chapter 1 〈出会いの春〉
「仕組んだ、よね」
ほとんどの生徒が帰った教室で、一人の少女が教卓にいる教師に詰め寄った。
背中まである金髪に翡翠色の瞳をした少女――アヤは、仮にも担任であるハルルに話し言葉で声をかける。対するハルルは、アヤの言葉遣いに気にすることなく首を傾げた。
「何のこと?」
「クラス替えのこと」
「普通にしたけど?」
悪びれもしない返答に、アヤは思わず溜め息を吐いた。
「普通にやったの? だったら、何で私がまたはるるんのクラスなの?」
アヤは、担任であるハルルをあだ名で呼び、尋ねる。先程からアヤの態度は担任に対してふさわしいものではない。しかし、ハルルは何も言わないでいる。それは、ハルルの心が広いからでもあるが、二人の関係が教師と生徒の他に友達というものがあるためでもあった。
「さぁ? 私は嬉しいからいいけど」
「何で毎年クラス替えしてるのに、担任が一度も変わらなかったんだろう……」
そうアヤがぼやく。
「傷つくようなこと言わないでよ」
アヤの声が耳に届いたハルルが言葉を返すが、その表情は明るかった。
「今のは独り言だよ。はるるんは良い先生の方に入ってるから」
「本当? アヤちゃんにそう言ってもらえるとすごく嬉しい」
そう言ってハルルは、花が咲くように笑う。
二年も一緒に、それも生徒と先生ではなく友達として接していれば親しくもなる。
「それは嘘じゃないから安心して。それにしても、三年間担任が変わらない……」
「仕組んではいないけど、本当のことを話すとアヤちゃんが怒りそうだからなぁ」
「なんとなく判った」
大方、生徒の要望と先生の要望でクラス替えをしたのだろう。それなら仕方ないか、とアヤは諦める。
「決まっちゃったものは仕方ないか……」
「怒ってる?」
「怒ってない。諦めた。まぁ、担任がはるるんでよかったかも」
アヤはそう言って笑った。もともと怒ってなどいなかったのだ。ただ、ほんの少し不満があっただけで。
「そう思ってくれると嬉しいな」
ハルルもアヤを見て微笑んだ。いつも生徒に見せている笑顔とは違う、優しい顔だった。
「じゃあ、そろそろ帰るね」
「うん。また明日。あ、そうだ」
不意にハルルが、教室の出入り口に向かうアヤを呼び止める。
「なに?」
「最近、アクマがよく街に現れるみたいだから、気をつけてね」
「判ってるって」
そう返事をすると、アヤはハルルに背を向けて教室を去った。
昔、アクマはあまり悪い存在とは思われていなかった。人々がアクマに悪い印象をもつようになったのは、数十年程前から。今までは、人に悪さをして困らせるだけだった彼等が、今は人を襲うようになったのだ。酷い時には、魔術師の魔力を奪うこともある。何を目的としているのかは判らないが、以前よりも悪い存在になったことは確かだった。
だから、フローレ国の人々はアクマを警戒している。いつ、どこでアクマと鉢合わせるか判らないため、外を歩く時は用心するにこしたことはない。ハルルがアヤに声をかけたのも、それが理由だった。
人通りの多い道を選んで帰って来たアヤは、アクマと遭遇することはなかった。
賑わう街を抜け、王都の城へ向かう。アヤは今、城の中で暮らしている。
というのも、アヤの両親が幼い頃に行方が分からなくなってしまったのだ。一人になったアヤを引きとったのが、城に住む両親の兄弟だった。
彼等には子供もいたが、アヤを自身の子供と同じように育てた。そのため、アヤが辛い思いをすることはなかった。
「ただいま」
「おかえりなさい」
いつも家族で過ごす部屋に入ると、王妃が笑顔で出迎えてくれた。
「学校の方はどうだった?」
王妃の質問に、アヤは少し不機嫌そうな表情を浮かべる。
「またハルル先生のクラスになった。最後の年だったのに……」
つまらなさそうに答えると、王妃は苦笑いを浮かべた。
ハルルがアヤを気に入っていることを知っている彼女は、どう返したら良いだろうかと少し考える。
