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時ノ輪の番人

作者: 小川すみれ

 ここは村から少し外れたところ、広い緑の丘の上。大樹の根元に腰をおろし、弓なりにした古木に弦を張っている私のところへ、彼はまるで陽炎かげろうのように姿を現した。

 立っている彼と座っている私、背後には澄みわたった青空。緩やかな風の音の中に彼の荒い呼吸がまじる。丘を駆けあがってきたのだろうか。

 すっかり楽器を作る気がなくなってしまった私は、しならせていた古木を地面に敷いた布の上に置いてから、まるで姿勢を正すように胡坐をかいていた足を女らしく揃えた。そして先ほどからこちらを見つめたまま何も言わない彼に向って問いかける。

「はじめまして。あの、何かご用ですか?」

 ごくりと固唾を飲む音が聞こえた。纏う空気が一瞬だけ緊張を孕み、そして次の瞬間には霧散していく。

「はじめまして、ハル。僕はリョウスケといいます」

 あなたに会いに来ました、と。

 黒い髪に黒い瞳、小麦色の肌の彼は、ぐっと何かを耐えるような様子で、それでいて頼りなさげに、へにゃりと私に笑いかけたのだった。


 ◆


 この村では珍しい容姿をしたリョウスケは、ひょろひょろで、どこか頼りなさげで、しかし奇妙なほど何でも知っていた。それはこの村のことであったり、明日の天気であったり、植物のことであったり――そして私のことであったり。

 初対面にしては彼は私のことを知りすぎていた。確かに私はエプの果実酒が好きだし、家の裏庭の井戸は暗くて怖いし、引き出しには祖母からもらった大切な髪飾りをしまっている。

「僕はね、ハル、きみの未来も知っているよ。きみがいま作っているその楽器。きみはその楽器に弦を張るけれど、その一本が切れてしまって、きみは薬指に軽い切り傷を作るだろう。切れたのは四本目の弦だ」

 彼は見事に私の未来を言い当てた。私は実際に弦を切ったその弾みで指を傷つけ、それはちょうど四番目の弦だった。

 不審に思う私の関心を得るようにして、彼は次々と私の未来も過去も当てていった。

 占い師なのかと尋ねると違うと答えた。では預言者なのかと問いかけると、少し迷った後に否定のしぐさをした。未来が見えるのかと質問すれば、それに対してもまた悩ましげな表情をするのだった。

 不思議と気味悪さはなかった。それは彼が何の悪意もない笑顔を見せるからか、私を見つめる眼差しがあまりにも優しげだからか。

 彼が何を考えていて、その黒々とした瞳で何を見ているのか、私にはわからない。


 ◆


 リョウスケは遠く遠く離れた場所からここへ来たのだと、私に教えてくれた。今は村の飲み屋に居候しているらしい。

「リョウスケの育った場所はどんな所だった?」

 私たちはほとんど毎日を一緒に過ごしていたし、こころの距離もずいぶんと近くなっていたから、私が彼のことをもっと知りたいと思うのは自然なことだった。

「こことは比べ物にならないくらい、たくさんの人やものであふれている所だよ」

 景色は灰色。建物はどれも天高くそびえ、空はずいぶんと狭い。ここよりずっと栄えたところで、人は日が暮れても光の下で生活をしている。大人は働き蟻のように忙しなく、子どもは家にこもって取り憑かれたように勉強しているんだ。

 彼は私に彼の生まれ故郷の話をたくさんしてくれた。口から零れ出る単語はどれも故郷を褒めるようなものではなかったけれど、どうしてだろう、彼が故郷を語るときはいつも、そこに隠された愛おしさを微かに感じるのだった。

 帰りたい、と。

 彼はきっとそう思っているに違いない。

 ちくりと胸が痛んだ。この感情を私は知っている。そしてこの感情に蓋をしなければならないことも私は理解している。

「僕は科学者だった。ときを旅する装置を作っていたんだ」

 風に髪を遊ばせる私を見て、彼は懐かしむようにぽつりとそう言った。


 ◆


 それから私たちは特に何をするでもなく日々を楽しんだ。ときには丘を転げまわって遊んだし、鍛冶屋の奥にある泉で暴れて服をびしょびしょにした。雨の日は、彼が居候している飲み屋でお互いの似顔絵を描いて、お互いにその下手くそさをけなしあったこともあった。

