魔王様、勇者になる
悪夢とかそういうレベルじゃない。
頬をちぎれんばかりに引っ張ってみるけれど、この夢は一向に覚めなかった。むしろ頬がずきずきして痛い。
鏡に映し出されるのは無個性な服、短くも長くもない中途半端な長さの髪、そして、特徴のない顔。そこにあったのは昨日、俺様がボコボコにした勇者の顔であった。
どうやらここは勇者の家のようだ。
魔王軍との攻防が行われている戦線の近くの街。その大通りに面した角の家、なかなかの立地に建てられた家に住んでいるようである。部屋には私物らしい本や雑貨が散らばっていて非常にごちゃごちゃしている、魔法で片付けてやろうとおもったのだが片付け魔人を呼び出す召喚魔法は発動しない。魔法のレベルが低いせいか、もともと魔法の適性がないか、いずれにしろ、召喚魔法の成功率が著しく低いようである。おかげに貧相な肉体のせいでなんだかちょっと寒い。全身がすっきりして落ち着かない気分だ。脳みそ筋肉の戦士とまでは行かないけれど、もうちょっと肉ないとこれ重い剣振れんぞ。
勇者の肉体に魔王たる俺様の精神。聞くだけなら強くなりそうなものだけど、肉体がレベルが低いのじゃあ話にならない。
「魔王さまは勇者になりました…ってか?」
かなり笑えない冗談である。このままでは勇者として魔王と戦わなければならない、ていうか魔王は俺様なので、俺様自身と戦わなければならなくなってしまう。魔王と勇者の運命が狂ってしまう。
それだけは避けなければならない、魔王としての義務が果たせなくなってしまうのだけはダメだ。
その時、部屋に接近するものの気配に気がつかなかったのは、油断ではなく勇者の肉体が魔王の体と比べて圧倒的にしょぼかったからである。普段の俺様ならば絶対に気が付けた、繰り返す断じて油断などではない。
「おい、飯だぞ」
声を聞かれたかとゾッとしたけれど、乱暴に打ち鳴らされたドアの向こうの人物は気にも止めていないみたいだ。そうか、朝飯の時間なのか。
飯など食っている場合じゃないので、要らんと返事をしようとしたが、ドアの向こうの気配はあっという間に行ってしまった。
勇者の私生活など分からない。下手な芝居を打てば即刻正体がバレてしまうだろう、勇者たちもそこまで阿呆ではない。
絶対にかてないはずの魔王がHP35くらいしかない状態で現れたら?
こんな低レベルの魔王が現れたら?
魔王が勇者の家のど真ん中に現れたら?
絶対に正体がバレてはならない。殺されるだろう。
初歩的な瞬間移動も使えないこんな状態で。
近所の防具屋で買える一番安い鎧をきて。
中ボスたる腹心の配下もいない。
生け捕りにされて処刑されるかも。
魔王を効果的に処理できれば王としてもそっちのほうがよい。だって魔王城の奥、玉座の魔王を勇者が討ち滅ぼしたって民衆からしたら「そうなんだ、ふーん」って済まされるかもしれない。いくら魔王討伐の証明を持ち寄ったとしても、民衆が真実を飲み込むまでしばらくの時間がかかる。インパクトだって薄い。それよりは直接処刑したほうが、残る魔族に対しても牽制になる。何より民衆は魔王が死ぬその瞬間を見ることが出来るのだ。これによって王国の権力の復活は間違いない、民衆の支持も安心も即座に得られることだろう。
王都の城下町、衆愚の見守る広場で両脇を衛兵に抱えられてみすぼらしい格好をさせられた俺は、すまし顔した法務官が罪状を述べる間、死んだような表情で空を見上げる。鳥は自由だなあ…とかこの空はこんなに青かったのかとか、そういう悟った台詞を言っちゃったり。
そして、民衆の罵声の中でふと、知った顔を見つける。うちの暗黒宰相と魔王の婚約者のギリカ・エスティーブル・シュバルツハイネンだ。憂いた表情の俺はやさしく微笑むと、いよいよ執行官の斧がギロチンの刃を落下させるべく、天に向けて振り上げられる。
ギリカは宰相の制止も聞かずに俺の方へいこうとするが、到底間に合うわけもなく。時間がスロー再生のようにゆっくりと流れながらも決して止まることをせずに、やがて俺様の首へ死神のそれが到達する…。
ギリカの絶叫、民衆の歓声、目を伏せる宰相。第三部完…。
ドスンという音で俺様は現実の勇者の部屋に引き戻された。別に破滅願望があるわけじゃあないが、こうした妄想は決してありえないというほど遠いものではないだろう。
蹴りを入れられたらしいドアの向こうでは「とっととしろよ」という禍々しいオーラが放たれている。おもわず身震いした。
「い、いらないよー、朝飯いらない!」
勇者として始めて声を出したのでなんとも言えないけれど、変ではなかったはずだ。だが、ドアの向こうのオーラは更なるプレッシャーを放って来た。これほどまでに強い意思を感じたのは初めてだ。オーラの持ち主から強いメッセージを感じる。いいからはやく降りて来いという明確な意志だ。
魔王たる俺様も正直ビビりそうになった。決してびびったわけではない『ビビる』状態の一歩手前くらいになっただけなのだ。ほんのちょっとだけ及び腰になった俺様を元気づけるように俺様の腹の虫が「いいぜ、演じきってみせるぜ」と雄々しい音を立ててくれた。
俺様は観念とささやかな期待を込めて朝食の席へと向かったのである。
ギリカ待っていろ、俺様は…必ず帰る…。だからそのときは、そのときは、いつもお前に言えない言葉を…。
こういう時、恋人への熱い思いを心の内で叫ぶと、生きて帰れる確率が上がるそうだ。以前、魔法でさまざまな異世界を覗いている時に見た、異世界の物語のテンプレートである。
俺様はそうして妄想の許嫁ギリカへの愛を胸中にて叫びまくった。せめても、ささやかな祈りのようなフラグ立てだった。
魔王に許嫁などいない。世界を滅ぼすので忙しいのだ。