「まぁ、ハルル先生は素敵な先生だから、いいんじゃないの?」
「うん、まぁね」
決まってしまったことは仕方がない。今更変えることなど出来ないことくらい判っている。だからこそ、少し不満を言いたかった。
話が落ちつくと、アヤは王妃に尋ねる。
「帰ってきてすぐなんだけど、少しだけ出かけてきてもいい?」
「本当はあまり外に出ない方がいいんだけれど、仕方ないわね。アクマには気をつけるのよ」
「ありがとう」
アクマは昼間より夕方から夜にかけて姿を現しやすい。それは、フィーネに住む人なら誰でも知っている。アヤもそれを承知で王妃にお願いをした。王妃は、案の定あまり良い顔をしなかったが、許可を出した。
アヤは、自室に鞄を置くと、制服のまま城を出た。
向かったのは城から大分離れたところにある小さな丘のある草原だった。そこは、あまり人が来ることがなく、とても静かな場所。小さな丘の上には、その丘の象徴とでもいうように、一本の木が立っている。アヤはその木にもたれかかってぼんやりと過ごすことが好きだった。
丘に着いたアヤは、いつものように丘の上に立つ木の根元に腰をおろした。春とはいえ、まだ肌寒い風が吹く。すぐに制服のまま出て来てしまったことを後悔した。
しばらく目の前に広がる草原を眺め、そっと目を閉じる。春の風が木の葉を揺らし、サワサワという音が耳に届く。そうして、一人静かな時間を過ごした。
少しして、ゆっくり目を開ける。最近、よく街にアクマが出現していることを考えると、しばらくこの丘に来るのを控えた方がいいだろうと思った。しかし、ここはお気に入りの場所であり、アヤが自分の時間を過ごせるところでもある。そう簡単に足を運ぶのを諦めることはできない。たまにならいいよね、と心の中で言い訳をして再び草原を見ると、一人の少年の姿があった。
嫌な予感がしたアヤは、自然を装って丘を立ち去る。丘を離れる時に感じたのは、アクマ独特の気配だった。
高学部三年にもなれば、他人の魔力を感じることができるようになる。ただ、他人に悟られないように意識して魔力を隠す人もいるため、そういった場合はその人と相手の魔力の強さによって感知できるかが決まる。
アヤは丘で闇の気配を感じとって、草原に現れた少年がアクマだと知った。そして、アクマとの接触を避けるために丘を去ったのだ。
城へ戻ろうと街の中を歩いていると、背後からよく知る魔力を感じた。そのすぐあと、音符がつきそうな弾んだ声がアヤを呼んだ。
「アーヤちゃん」
振り返ると、後ろには教室で話をしたハルルが立っていた。にこにこと嬉しそうな笑顔を浮かべている。
「はるるん。帰るの早いね」
「まぁね。アヤちゃんこそどうしたの? 帰る前にちょっと注意したはずだけど……」
「そうだったね。でも、どうしても行きたい場所があったから」
「この前気に入ってるって言ってた、あの丘?」
「うん」
肯定を返すと、ハルルの家が丘のある草原の近くにあることを思い出す。
「久しぶりに家にくる?」
「うん。おじゃましてもいいかな」
「もちろん」
ハルルの家に着くと、アヤは来客用のソファーでくつろいでいた。
リビングルームのテーブルには、透明感のある水色やピンク色などの液体が入った小瓶が置かれている。アヤはピンク色の液体が入った小瓶を手に取ると、軽く左右に振った。すると、小さなしぶきをあげた液体が、きらきらと銀色の光を小瓶の中におとした。
その様子を眺めていると、お茶とお菓子を持ったハルルがきて
「綺麗でしょう?」
と声をかけてくる。
「これ、何の薬?」
「惚れ薬」
小瓶を見つめていたアヤは、その答えに驚き思わず視線を隣にいるハルルへ向けた。
「……って答えられたらよかったんだけどね」
そこにあった、いたずらが成功したようなハルルの顔を見て、アヤは不満そうな表情を浮かべる。
「で、本当は?」
