chapter 4 〈夜の約束〉
ハルルと桜を見に行ったその日の夜、アヤはなかなか寝つけずにいた。帰る前に見た、タクトのことが気になっていたからだった。
夜中に外に出ることは危険だと判っていたが、アヤは城の外に出ることにした。もう遅い時間であるため、使用人や兵士もみんな寝静まっている城内はとても静かだった。静まりかえった廊下を、足音を立てないように歩き外に出る。
円形噴水の前まで来たアヤは、月が映る水面を見ていた。噴水から落ちる水が水面を揺らし、水面に映る月がぐにゃりと形を歪めている。
「どうしてこんな時間に外にいるんだ?」
噴水の水面を眺めていると、背後から少年の呆れた声が耳に届いた。それは、最近知り合ったアクマの少年のものだった。
アヤは、振り返ることなく言葉を返す。
「タクトの方こそ……」
夕暮れ時に活動するアクマは多いが、夜更けに姿を現すことはほとんどない。人が寝静まった時間に外にいても、襲う人がいないのだから当たり前といえる。だからアヤも、タクトが今ここにいる理由を尋ねた。
「どうでもいいだろ」
返ってきたのは、素っ気ない言葉だった。
「お前こそ、ここにいる理由言えよ。普通、こんな時間に外なんて出ないだろ?」
「眠れなかっただけ」
「それで外まで来たのか?」
「城の中は落ちつかないから」
一人になりたい時、アヤはよく外に出る。それは、城の外の方が落ちつける場所が多いからだった。
「何か、あったのか?」
「何もないよ」
タクトの問いに、すぐ返事をする。タクト本人のことで悩んでいるなんて言えるわけがない。もとより、本当のことを答える気もなかった。
「何もないわけがないだろう?」
「本当に何もないから気にしないで」
「だったら、こっちを見て言えよ」
しかし、タクトは簡単には引き下がらなかった。仕方なく、アヤはタクトの方に身体を向ける。そして、顔を下に向けたまま言った。
「何でそんなに私のことを構うの。アクマなんだから、放っといてくれていいのに」
「お前が言ったんだろ。優しいアクマだって」
「確かに、そう言ったけど……。でも、言えるわけないじゃん」
「なるほど」
アヤの言葉を聞いたタクトは、何かに気づいたようだった。
タクトの奇妙な呟きに、アヤは少しだけ顔を上げる。
「昼間、桜並木にいただろ?」
タクトの問いに、アヤはぴくりと身体を震わせた。そして、それを取り繕うかのように、平静を装って言葉を返す。
「……それが、どうかしたの?」
「やっぱり見てたんだな……」
アヤの返事が少しだけ遅れたことから、昼間の様子を見られていたと悟ったタクトは、哀しみを含んだ声で呟いた。
月明かりが照らす噴水広場に、夜の涼しい風が吹く。少しの時間がとても長く感じられるような、静かな沈黙が続いた。
しばらくして、アヤがゆっくりと口を開く。
「昼間、前と様子が違う気がした……」
小さな声だったが、静けさがあたりを支配している今は、よく聞こえる声だった。
そのまま、アヤは思っていたことをぽつりぽつりと溢し始めた。
「初めて会った時、なんだか光のない目をしてる気がしたの。でも、何回か会った時は普通だったから、気のせいだと思ってた……」
よく見ていないと判らないことである上に、タクトはあまり表情を変えないでいることが多かった。非常に判りにくいことだというのに、アヤはなんとなくそのことに気付いていた。ただ、確信をもてずにいただけで。
「気付いて、たんだな……」
「うん……。とても判りにくい変化だったけど、全く変わらないわけじゃなかったから」
「そうか……」
「あのさ、誰かに操られてるの?」
アヤがそう思うのも無理はない。瞳に感情がない時は、たいてい誰かに操られていることが多いからだ。
「いや、まだ操られてはいない」
タクトがしっかりと否定する。その答えに安心するが、『まだ』という言葉に不安をおぼえる。
「まだってことは……」
「そういうことだろうな……」
アヤの言葉を遮り、タクトが答える。
「いつか、操られるかもしれないだろうな」
いつかというより、タクトの場合は近いうちだと思ったが、アヤは言わなかった。タクトも判っていることだと、感じたからだった。
