chapter 3 〈昼の逢瀬〉
次の日、アヤは午後にある古代文字の授業で居眠りをしていた。ハルルはその様子を見て、何も言わずに授業を行い、終了後にアヤへ声をかける。
「アヤちゃん、放課後残れる?」
「……残れるけど」
「じゃあ、いつものところに来てね」
「分かった」
ハルルは、アヤの返事を聞くと笑顔で教室を出ていった。
居眠りすることなくその日最後の授業を終を終えると、アヤは荷物を持って古代文字資料室へ向かった。
古代文字資料室は、教室のある建物とは別の棟にある。本来なら学校に在籍する古代文字専門の教師が使用する部屋だが、授業に必要な資料は学校にある大きな図書館で揃ってしまうため、利用する教師はハルルだけだった。そして数年前、ハルルの手によって資料室の隣にある教師専用の部屋が改装された。今ではすっかりハルルの休憩室になっている。居心地の良くなった資料室の存在を知っているアヤは、たまに使わせてもらうことがあった。
扉をノックすると、機嫌のよさそうなハルルがアヤを出迎えた。
ハルルは慣れた手つきで二人分の紅茶を淹れ、アヤの向かい側にあるソファーに座った。
「今日の授業も寝てたね」
ハルルがのんびりとした口調で呟く。
「まぁ、私がアヤちゃんに教えることはないから、別に構わないんだけどね。それに、この学校は成績重視だからね」
「先生がそれ言っちゃうんだ」
「みんなが知ってることだもの」
ハルルが言ったように、この魔術学校は主に成績が重要視されている。授業態度が悪かったり、出席率が悪かったりしても、成績が良ければ黙認されてしまう。それは、学校に在籍する者なら誰もが知っていることだ。ただ、授業内容が高度であるため、そのような行動に出る人は滅多にいない。
「そんなことより、アヤちゃん、昨日よりも悩み事が大きくなってない?」
突然の質問に、アヤは口元まで運んだティーカップの動きを一瞬だけ止めた。すぐに紅茶を一口飲み、何事もなかったかのように振る舞おうとしたが、心の中で溜め息を吐いて誤魔化すのを諦める。紅茶の入ったティーカップをソーサーに戻しながらちらりとハルルを見ると、にっこりと嫌な笑みを浮かべた顔が目に入った。ハルルは、先程の質問でアヤが動揺したことに気付いていた。
「……何でそう思ったの?」
ただ頷くのが嫌だったアヤは、肯定ととれる質問をする。
「やっぱり当たりだったんだ」
ハルルは嬉しそうに言うと、アヤの質問に答えた。
「だって、今日一日、なんとなくだけど元気がないような感じがしたから」
ハルルの言葉を聞いたアヤは、黙りこんでしまう。
昨日のことを話したくない。そう思いつつ、ほとんどの人が話してくれることを望むであろうということも判っていた。
どう答えようか悩んでいると、先程とは違う優しい笑みを浮かべたハルルが言う。
「話さなくていいよ」
「へっ?」
真剣に考えていたアヤは、突然の言葉に驚いて間抜けな声を上げる。
「無理して話さなくていいよ。かなり真剣に悩んでるから、本当は話したくないんじゃないかって思って」
「その通りだけど、気にならないの?」
「うーん……。気にならないっていったら嘘になるけど、無理して話してほしくないかな。その代わり、話したくなったらいつでも聞くし」
「ありがとう」
今、話をしている相手がハルルでよかった、とアヤは思った。もし、親友のユキと話をしていたら、今ごろ全て話すことになっていただろう。
「どういたしまして。でもね、話しちゃった方が気持ちが楽になると思うよ? それに、あまり長く抱えこむのもいいことじゃないし」
「うん」
アヤは、ハルルの言っていることが正しいと判っていた。ただ、まだ心の整理がつかず話したくないだけで。
「今日はいいけど、あまり長く考えるようだったら誰かに話しなよ?」
「うん、そうする」
ハルルは、アヤの表情が和らいだのを見て笑顔になる。
「来てくれてありがとね。また明日」
「ううん。こっちこそ、気にかけてくれてるのにごめんね」