からかわれて機嫌が悪くなったのか、少し口調が冷たい。しかし、ハルルは気にすることなく本当の薬の効果を答えた。
「それにしても、またいろいろ作ってたんだね」
「まぁね」
「古代文字の先生のはずなのにね」
「趣味の一つだからね」
「それで薬品学の先生より詳しいんだもんね。薬品学の先生でもよかったんじゃないの?」
機嫌の直ったアヤは、返ってくる答えが分かっていながら言った。
「もう、分かってて言ってるでしょう。前にも言ったけど、趣味は趣味のままがいいの。それに、学生に教えるような薬品はあまり作らないし」
「確かにね」
アヤは、テーブルの上に置かれている薬を見た。どれも授業では教わらない薬ばかりが並んでいる。そのうちいくつかは、ハルルのオリジナルと思われるものもあった。アヤがオリジナルと思われる薬を見ていると、ちょうどハルルから声がかかる。
「オリジナルもあるしね。それはそうと、アヤちゃんだって薬品学に詳しいじゃない」
「私はほら、学生だから」
誰もが納得できないような答えを返すと、案の定ハルルから突っこみがある。
「普通の学生以上に詳しいじゃない」
「じゃあ、私も前に言ったけど、これは趣味のようなものなの」
「それで古代文字にも詳しいんだね。難しい薬品ほど、作り方は古代文字で書かれていることが多いからね」
「それは、はるるんもでしょう?」
「まあね」
会話が一旦終わり、二人してお茶を飲む。次に口を開いたのはハルルが先だった。
「それで、丘で何かあったの?」
普通の人なら慌ててしまいそうな突然の質問だったが、アヤは落ち着いたまま答えた。
「何もなかったよ」
「ふーん……」
ハルルが不満そうに表情をくもらせる。
「疑問に思わなかったの?」
「何が?」
「私が何でその質問をしたのか」
「思わなかったし、大体判るよ」
アヤがそう言ってまたお茶を飲む。ハルルは更に口を尖らせて不満を表した。それを見たアヤは、苦笑ぎみに言葉を紡いだ。
「私があの丘に行ったのに、帰りが早く感じたからでしょう? あの丘へ行った時は、夕刻の鐘が鳴るまで帰らないことがよくあるのを、はるるんは知ってるから」
「そうだよ」
「話を戻すけど、何もなかったのは本当だよ。でも、アクマは見かけた」
アヤは紅茶を一口飲み、ティーカップをテーブルに置く。先程まで苦笑いを浮かべていた表情は消え、真剣そうな目でティーカップを見つめていた。
「もしかして、上級?」
それに合わせて、ハルルの声も先程より硬くなる。その問いに、アヤは静かに頷きを返した。
アクマは、強さによって上級・中級・下級の三段階にクラス分けがされている。街で単独行動していることが多いのが上級で、他の階級のアクマは複数人で行動していることが多い。アヤが丘で見た少年は、上級のアクマだった。
「まぁ、向こうに気付かれる前に逃げてきたけどね」
「正しい判断だね。アヤちゃんは普通の人より強いけど、やっぱりまだ学生だからね。逃げるのが正解だよ」
「うん」
ハルルが言ったように、アヤの魔力は普通の人よりも強い。もし、上級アクマと戦うことになったとしても、勝つことができるだろう。
「それに、アクマ達の間で騒がれることになったら大変だからね」
「そうだね」
アヤが上級アクマを倒すことがあれば、アクマ達はアヤのことで騒ぐことは目に見えている。学生が上級アクマに勝つことは珍しいからだ。アクマ達に騒がれてしまえば、アヤはアクマに狙われるようになる可能性がある。アヤはそうなるであろうと判っていたから、すぐに逃げたのだった。
街の方から鐘の音が聞こえてくる。
「夕刻の鐘だね。そろそろ帰った方がいいよ?」
「うん、そうさせてもらうね。お茶、ありがとう」
アヤはそう言ってハルルの家を後にした。
ハルルの家から街までは少し離れている。街に入る前にアクマに見付かってしまうと困るため、少し早足で歩いた。