「何でお前が、そんな哀しそうな顔してんだよ」
「だって……」
操られてしまったら、そこにタクトの意思は存在しなくなる。
誰かの操り人形になってしまうのは、哀しいことだと思うのだ。
「哀しいじゃん……」
少し間をおいて、アヤが続ける。
「……操られたら、自分の意思はなくなっちゃうんだよ? それって、哀しいことだと思うの……」
沈黙がおりる。
再び俯いてしまったアヤの表情は見えないが、今にも泣き出しそうな顔をしているのだろう。
「……大丈夫」
「何が?」
タクトが呟いた突然の言葉は、何が大丈夫なのか分からなかった。
「俺は、操られたりしない」
アヤは顔を上げ、タクトを見る。
「俺は、操られないよ。誰かの操り人形になんかには、ならない」
そう言い放つタクトの瞳には、強い意志がこめられていた。
もう既に少しだけ操られているため、そんなことは無理に等しい。それは、アヤもタクトも判っていた。
こういう時、魔術に疎ければ、タクトの言葉を信じきることができたのだろう。たとえ、後に最悪な結果を迎えることになるとしても。
しかし、アヤは同級生よりも魔術の知識が豊富だった。それ故に、タクトにかけられている操りの術がもう手遅れであることにも気付いていた。
頭で理解していても、心では違うことを望んでいるアヤは、希望をのせて尋ねる。
「本当に?」
「ああ、約束する」
その問いに返ってきたのは、意志のこもったものだった。
だが、二人共そんなことはありえないと判っていた。判っていながら、タクトは約束をし、アヤもその答えが嘘であるということに目を閉じた。
「そろそろ戻った方がいい」
「うん、そうする」
アヤは頷くと、城へと行く道を歩き出した。そして、アヤを見送ったタクトも姿を消した。
暗い道を歩きながら、最近考えていたことにやっと答えが出たのはよかったけれど、今度は違う悩みを抱えることになったなぁ、と思っていた。
「また夜の散歩か?」
考え事をしながら歩いていたアヤは、突然の声に驚く。
声をかけてきたのは、クリスだった。クリスは、アヤの少し前の建物の壁によりかかっていた。
「そうだよ」
「前に言わなかったか?」
「何を?」
アヤの返事に呆れたクリスが溜め息を吐く。
「夜に外を出歩くな」
「クリスの口からは、これが初めてだけど?」
「じゃあ、今言った。最近は危ないことぐらい、お前だって判ってるだろう?」
本当に変わったアクマだと思いつつ「判ってるよ」と答える。
「判ってるならもう少し気をつけろよ。さっきだって俺だったからよかったものの、他の奴だったらどうするつもりだったんだよ」
「大丈夫、その時は自分でなんとかするから」
再びクリスが溜め息を吐く。
「そういう問題じゃねぇよ」
そんなクリスがおかしかったのか、アヤが笑う。クリスはアヤを睨むが効果はなく、不機嫌な声を出した。
「笑うなよ」
「ごめん、ごめん」
「悪いと思ってないだろ」
「まぁね」
アヤは素直に答える。それと同時に浮かべられた、クリスの不満気な表情がさらにアヤの口元を緩ませた。
少しして落ちついたアヤが、ふぅと息を吐く。
「そういえば、アクマって数人で行動する決まりでもあるの?」
アヤはずっと疑問に思っていたことをクリスに聞いた。
街でアクマを見かける時、必ず数人のアクマがいる。単独行動しているのを見かけることの方が少ないし、アヤの知る限りクリスとタクトくらいしかいない。
「とくに決まってる訳じゃないけど、一応数人で行動するんだよ。一人で無謀なことしても仕方ないからな」
突然の質問であったのにも関わらず、クリスが真面目に返してくる。
「まぁ、そうだろうね。で、真面目に答えちゃっていいの?」
こうして話をしているとはいえ、敵対している関係なのだ。
「どうせ、見当ついてただろ?」
「まぁね。で、ペアはどうやって決めてるの?」
「そう簡単に答えると思うか?」
クリスが呆れた視線をアヤに向ける。
「思ってないけど、なんとなくクリスなら答えてくれるかなって」
「答えるわけないだろ」
溜め息まじりに答える。アヤは気にすることなく、話を続けた。
「そうだよね。じゃあ、他のこと聞いてもいい?」