 彼といる毎日はどこか子ども染みていたけれど、とても賑やかで心地よく、喜びと興奮にみちあふれていた。

 そんな生活のなかで私は、こころの片隅にくすぶる熱を無視し続ける。


 ◆


「ハル、あのこの様子はどうだ」

 丘にある大樹の根元に腰をおろしてひとり音楽を奏でていると、ときどきお父さんはやってきて、彼の様子を尋ねてくる。

 私はその質問に、楽器の弦をはじきながら「元気そうだよ」と答え、それに対してお父さんは相変わらず無表情のまま。

 ぶっきらぼうな人なのだ。その仮面の下にたくさんの感情を秘めていることを私は知っている。

「いいか。お前は特別だ。特別だが、なんでも許されるわけじゃない。欲望の支配の先に、幸福はないことをくれぐれも忘れないように」

 風が丘を駆け上がる。すこし冷たい緑の草原。

「うん」

 私は頷き、リョウスケに教えてもらった旋律を奏でた。不思議な曲調。彼の故郷の花を愛でる唄なのだという。

 お父さんは何の感情も浮かべずに、ただ遠くをじっと見ていた。

 ぶっきらぼうな人なのだ。その瞳に懸念を映しているのを私は知っている。

 けれど私は、お父さんの気持ちにさえ気付かないふりをする。

 爪弾つまびいた弦から、ぽろん、と優しい音が鳴った。


 ◆


 それはある夕暮れのことだった。

「きみに教えたいことがあるんだ」

 丘の一番高いところにある大岩に腰かけて、夜へと染まる村とそれを取り囲む広大な深緑の森を二人で黙って見つめているとき、リョウスケがぽつりと言葉を漏らした。

「教えたいこと?」

 首をかしげて隣を見れば、その真っ黒な瞳に太陽を映した彼は、どこか躊躇うようにして口をつぐむ。

 静かだった。不安げなしぐさがいつもの無邪気なリョウスケらしくなく、私はただ沈黙したまま、彼の横顔を見つめた。

 やさしい夕日に、ひんやりとした岩、瑞々しい草原、広がる景色。

 リョウスケと出会って、何回日が落ちただろう。

「……信じられないかもしれないけど、ちゃんと聞いてほしい」

 そよ、と風が彼と私の髪を揺らしたとき、彼はため息をつくような重い口調で言葉を吐き出した。

「あと三十回朝がやってきたあとの、三十一回目。日蝕が起こる」

「日蝕?」

 私がそう返せば、リョウスケは固い口調で、日蝕、と繰り返しながら頷いた。

「ハルは、僕には未来が見えているんだって思っているだろう?」

 彼の問いかけに、私は無言で頭を縦にふる。

 柔らかくも悲しげな眼差しだった。その黒い瞳の奥に何があるのだろうか。

「僕は日蝕以降の未来は知らない」

「日蝕以降の?」

「正確に言えば、僕は、僕が体験した未来しか知らない」

「うん?」

 そこからリョウスケは、表情が暗いまま、まるで独白するかのように言葉をこぼしていった。

「僕はもうずっと前に、ハル、きみと出会っているんだ」


 ◆


 始まりは突然で、そのきっかけは分からないと言った。ただ気づいたときにはこの村の片隅でうずくまっていたのだという。

「意味が分からなかった。異世界に来たんだと思う。ハルからすれば、僕が異世界の住人なのだろうけど」

 暗い表情、伏せられた睫毛。

「混乱した。人種も言語も、来ている服や村の様子だって全然知らないものばかりで、僕は情けなくも泣いたよ。いや、僕は泣かなかったんだけど、ハルに見つけられて、顔についた泥を拭いてもらって、温かくて物珍しいご飯を食べて、それで。それでハルに言葉を教えてもらっているとき、僕は本当に知らない世界に来てしまったんだという気持ちで、そのとき初めて泣いたんだ」

 悲しそうに下がった眉、情けない背中。

「ハルは何も言わなかったけれど……黙って僕が泣きやむのを待ってくれていたけれど、それがとても心地よくて、ありがたかった」

 きみは覚えていないだろうけどね、ハル、と言葉が落とされた。

 ちくりと胸が痛む。

 異国の彼は、異世界の住人で。独りしらない土地へ来た彼は、どれほど不安でどれほど恐怖しただろう。

「ここで死ぬまで過ごしていくのだと思った。日々が暮れていくにつれて、それでもいいかと思うようになった。けれど……けれど日常は続かなかった」

 私はリョウスケと過ごした日々を思い出しながら、その一方で話に耳を傾けた。

「日蝕のあとの、景色が明るくなってきたとき。それを境にこの村の人びとは僕の記憶を無くしていることに気づいた。誰ですか、はじめまして。みんな僕に向かってそう言うんだ。それはハルも一緒で……」