「いいよ。無理やり話を聞くつもりじゃなかったし。ほら、早く帰らないと遅くなっちゃうよ?」
「そうだね。ありがとう。また明日」
アヤは、ふっと笑顔を浮かべると教室を出て帰途についた。
城へ続く道がある噴水広場に向かって民家の並ぶ道を歩いていると、近くで叫び声が上がった。子供達が近くの家に逃げ込み、大人達が騒ぎが起こっているところへ走っていく。
アヤは、歩きながらまたアクマが出たのだろうと思った。
騒ぎに巻き込まれると、厄介なことになる。できるだけ早く、アクマに見付からずにこの場所を離れるようと、アヤは走りだした。
駆け出して少しすると、ふと横の細い道に人の気配を感じた。アヤが細い路地の方に目を向けると、少年がすぐ近くにいた。ぶつかる、と思い少年を避けようとしたアヤは、足をもつらせて転んでしまう。
「大丈夫ですか?」
アヤが自分を避けようとして転んでしまったのを見た少年は、腰をかがめて手を差しのべる。
「大丈夫です。ありがとうござ……」
アヤはお礼を言いながら少年の手を取ろうとして、思わず言葉をとめる。
「タクト?」
「えっ? アヤ?」
目の前にいたのは、この前知り合ったアクマのタクトだった。タクトの近くにはクリスも立っていた。
「大丈夫? 立てるか?」
「うん。――っ」
タクトの言葉に頷き、立ち上がろうとしたが、足に激痛がはしる。アヤは顔を歪め、痛む右足首に手を添える。
「無理そうだな。治してあげたいけど、治癒術は得意じゃないんだ」
気休め程度にしかならないけど、と呟きながら、タクトはアヤの右足首に両手をかざす。
タクトが短い言葉を紡ぐと、両手の先にぽうっと温かみのある黄色い光が現れる。光が消えると、アヤの足の痛みは先程より軽くなっていた。
「ありがとう」
「俺を避けようとして転んだんだろ?」
「まぁ、ね」
「それならお礼はいらない」
「でも、他の人だったらここまでしないでしょう?」
「それは、まぁ……」
アヤの指摘通り、タクトはアクマだ。普段なら転んだ相手に声はかけたとしても、治癒術まではやらない。
「だから、ありがとうで合ってるよ」
そう言ってアヤは笑った。
「おい、いつまで話してるんだ?」
二人の様子を近くで見ていたクリスが、苛立たしげに声をかけてくる。
「ごめん」
「なあに? 仲間外れにされたのが淋しかったの?」
「からかうなよ。状況判ってて言ってるのか?」
「非常にまずいよねぇ」
素直に謝ったタクトに対し、アヤはクリスをからかいのんびりと会話をしていた。先程から苛立ちを隠さずにしていたクリスの米神に青筋が浮かぶ。
「お前……」
「そんなに怒らないでよ」
「誰が怒らせてんだよ」
「なら、二人の方こそ状況が判ってるの?」
街の中で起きたアクマ騒動が、ゆっくりと広場へと近づいている。三人がいる場所が巻き込まれるのも時間の問題だった。
喧騒が近づく中、三人を包む空気はやけに静かだった。
「向こうのアクマ騒ぎが近付いてきてるのも問題だけど、今私の前には二人のアクマがいるんだよ? そっちの方がまずいでしょう?」
ふざけていても、アヤはしっかりと状況判断ができていた。
「それとも、二人はこの前みたいに見逃してくれるの?」
「一応、俺達のことアクマだと認識してるんだな」
「当たり前でしょう? まぁ、今はアクマらしい気配がほとんどないけど」
アヤは、二人からアクマ特有の魔力をほとんど感じないことを指摘した。普通の人なら、二人の魔力を感じられず、魔力を隠している魔術師だと勘違いするだろう。
「お前、もしかして結構魔力が強いのか?」
アヤが、二人をただの顔見知りという理由でアクマとして接した訳ではなかったということを知り、クリスは尋ねた。
「まぁ、普通の人よりは強い方だと思うよ?」
「だからか。それより、走れるのか?」
「歩けるだろうけど、走るのはちょっと無理かなぁ。だから、二人がどこかに行ってくれると助かるなぁと。向こうで騒ぎを起こしてるのは中級クラスみたいだからね」
「一人で相手にする気か?」