「どうせ断っても聞くんだろ? 答えられないことじゃなけりゃ答えてやるよ」
「ありがと。クリスはどうやってタクトとペアを組んだの?」
「何でそれを聞く?」
質問を返すクリスの声は、心なしか先程より硬い気がした。
「いつも一緒にいるから気になっただけ」
「……。俺が誘ったんだよ。外に出るからついてきてほしいってな」
疑り深い視線を向けられたが、答えは返ってきた。
「そうだったんだ。仲良かったの?」
「そこまで聞くか? アクマは基本、馴れ合いなんかしないんだよ」
面倒そうな表情と、素っ気ない言葉が飛んできた。
アヤがお礼を言って立ち去ろうと思った時だった。顔を合わせていた以前と、様子がおかしいことに気付いたクリスが口を開く。
「お前、何かあったのか?」
「急になに?」
図星をさされ、冷たい声が出る。
「図星、か?」
クリスの言葉に、アヤの身体が少しだけ揺れた。それでアヤの動揺を悟ったクリスは、再び同じことを尋ねた。
「俺に会う前、何かあったのか?」
誤魔化しを許さないとでも言うような、強い視線に負ける。
「タクトに会っただけだよ」
「それだけなら、そんな暗い表情するわけないだろ?」
クリスの指摘は本当のことで、アヤは黙ることしかできなかった。
「何か言われたのか?」
「少しね。でも、教えないよ」
正直に答えると、クリスが口を開いた。しかし、先手を打って会話の内容までは教えないと言えば、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。
「そろそろ帰るね。こんな時間に外に出た私も悪いけど、長話していい時間じゃないからね」
そう言って、アヤはクリスの横を通り抜けようとする。クリスがアヤの腕を掴もうと手を伸ばした。アヤがそれをするりと避けると、クリスの手は虚しく空を切った。予想外のことに驚きアヤを見ると、アヤもクリスを見ていた。しかし、すぐにアヤが身を返して去ってしまった。
「……。普通の学生じゃないんだよな……」
アヤの姿が見えなくなったころ、クリスは心の中で思ったことをポツリと呟いた。
城に戻ったアヤは、一人自分の部屋で考え事をしていた。明かりを点けていないため、窓から差し込む月明かりだけが部屋をぼんやりと照らしている。
「……はぁ」
自然と溜め息が漏れた。
今まで疑問に思っていたことは解決したが、今度は新たな問題ができてしまったのだ。
時折、感情のない瞳をしているのは、誰かに操られているからだとタクトは言った。アヤの疑問はそこで解消されたが、タクトの話を聞いているうちになんとかしたいと思うようになった。それが、今の悩みになっている。
眠れないだろうと思いつつも、身体を休めるために布団へ横になり、目を閉じた。
翌日の放課後、また元気がなくなったと言われたアヤは、ハルルに捕まっていた。
呼び出された古代文字資料室で、ハルルに詰め寄られる。
「で、何があったの?」
「なんにもないよ?」
「……はぁ」
ハルルが呆れて溜め息を吐く。
「……あのねぇ、ユキちゃんに気付かれていなくても、私には通用しないの。ほら、話してよ」
「いつもはそんなこと言ってこないくせに……」
不満気な表情を浮かべて思ったことをぼそりと呟く。
「そうだね」
「なら、話さなくてもいいでしょ?」
話したくない気持ちが強いアヤは、いつものように見逃してもらおうとした。しかし、今回はハルルの方も引かなかった。
困ったような笑みを浮かべて
「今回もそうしてあげたいんだけど、なんだか嫌な予感がするんだよね。だから、話してほしいな」
とお願いをしてきた。
優しい声で、申し訳なさそうに言われてしまうと断りづらい。ハルルの目に、アヤを心配する色があるのも悪い。
しばらく考えた末に、アヤは昨夜のことを語りだした。
「昨日の夜、噴水広場でタクトに会ったんだ……」
その声は小さく、静かで、アヤがまだ躊躇っていることが分かる。
それでもハルルはそっと質問をして、続きを促した。
「そうだったんだ。夜って、何時ごろだったの?」
「覚えてないけど、多分、日付が変わってたと思う……」
「そんな遅くに……。眠れなかったの?」
「うん……。ちょっと気になることがあって……」
