た訳じゃないことは判ってたから。で、はるるんだから言うけど、少し話をしてたら歩くのも辛くなっちゃって、城に続く一本道の前まで連れてきてもらったんだよね」
そう話すアヤは、困ったような表情で笑っていた。
普通なら信じられない話に、ハルルは少し黙った。怒ればいいのか、呆れたらいいのか。
「……どう返すのが正解?」
そんなハルルの心境を知ってか知らでか、アヤは先程と同じようにのんびりと返す。
「間違いはないんじゃないかな。その人の性格が表れるだけで」
にっこりと笑う姿を見て、きっとこの後のことが判っているのではないかと思えてくる。ハルルは、溜め息を一つ吐くと話を変えた。
「クリスくんもタクトくんも変わったアクマだと思うけど、アヤちゃんも変わってるよね」
「否定はしないかな」
「しないというよりできないでしょう。どこに上級アクマと怖がらずに会話する学生がいるのか教えてほしいくらいだよ」
「ここにいるねぇ」
ハルルが呆れながら言う。
先程と変わらないのんびりとした口調で返すと、咎めるような声で名前を呼ばれた。
「アヤちゃん」
「そう怒らないでよ。いつも気を付けてはいるんだから」
「それは知ってるけどさ」
会話の途中でドアが叩かれ、外から使用人の声がする。
「アヤさん、ユキさんが来てます」
その言葉を聞いたアヤは黙る。
本当はユキをこの場に招きたくなかった。二人でいる時なら誤魔化せることも、ハルルのいる前ではどうなるか判らない。ハルルのことだから、アヤの気持ちを汲んで何も言わずにいてくれるだろう。しかし、それはあくまで予想でしかない。もしかしたら黙っていてほしいことを話してしまう可能性だってある。けれど、ユキをこのまま帰したら余計に心配をかけてしまうのも目に見えていた。
そんなことをほんの少しの時間で考え、アヤは答えを返す。
「……通して大丈夫だよ」
「分かりました。お連れしましすね」
使用人の返事があり、扉の前から立ち去る音がした。
それから少しして、扉がノックされたかと思うとユキが入ってきた。
「アヤ、大丈夫?」
ずっと心配していたのだろう。アヤの顔を見るや否や傍に駆け寄り尋ねる。
「大丈夫だよ」
「本当に?」
アヤはユキを安心させるように優しく笑いながら答える。しかし、ユキはすぐにそれを信用しなかった。
「本当だって。大丈夫じゃなかったら起きてないって」
尚も心配そうにアヤを見てくるユキに、思わず困ったような笑みを浮かべる。
「心配性だなぁ」
「あんなことがあったのに、心配するなって方が無理な話よ。今日だって学校休むし……」
「もしかしたら休むかもって言っといたじゃん」
「それで本当に休まれれば心配するわよ!」
アヤの言葉に反応したユキが荒い声をあげた。
「ごめんね」
苦笑と共に言われた謝罪。その声は、いつも注意をする度に聞くものと同じで、ユキは顔をしかめた。
「反省してないでしょう」
「してるって」
「さっきの言葉のどこにそれがあったのよ」
「声?」
ユキの詰問に臆することなく答えを返すと、盛大に溜め息を吐かれる。
「まぁまぁ。アヤちゃんが無事だったんだからいいじゃない」
そんな二人を見ていたハルルが仲裁に入る。
「そうやってすぐハルル先生が甘やかすからいけないんですよ」
「えー、そう?」
ユキの言葉に、ハルルは不服そうな表情を浮かべる。
「そうです。だから、アヤがつけあがるんです」
「んー、でもさ、アヤちゃんが無理をするのはいつもだし、何を言っても聞かないのは判りきってることじゃない」
数年の付き合いとはいえ、アヤのことを理解しているハルルは、あっさりと諦めたようなことを口にした。すると、アヤが横から口を挟む。
「酷いなぁ」
「それは自分の行いを振り返ってから言ってね」
にっこりと効果音がつきそうな笑顔を向けられるが、アヤはその笑顔に怯むことなく返す。
「善処はするよ」
「もう」
それは、また無理をする可能性があるという返答。ハルルは風船のように頬を膨らませる。しかし、これ以上何を言っても無駄であることは判っていた。
会話が一段落したところで、ユキは荷物をまとめながら言う。
「まぁ、アヤが元気そうでよかったわ。今日はもう帰るわね」
余程アヤのことが心配だったのか、学校の鞄まであるため、家に帰らずここに来たことが窺える。申し訳なく思い、再度謝罪を口にした。
「心配かけてごめんね」
「そう思うなら、今度から無茶も無理もしないようにしてよね」
「うん」
まぁ、それはできない相談なんだけれど、と心の裡で呟きながら頷く。
言葉にしようものなら、再びユキに詰め寄られるのが目に見えていたからこその返答だった。
「じゃあ、また明日」
ユキが別れの言葉を口にし、部屋から立ち去る。
「友達相手にすんなり嘘を吐くね」
二人の会話を横で聞いていたハルルが、アヤに声をかける。
「本当のことを言ったら怒られるからね。それに、ユキも薄々気付いてはいると思うよ。……軽蔑した?」
「判ってて聞くのはやめてよ。そのくらいじゃ何とも思わないって。アヤちゃん、その手の嘘は息をするようにつくじゃない」
ハルルの辛辣な物言いに、思わず間をあけてしまう。
「……別の意味で傷つくんだけど」
「そう返せるなら傷つかないでしょ。それより、いいの?」
「何が?」
何のことだか判らないといった表情で、アヤは首を傾げる。
「ユキちゃんだよ。話さなくていいの?」
「何を?」
先程より少し判りやすく尋ねる。それでアヤには通じる。しかし、返ってきたのは先程と同じような態度だった。
「判りきってるくせに。アクマのことだよ」