「今のところ三人だからね。友達には怒られそうだけど、無理な人数じゃないから。もしくは転送魔術で移動するかだよね」
「どうするか決めたか? 早くしないと俺達が魔力を隠してる意味もなくなる」
アヤとクリスが話をしていると、隣で騒ぎの様子を見ていたタクトがこの後のことを聞いてきた。
「ったく」
「えっ?」
クリスは悪態をつくと、隣で座っているアヤを横に抱いて早足で歩き出した。その後をタクトが無言で追いかける。
「ちょっと! 降ろしてよ」
「それはできないな。さっき、走るのは無理だって言ってただろ?」
「そうだけど。ほっといてくれればよかったのに」
アヤがそう呟くと、隣を歩いていたタクトが口を挟む。
「無茶してアクマと戦おうとしてる奴をほっとくわけないだろう?」
「二人だってアクマじゃん」
「別に、俺達が何しようが関係ないだろ」
クリスが答えになっていない答えを言う。
「答えになってない」
「うるせぇ」
「本当のことを言っただけじゃん。で、どこに連れて行くつもりなの?」
「さぁ、どこだろうな」
「ちゃんと答えてよ」
アヤとクリスが言い合うなか、タクトは静かに二人の会話を聞きながら歩く。アクマ二人に学生一人、という変な三人組は民家の並ぶ道を進む。幸い、先程の騒ぎで道には誰もいないため、三人を奇異の目で見てくる人はいなかった。
「嫌だって言ったら?」
クリスがおもしろがって言うと、アヤは上にあるクリスの顔を睨みつけた。
「おもしろいな」
ゴツ、と音がしてクリスが呻く。
「痛ぇな。叩かなくてもいいだろ」
「本音を言うからだろ」
呆れた、とばかりにタクトが言う。心なしか、クリスに呆れの視線まで向けられているような気がした。
「で、どこに向かってるの?」
アヤが怒った調子で再び尋ねる。
「噴水広場だ。どうせ下校中だったんだろ?」
「そうだけど、広場の中までは行かないでしょう?」
「当たり前だ。騒ぎを起こさなければアクマだって気付かれることはないが、もしかしたら気付く人がいるかもしれないからな」
会話が終わると、アヤは大人しくクリスに運ばれる。
少し人気が多くなってきたところで、クリスが足を止めた。
「ここまでだな。立てるか?」
「うん、平気。クリスが運んでくれたから。重くなかった?」
「重かった」
「そういうのは、たとえ冗談でもそんなことないよって答えとくものなんだよ」
アヤが言うと、すぐ近くにいたタクトが静かに頷いていた。
「冗談に決まってるだろ。それより、その足早く治せよ?」
「心配してくれるんだ?」
「一応な」
「俺のせいでもあるしな」
隣で二人の話を聞いていたタクトが申し訳なさそうに言う。
「気にしないで。私も周りを見てなかったんだから。お互い様だよ」
「そうか。でも、早めに治せよ? 俺の治癒術じゃ、気休めぐらいにしかなってないからな」
「それでも助かったよ。痛みはほとんどないから。ありがとう」
「じゃあ、俺達はもう行くから。今度会うときも敵対しないとは限らないんだから、気を付けろよ?」
アヤとタクトの会話が終わるとすぐ、クリスが別れを告げる。
「判ってるよ。二人は、優しいアクマなんだね」
アヤは思ったことを言葉にして笑った。すると、クリスが呆れた様子で溜め息を吐いて言う。
「お前、アクマに対して優しいとか言うなよ」
「ごめんね?」
「謝る気ないだろ?」
「否定はしないかな。それより、早く行かなくていいの?」
「ったく。もう今日みたいなことはしないからな」
そう言って、クリスはタクトを連れて噴水広場へ続く道を避けるように住宅街の細い道へと入っていった。そのまま進めば、草原に着く。中級アクマ達の騒ぎを気にする素振りはなく、加勢する気がないことは容易に判った。
すぐにその場から移動できなかったアヤは、心の裡で胸を撫で下ろす。移動する前の会話で、二人が中級アクマに加勢する気がないことは気付いていた。しかし、相手は仮にも上級アクマ。気が変わってその場でアヤの敵となることも否定できないと、アヤは無意識のうちに理解していた。