アヤは、桜並木でのことを思い出していた。
「はるるんのことだから、桜並木の帰り道に、私の様子がおかしくなったことに気付いてたよね?」
だから、あの日ハルルはアヤに声をかけた。それは、アヤにも判っていた。ただ、あの時はアヤが『何でもない』と答えたため、それっきりになっていただけで。
「気付いてたよ。ただ、聞いても答えてくれなかったから、また後で聞こうって思ったんだよね」
あの日は、アヤ自身も戸惑っていた。それを察したハルルは、少し時間をおいた方がいいと思い、何も言わずに身を引いた。それが、ハルルの優しさであることは、アヤも理解していた。
「それで、並木道の中で何があったの?」
「何がってほどのことじゃないんだけどね……。タクトがいたの」
「タクトくんが?」
アヤは、静かに頷くと続きを話した。
「いつもと、少し様子がおかしかった。それで、眠れなかったから外に出たの。そしたら、またタクトに会ってね、桜並木でのことについて話したの」
アヤはハルルにタクトと話したことを喋った。
「タクトは、完全に操られたりしないって言ってたけど、もう、手遅れだよ。多分、タクトもそれは判ってると思う。でも、あの時は、私のためを思って……」
「そっか……」
会ったことのないハルルでも、アクマであるのが不思議に思えるくらい、タクトは優しいことが分かった。
今の話から、ハルルはアヤが何で悩んでいるのか大体見当がついた。
「……なんとか、してあげたいの」
ぽつりと呟かれた言葉。
それは、ハルルも同じ気持ちだった。
「でも、どうしたらいいのか判らなくて……」
相手はアクマ。ただの友達や知り合いとは訳が違う。相手が操られているからといって、そう簡単にその術を解くことはできない。接点が少ない上に、タクトにかけられている術が分からないのだ。
「タクトくんは、敵だもんね……。そう簡単に関わることなんてできないよね……」
「うん……。それに、どんな術なのかも分からないし……」
「そうだよね。操りの術だって何種類もあるからね」
タクトにかけられている術に合わない対抗魔術では、その術を解くことはできない。
「でも、一つだけ方法はあるよね」
「古代魔術でしょう?」
「そう、それ」
「はるるん、判ってて言ってるの?」
「もちろん」
現在日常的に使われている魔術は、数百年前に使われていたものと違う。時代とともに変化し、その人がもつ魔力により差はあれど、どんな人でも魔力さえあれば使えるようになっている。
一方で、古代魔術は時代が進むにつれて使える術者が減っていった。それに、古代魔術のほとんどは、数人がかりで使うものが多く、難しい。今では、古代魔術を使う人はほとんどいないし、使える人も少ない。
ただ、現代魔術の基礎とされている古代魔術は、現在のあらゆる魔術に優位であることも確かだった。ハルルは、古代魔術ならタクトにかけられている術が判らなくても解けるだろうと考え、アヤに提案した。
「古代魔術は難しいし、数人がかりのものだってあるんだよ?」
「でも、アヤちゃんなら使えるんじゃないの? 魔力多いし」
「簡単に言うね。試してみないと判らないよ」
「試そうって思えるあたりがすごいよね。普通だったら敵わないからって、やる前に諦める人の方が多いと思うもん」
「諦めたくないだけだよ……」
ぽつりと呟かれた声は、小さかった。
「そっか……」
話が一段落したところで、夕刻の鐘が鳴る。
「そろそろ帰った方がいいんじゃない?」
「そうだね」
アヤは頷きを返すと、鞄を持って立ち上がる。
教室の外へ出ようと、扉に手をかけた時、ハルルの謝罪が聞こえた。
「ごめんね」
「何が?」
振り返りってハルルの方を見ると、困ったような笑みを浮かべていた。
「無理に話をさせちゃったから……」
「別にいいよ。正直、話してよかったと思ってるし」
「本当?」
「うん、本当。はるるんに話したおかげで、楽になったから……」
それは、嘘偽りのないことだった。一人で抱えていたら、まだ数日は悩んでいただろう。
アヤが微笑んでみせると、ハルルも安心したのか、先程とは違う、柔らかな笑みを浮かべた。
「よかった」
「じゃあ、帰るね。また明日」
「うん、またね」