 私はリョウスケと過ごした日々を思い出しながら、彼が何を言っているのかを必死で理解しようとした。

「何度もそれは繰り返された。日蝕の後、きみたちは必ず僕の、僕だけの記憶を無くす」

 辛かった、悲しかったと彼の掠れた声が鼓膜を震わせる。

「けれど五回ほどそれを繰り返したとき、ふと気付いたんだ。未来に進んでいないことに」

「進んでいない?」

「そう、進んでいなかった。みんなが僕の記憶を無くしているんじゃない。僕たちはみんな、日蝕を境にして、僕たちが出会う前のときに戻っているんだ」

 どこか興奮しているのか、荒い感情が声を彩り、口調が少し早くなりはじめた気がした。

「日蝕が来て世界が真っ暗になった次の瞬間、僕たちは過去に戻り、そして同じ毎日を繰り返しているんだ。きみはいつだって四番目の弦を切ったし、ここはいつだって二八回目の晩に雨が降った。そのあと三回目の夜明けに、僕が育てているリリヨンが白い花を咲かせた」

 何度過去に戻っただろう。日常の細部まで覚えるほど、彼は同じ時を繰り返しているのだ。

「だから僕か預言者でもなければ未来が見えるわけでもない。始めと終わりが縫いつけられたようなこの輪のような時の中で、僕は過去に存在し、未来に存在し、今この瞬間にも存在しているだけなんだ」

 それがわかったはじめのころ、彼は絶望と無力感に苛まれたのだという。何もできなかった、と。

「けれどもう嫌だ。この苦しみから解放されたい。どうして僕がこんな目に遭わねばならない? 僕は普通に過ごしたいだけなのに」

 いいかげん動き出さなければならないと彼は言った。日蝕より未来に進むために、この繰り返しの苦しみから脱却するために、行動を起こすべきだと。

「……なぜか僕だけ記憶がリセットされないのは、僕が異世界の人間だからかもしれない」

 しかしこれが分かったからといってどうすればいいかはまだ分からないと彼は続けた。

「だけどきみと……ハル、きみと一緒に未来を歩んで行きたいんだ」

 黒い瞳が夕日の一筋の光を映して、まっすぐと私を射抜く。

 ぎしぎしと軋みだす胸。

「こんなことを言われて戸惑うだけだと思うけれど、でも、僕は――」

 僕は、ハルを。

 ずきりと疼く心。

 続きを言わせてはならない。聞いてはならない。

「信じる。私はリョウスケの言っていること、信じるよ」

 私は特別だけれど、何でも許される訳じゃない。

 彼の言葉の続きを言わせてはならない。聞いてなはならない。私が欲望に支配されてしまうから。

「だから、あなたの願いを叶えるのを手伝わせてほしい」

 お父さんの横顔を思い出しながら、リョウスケの言葉を遮るように彼へ意思を伝える。

 私は欲望に支配されてはならない。けれどどうか、手伝うことを許してほしい。

 ぐっと自分の想いをしまいこんで、音もなく笑いかけると、こちらを見つめるまっすぐな眼差しが安堵の色を浮かべたのが分かった。

 黒い髪、黒い瞳。異国の風貌をしたリョウスケ。

 私は囁くように、リョウスケに教えてもらった歌を口ずさんだ。花を愛でる唄を。私にはただの呪文にしか聞こえない異国の唄だ。

「そういえばハルはその歌が気に入っているね。雨の日に教えたんだっけ。懐かしいな……今はもう遠い、故郷の歌だ」

 泣きそうな顔をしていたのはどちらか。

 暮れ際の陽光は、宝石のように美しい。


 ◆


 それから私たちは様々な方法を試した。

「この世界は不思議にも、時間という概念がない。時の流れは認知されているのに、トケイのような時を測る物差しはない。どうしてだろう?」

 私たちがまずせねばならないのは、なぜ日蝕後の未来へ行けないのかという原因の解明だった。

「この世界は不思議にも、日蝕の時に足元も見えないほど真っ暗になる。なぜなんだろう?」

 彼は科学者だからなのか、故郷で手に入れた理論や知識を複雑なパズルのように組み合わせては、私にあれをしてみよう、これをしてみようと提案した。

「この世界は不思議にも、星はあって月というものがない。では何が太陽を隠すのだろう?」

 私はまるで助手にでもなったつもりで、あちこち駆け回った。そして言われるがままに、様々な模型を作り、記号や図式を記録して。

「どうして? なぜ? どうしよう、答えが見つからない」

 彼の小さな部屋がぐちゃぐちゃになってゆくのと同じように、彼もまた混乱していった。私は何をしてあげることもできず、ただそのもどかしさの中で時おり彼に言葉を投げかけるだけ。