「最近、よく街に現れるし、私を狙ってるってこと?」
「それはわざと?」
尚もはぐらかそうとするアヤに、ハルルは不機嫌そうに言う。
「ユキちゃんだってそれくらい知ってるでしょう。クリスくんとタクトくんのことだよ」
「話さないよ」
しっかりと言葉にして、漸くアヤはまともな答えを返した。
「話せないんじゃなくて?」
じっとりと恨みがましい視線を向ける。すると、ハルルはすぐに謝った。
「ごめん、意地悪なこと言ったね」
「本当だよ」
「だから、ごめんね? 私も、話さなくていいと思ってるよ」
ハルルは謝りながら同意であることを伝える。そして、アヤが話したくないと思っている理由を挙げていく。
「巻き込みたくないんでしょう?」
「危ないからね」
「あとは、知られたくないことがある」
二つ目の理由を聞いたアヤは、じっとハルルを見つめる。
「それと、怖かったんだよね?」
質問でありながら断定するような物言い。
アヤは一瞬だけ目を見開くと、すぐに苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる。静かに、少し苦しそうに呟く。
「……はるるんのそういうところ、苦手」
「『嫌い』じゃないんだ」
ハルルは、アヤがその言葉を遣わなかった理由を知っていながら言った。
それを知っているアヤは、無言で睨むような視線を返す。
「ごめんね。確かめたかっただけだよ。怒らないで」
「怒ってない」
そう答える声には不機嫌さが窺えた。
「じゃあ、拗ねないで」
「……拗ねてない」
少し間をおいてから、不満そうな声で答える。アヤは、気まずさからかふい、と視線を逸らした。
「うん。ごめんね」
ハルルは、困ったような笑みを浮かべる。謝罪の言葉を口にして席を離れると、アヤの前に立ち優しく頭を撫でた。
「当たり前のことだけど、考え方は人それぞれだからね。ユキちゃんが私達と同じように考えるとは限らない」
頭上で優しく紡がれる言葉。それが最後まで言われなかったことはすぐに判った。
顔をあげるとハルルと目が合う。先程あえて紡がれなかった科白――だから怖かったんでしょう? と目線で呟かれた気がした。
「はるるんって時々意地悪だよね」
頭を撫でられながら、不服そうに呟く。
「否定はしないけど、私がそういう性格だってこと知ってるでしょう?」
「知ってるけど、それとこれとは別だよ。ほんと、学校でのほわほわした雰囲気が詐欺だよね」
学校ではいつも穏やかな笑みを浮かべ誰に対しても優しいハルルは、学生からふわふわした優しい先生として人気がある。しかし、実は鋭いところがあり、時折意地悪な面も持ち合わせている。それを知っているのは、ハルルと親しい人だけで、アヤもその一人だった。
「あれは学校での、教師としての姿だもの。アヤちゃんにもあるでしょう?」
「ないとは言わないよ」
アヤにも、学校という社会で生活するためにつくっている性格はある。それを否定することはできないし、そのつもりもない。だから、肯定を返した。
「それより、はるるん怒ってる?」
「別に怒ってないよ?」
返ってきたのは否定だった。しかし、後から言葉が紡がれる。
「たださ、ちょっとくらい釘を刺したっていいでしょう? 私だって心配したんだから」
学校を休んだことを心配して様子をみに訪ねれば、昨日アクマと戦ったと聞かされたのだ。しかも、等の本人は人の心配を余所にけろりとしていた。少しくらい意趣返しをしたって罰はあたらないだろうと、ハルルは思って実行した。
「それで意地悪なの? はるるんの精神攻撃、結構効くから嫌なんだけど」
そう言ってじとっとハルルを見つめる。
「精神攻撃って……。まぁ、間違ってはいないだろうけどさ……」
ハルルは恨みがましい視線を受け止めながら、心の裡で少し苛めすぎたかなと反省した。
会話が落ちつき、沈黙が訪れる。
ハルルは椅子に戻り、すっかり冷めてしまった紅茶を口に含んだ。ティーカップをソーサーに戻し、一息吐くと静かに呟く。
「なんとなく判ってはいたけどさ、アヤちゃんにとってユキちゃんは親友じゃないんだね」
「突然、どうしたの?」
同じように紅茶を飲んでいたアヤが動きを止めてハルルを見る。
「んー、ちょっとね」
ハルルは困ったような表情で笑った。
それを見て、ハルルが突然ふと思ったことを口にしただけだったため、質問に答えられないでいることを悟る。
「親友って言いたいけどね、本当のことを言うなら付き合いの長い友達ってところかな。でも、そういうのってあまり言葉にしなくてもいいと思うんだよね。言葉では表現しづらい関係ってあるじゃん?」
「まぁね」
「それにさ、結局は他人だから。どこまで心を許せるかなんて人によって違うでしょう?」
「そうだね」
アヤの言うことは尤もだった。いくら親しくなろうと所詮は他人。相手によって態度が違ってしまうのも仕方がない。それでも、ハルルは願ってしまう。
「でも、私は信じてるよ」
ハルルの言いたいことが判らず、アヤは無言で首を傾げる。
「アヤちゃんに、私以上の理解者ができること」
「……うん、ありがとう」
きっとハルルには知られているのだろう。教師と生徒という関係でありながら、親友でもあるハルルだが、大切なことは隠してしまうことがあると。
ハルルは、アヤの心の機微に聡い。その上、触れてほしくないことは知らないふりをしてくれる。アヤはそれに甘えてしまうため、親友のハルルにも隠し事ができてしまう。それが良くないと判っていても。だから、ハルルの願いはありがたかった。