二人の後ろ姿を少し見た後、アヤは噴水広場へ向かってゆっくりと歩きだした。
タクトが応急処置として治癒術をかけてくれた右足首は、痛みこそないが既に腫れている。後数時間もすれば、再び痛みだすことは判っていた。
噴水広場に着くと、アヤは広場の中央にある円形の噴水の石段に腰をおろした。
ぼんやりと座っていると、先程アヤが出てきた道からハルルがやって来た。
「あれ? アヤちゃん、こんなところでどうしたの?」
「ちょっとね。はるるんこそ、早い帰りだね。仕事終わったの?」
「もちろん」
アヤが疑いの目でハルルを見る。
「あ、疑ってるでしょ。ちゃんと終わってるからね。後は家でやろうと思って持ち帰ってきたんだから」
「それ、終わったって言わないんじゃないの?」
「学校でやっておこうと思ってたことは終わったから、終わったの。そういえば、ここに来る前、中級アクマ達が騒ぎを起こしてて、遠回りすることになったんだよね。アヤちゃんも巻き込まれてないみたいだけど、大丈夫だった?」
「まぁ、一応はね」
「どういうこと?」
アヤの答えに、ハルルが首を傾げる。
「騒ぎが起きたとき、まだ距離があったから急いで離れようとしたんだけど、その時にタクトにぶつかったんだよね」
「大丈夫だった、んだよね……?」
タクトの名前を聞いたハルルは、一瞬ぎょっとした。以前、アヤから上級アクマと話したと聞いたときに挙がったアクマの名前だったからだ。
「タクトともう一人、クリスがいたんだけど、二人とも魔力を隠してて、中級アクマの騒ぎには加勢しない素振りを見せてたからね。本当に加勢しないで行っちゃったし。ただ、タクトにぶつかった時、足を捻っちゃって……」
そう言うと、アヤはハルルに挫いた右足を見せた。
ハルルの方に少し出された右足首は、靴下からの上でも腫れていることがよく分かった。
「治癒術は得意じゃないって言いながら、タクトが少し治してくれたから、今はそんなに痛くないんだけどね」
「治して、くれたの?」
アクマらしからぬ行動に驚いたハルルは、思わず聞き返す。
「……うん。私も驚いた。そのあと、騒ぎに巻き込まれそうになったんだけど、走れないって答えたらクリスがこの近くまで運んでくれたんだよね」
アヤの話を聞いたハルルは、口を開いたが何も言わずに閉じた。タクトが治癒術を行使したことでさえ驚きだったのに、クリスまでアヤを助けたと知り、返す言葉が見つからなかった。
「二人とも変わったアクマだよね。思わず『優しいアクマなんだね』って言っちゃった」
苦笑を浮かべているアヤを見て、変わってるのは両方だとハルルは思った。
「そうなんだ……。それより、痛めた足は治さないの?」
「歩けない訳じゃないからいいかなって」
「アヤちゃんがあまり魔術を使いたがらないのは知ってるけど、治癒術くらいはいいんじゃないの?」
国民のほとんどが魔術師であるフローレ国は、普段の生活でも魔術が使われている。移動に瞬間転移や飛行を使ったり、魔力がこめられた魔法道具を使ったりと用途は様々だ。
日常生活に魔術があふれるなか、アヤはほとんど魔術を使うことがなかった。それは、今の状態でも変わらない。
「アクマに会った時どうするの?」
「……なんとかするもん」
ハルルの問いに、アヤは一瞬黙るものの曖昧な答えを返す。ハルルは呆れの溜め息を吐くと、アヤの右足にそっと手を近づけた。
「そのまま右足出しててね。靴と靴下脱がせるよ?」
アヤの右足を出すと、足首が赤く腫れていた。
「捻挫みたいだね」
「まぁ、結構捻った気がしたしね」
「それを放っておこうとしたんだ?」
「うっ……」
「判ってるなら、次から治癒術くらいは使うようにしてほしいな。無理に、とは言わないけどさ」
ハルルはそう言いながらアヤの右足首に片手をかざして治癒術をかける。然程時間もかからずに、赤く痛々しそうだった足首の腫れがひいた。
「はい、おしまい」
「ありがとう。今度からは善処するよ」
「善処する、ねぇ。そこで頷かないのがアヤちゃんだよね」