「もう時間がないのに……」

 もうすぐ日蝕のときがやってくる。彼の焦りはひどい。


 ◆


 リョウスケは結局答えを見つけられないまま、私はそんな彼を見つめたまま。空には光り輝く太陽。あと少しで日蝕が始まる。

 私はひとりあの大岩に腰かけて、意味もなく弦をはじいていた。やさしい綿毛のような音を出すこの楽器を、お父さんはまどろっこしいといってあまり好まない。

「ハル!」

 それは、ぽろん、と五番目の弦を鳴らしたまさにそのときだ。

 丘の下の方からずいぶんと聞き慣れた声がした。喜びに充ちた、リョウスケの声が。

「見つけた! 日蝕のその先に行く方法を!」

 丘を駆けあがったあと勢いよく私を抱きしめた彼に、苦しいともがきつつも説明を求める。すると彼は小さな木箱を手に次々と呪文のように不思議な言葉を羅列して、最後には「この理論で僕たちはループにはまっているんだ」と締めくくった。

 当然のごとく私は理解できず、けれども彼は小さな木箱を指さして、興奮状態で説明を続ける。

「僕は科学者だ。以前はタイムマシンだって――ときを旅する装置だって作ってみせた。やっと! やっと方法を見つけたよ! 僕はもう、失わなくていい!」

 感極まったように震える声。ぎゅうと私を抱きしめるその腕。くすぐったい黒髪。

 そっと目を閉じて、その心地よさに体を預ける。

 今日だけ。今日だけは私も素直になっていいだろうか。

「はじまる」

 その言葉はどちらが言ったのか分からなかった。

 ゆるりと瞼をあげれば、リョウスケの肩越しに見えるのは影り始めた空。

 始まる日蝕。欠けた太陽。草花たちがざわりと不穏な空気を纏い揺らめく。

 私たちはそっと身体を離し、けれどお互いの手に小箱を包んで向き合った。

「ハル、そんな不安そうな顔をしないで。大丈夫、うまくいくさ。僕は科学者で、時の専門家なんだから」

 彼が優しく微笑み、黒髪がさらさらと横へ流れる。なんと希望にみち溢れた眼差しか。

 それに対して私といえば、口端をあげ、目元を和らげて、そっと笑ってみせるのみ。

「一緒に未来を歩もう。僕たちは――どうしたの、ハル、泣いているの? 大丈夫、大丈夫だから」

 心配しないで、というように、ぎゅっと手に力が込められた。木の箱の感触、リョウスケのぬくもり。

「違うの、リョウスケ。違うの。不安だなんて思ってないよ」

 ただ、悲しいだけなのだ。

 涙がこぼれそう。目が潤む。

 太陽が欠ければ欠けるほど、空が夕暮れのように赤くなり、そして紫に変わり、紺へと染まっていく。

 夜が襲って来たようだった。何の光も無い夜が、昼を呑み込みに来たようだった。

 カチリ。掌の中で震えた小箱。

 目の前の彼が緊張した面持ちで手元を見つめる。私もまたじっと黙って彼を見つめた。

 心を乱すような風が渦巻き、花びらや木の葉を巻き上げる。

 まるで闇に呑まれているようだ。影が攻め入ってくるみたいだ。

 目の前にいる彼が見えない。ただ黒々とした世界で、手元だけが青白い光を放っている。

 世界が終わる。

 太陽が消える。

 日蝕。

「ハル、僕はきみを――」

 世界が終わる。

 真っ暗闇の中、私はそっと囁いた。

「さようなら、リョウスケ。また会いましょう」

 世界が終わり、また始まる。


 ◆


 ここは村から少し外れたところ、広い緑の丘の上。大樹の根元に腰をおろし、古木を削っている私のところへ、無表情のお父さんは現れた。

「座る? お隣どうぞ」

 根元から幹の方へ少し寄る。そうすれば空いた根のスペースに、お父さんはどすんと腰かけた。

「また始まったのか」

「うん、始まった」

 だからまた楽器を作りなおさなきゃ、と笑ってみせると、お父さんは珍しく眉尻をさげて私を見つめた。

「お前は特別だ。だが、特別だからといって」

「何でもしていいわけじゃないんでしょ? わかってる」

「わかっているならどうしてあんなに関わった?」

「なんとなく。ただの好奇心だよ」

「今回は肝が冷えた。あのこに手を貸すなぞ――お願いだ、ハル……私は娘を失いたくない」

「そんなへまはしないって。私は傍観者でありつづけるって決めたんだから」

 ただ彼に興味があるだけ、本当にそれだけだよ。そういってカラカラと笑えば、お父さんは深く深くため息をついた。