もう少しで街の入り口でもある、煉瓦造りの道になるというところで声をかけられる。
「学生か?」
少年の声がして前を見ると、丘で見かけたアクマの少年が立っていた。数時間前に見た時と違い、もう一人少年の姿がある。声をかけてきたのは丘で見かけた濃い灰色の髪に群青色の瞳をした少年のようだった。もう一方の黒髪に碧色の瞳をした少年は、ただ静かに立っている。
街へ向かう道を遮られたアヤは、ちらっと後ろを見て悩んだ。何とかして進むか、草原へ引き返して遠回りをするか。考え事をしていると、再び先程声をかけてきた少年が口を開いた。
「お前……夕方、あの丘にいた奴か?」
普通のアクマなら話しかける前に攻撃してくる。しかし、少年はそれをしてこなかった。アヤは心の裡で不思議に思いつつ、少しだけ少年の話に付き合ってみることにする。
「そうだけど、あなたは?」
「俺はクリス。こっちはタクトだ」
「それで、用件は何?」
「用はないな」
クリスの答えにアヤは少し眉を潜めた。そんなアヤの態度を見たクリスが再び質問をしてくる。
「怖くないのか?」
「何が?」
アヤの声に棘が混じり始める。
「俺達アクマに遭遇したら、普通は逃げるだろ。平気で話をするやつなんて初めてだ」
「そっちが話しかけてきたからでしょう」
「それは失礼しました」
クリスは全く心のこもっていない声で言った。
「だが、俺としては逃げなかったお前にも原因があったと思うがな」
「あなた達の後ろが帰り道なの」
アクマ相手に無駄だと思いつつ、アヤは正直に逃げなかった理由を話す。
「それなら、回り道でもすればよかっただろう?」
「今まで来た道を引き返せと?」
「俺達アクマを恐れてるやつらならそうするんじゃないのか? 学生なら、尚更な。まぁ、お前は例外みたいだけどな」
「クリス」
今まで口を挟まずにいたタクトが、嗜めるようにクリスの名前を呼ぶ。
「そうだな。今日のところは見逃してやるよ」
「それはどうも」
無駄話に付き合った気分だったアヤは、心の裡で『当然でしょう』と呟いていた。
「可愛いげのないやつだな」
アヤの反応をみたクリスが一言呟く。そして、タクトと共に姿を消した。
アクマが立ち去ったことで道が開けると、アヤは何事もなかったかのように街へ歩きだす。
街の商店街は、夕刻ということもあってたくさんの人で賑わっていた。
アヤは人で賑わう商店街を余所見することなく進んだ。そうして商店街の中心部とも言える、少し開けた場所に出る。その広場の真ん中にある噴水の近くで、ようやく足を止めた。
噴水の近くで、水が落ちる音を聴いていると、少しずつ心が落ちついていく。少しの間噴水を眺めていたアヤは、小さな声で「帰ろう」と呟くと、城へ向かう道を歩き出した。
一方、アヤの前から姿を消したクリスとタクトは、小さな丘の上に立って話をしていた。
「クリス、あの子がローズの言ってた子か?」
「さあな。外見は話通りだったな。お前はどう思うんだ?」
「容姿はローズが言ってた通り。多分、魔力も強い」
「そうだな」
タクトの呟きに、クリスは自分も同感だと相槌を打つ。
「声をかけても逃げなかったってことは、少なからず自分の力に自信があったんだと思う」
「そうとれなくもないが、最初にあいつを見た時はすぐ逃げられたからな……」
クリスは、丘でアヤを見かけた時のことを思い出しながら言った。
「俺と合流する前に会ったのか?」
「見かけただけだよ。大体、お前こそどこに寄ってきたんだよ」
「それは、言えない」
クリスの問いかけに、タクトは目を逸らして気まずそうに答える。微妙な空気が流れそうになるが、クリスは深く追求することなく話を続けた。
「そうか。まぁ、しばらく様子見ってところか? 他の上級の奴にやられるか、逆に倒すか」
「そうだろうな」
タクトが頷きを返すや否や、丘の上を風が吹き抜ける。それとほぼ同時に二人は姿を消し、風が通りすぎた丘は人影がなくなっていた。