「まぁ、本当に必要な時はちゃんと使うから多目に見てよ」
「まぁ、何でも魔術で済ませちゃうのが良いとも言えないしね。それに、アヤちゃんが強いのは知ってるから。それより、明日何か予定ある?」
明日は休日のため、学校はない。特にすることもないアヤは、一日中あいていた。
「いや、何もないよ?」
すると、ハルルが嬉しそうに笑う。
「じゃあさ、桜を見に行こうよ!」
今の時期は桜が満開になっている。桜が大好きなアヤにとっては、一番嬉しい時期といえた。
「いいね。私、草原の奥の方にあるところに行きたい」
「どこにあるの?」
普段から草原へ行く人は少ない。まして、草原の奥となれば足を運ぶ人はもっと少なくなる。そのため、アヤが提案した場所を知る人はほとんどいない。
「草原をかなり南東に行くと、小川が流れてるところがあるの。で、そこに桜の花も咲いてて、並木道になってるんだ」
「そんなところがあったんだ」
「うん。小川を越えて、ちょうど桜並木の向かい側に行くと、花畑もあるの」
アヤは、いつか見た景色を思い出しながらハルルに話をした。とても幸せそうに笑うアヤを見て、ハルルも思わず口元が緩む。
「始めて知った。アヤちゃん、よく知ってるね」
「お気に入りの場所だからね。草原に来る人自体が少ないから、あまり人がいなくて静かなところなんだよ」
「へぇ。じゃあ、明日はそこに行こうか。アヤちゃんの好きな時間に、私の家に来てよ。いつでも行けるようにしておくから」
「判った。じゃあ、また明日。足、治してくれてありがとう」
お礼を言い、アヤは城へと続く商店街の方へと歩きだした。
翌日、昼より少し前の時間にアヤとハルルは桜並木に着いた。
小川に沿って咲き乱れる桜の並木道を見て、ハルルが感嘆の声を上げる。そよ風が吹く度にひらひらと散る花びらは、まるで雪のように見えた。
「綺麗だね」
「そうでしょ。中もすごいんだよ」
そう言い、アヤが並木道の中に入る。ハルルもその後に続いた。
見上げると満開の桜があり、アヤは宙を舞う花びらを掴もうと手を伸ばす。ハルルはそんなアヤを見て、微笑んだ。
桜並木を楽しむと、二人は小川を渡り桜並木の反対側にある花畑に来た。
温かいオレンジ色の花や紅色の花など、色とりどりの花が一面に広がっている。二人はシートを敷いて、昼食をとった。
「いいところだったね」
「そうだね。今年も来られてよかった」
「毎年来てるの?」
「そうだよ。遠いけれど、お気に入りの場所だからね」
仰向けに寝たまま、アヤが答える。
「なるほどね」
うっかり眠ってしまいそうなほど、暖かい陽が差している。他の人が通りかかることもないため、風が吹く音や小川が流れる音が、とてもよく聞こえた。
しばらくのんびりして、そろそろ帰ろうかということになった。荷物を片付けて、桜並木のあるところに戻る。
「ねぇ、はるるん。帰る前に少しだけ、並木道の中を歩ってきてもいい?」
「いいよ。私は、ここで待ってるから」
「ありがとう」
アヤは少しだけ中の道を歩き、ハルルの元へ戻ることにした。
桜並木の中を半分ほど歩き、元きた道を引き返す。
日が傾き始めた並木道の中は、昼間と違う顔をしていた。薄暗くなった中は、どこか不安をおぼえるような気がして、自然と足が速くなった。
桜並木を出たアヤは、ハルルのところへ戻る前に一度だけ振り返る。
――えっ?
桜並木の中に、先程までなかった人影が見えた。辺りが暗く顔までは見えなかったが、その少年の影は最近知り合ったタクトにそっくりだった。
少年がアヤに気付き、顔を上げるる。ほんの一瞬だけ目が合ったかと思うと、少年がアヤとは反対の方向に走り出した。
俯いて戻ってきたアヤに、待っていたハルルが声をかける。
「アヤちゃん、どうしたの?」
「えっ? あ、何でもないよ」
そう言ってアヤが笑うと、ハルルも笑ってみせた。しかし、ハルルはアヤに何かあったことを感じとっていた。それでも笑ったのは、いつかアヤが話してくれるだろうと思っていたからだった。