 そして沈黙に身を預けながら、二人で丘の下を見おろす。

 日は高く上り、青空には鳥が泳ぐ。静かな村、緑の森。

「綺麗な所だね」

「残酷な場所だ。 住まうものは傀儡くぐつしかいない」

「生き物はちゃんと、私とリョウスケがいるでしょ?」

「辛ければ、他の者と変わってもいいんだぞ?」

「そんなことしないよ。最後まで見届けるって決めたの」

「そうか」

 爽やかな風が丘を駆けあがり、私たちの髪をゆるりと揺らした。そして何を思ったのか、お父さんは乱暴に私の頭を撫で、そっと去っていった。

 木洩れ日が足元を照らす。またひとりになった私は再び楽器作りを始めた。

 なめらかな肌へと作りかえられていく古木。すうっと刃物が木肌を滑った。

 これを作るのは何度めだろう。

 何度めだろう。

 ふと手が止まる。

 ――ハル!

 抱きしめられた感覚、彼の笑顔。

 ――四番目の弦が切れるんだ

 リョウスケは何でも知っている。

 いいえ、彼は目に見える事実しか知らない。

 かわいそうな人。

 さようならの意味が分かっただろうか。どうして私は彼が試みに失敗するのを知っていたのか疑問に思ってくれただろうか。

 ここは科学の力も及ばない不思議なところなのだ。どんなに優れた機械を作りだしたとしても、彼は日蝕より先の未来に進むことはできない。

 私が唄を口ずさんだことに違和感を覚えただろうか。知っている? 私、今回はあなたに唄を教えてもらっていなかったんだよ?

 節々で織り交ぜた手がかりを、上手く拾い集めてくれればいい。

 彼は利発だ。彼ならできないことはないだろう。

 そしていつか、自分がどうしてこの世界に来たのかを考えてくれればいい。

 咎人よ。聡明な科学者よ。

 文明の進歩は確かにすばらしく、人間の欲望に忠実であろうとする。

 けれど人は今を生きることしか許されておらず、過去にも未来にも行くことはできないのだ。

 それは誰が決めたわけでもない掟であり、決して崩してはならないことわりの均衡。

 彼はなぜ過去に戻りたがったのだろう。その頭脳を駆使して、その器用な指先で部品を組み立てて。変えたいものがあったのだろうか。

 彼はなぜ未来に行きたがったのだろう。その禁忌を犯してまでして見たいものがあったのだろうか?

 憐れな時の専門家よ。彼は繰り返し過去に戻り何度も未来を体験し、そしてまた同じ日々を送らなければならない。

 彼だけのために特別にあつらえたこの時ノ輪の中で、彼自身が望んだであろう“ときの旅”を経験しながらも、永遠にその先に進むことはできないもどかしさにもがき苦しみながら、彼は己の犯した罪を償っていくのだ。

 かわいそうな罪深き科学者。

 私はあなたを愛しています。

 だからこそ私は黙って見守らなければならない。たとえ真実を知っていても、無知を演じ、何も知らない傍観者であり続けねばならないのだ。

 私は冥界の審判者の娘であり、この世界の番人。彼の見張り。

 だから私は特別な存在だ。けれど、特別だからといって何でもしていいわけじゃない。

 愛ゆえに――その情と欲望に支配され、愛ゆえに私が彼を助けてしまえば、彼は裁きから逃れた罪によってたちまち塵へと変わり、永遠に蘇ることもなければ、新たに生を受けることもできないだろう。

 そして彼の脱獄を手助けしたとして、彼の代わりに今度は私が時ノ輪の中でもがき苦しみながら罪を償っていかなければならなくなるのだ。

 罪人に手をかしてはならない。

 罪人に情を抱いてはならない。

 それは番人の心構えであり、彼を想ってのものでもある。

 けれどあなたを愛しています。決して結ばれることはなくても。

 あなたを愛しています。だからあなたのその身が解放されるまで、私はずっと見守りましょう。

 ここは流刑地。あなたは罪人。

 呼吸荒く丘を駆けあがり、目の前で茫然と立ちすくんでしまった彼を見て、私はこう台詞を放つ。

「はじめまして。あの、何かご用ですか?」



 終

タイムマシンを作った科学者と、彼のいる牢屋の番人のお話。

設定が練れていないけれど、忘れてしまう前にどうしても書き留めたかったのです。

お読みいただきありがとうございました。

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