怪しい痛み
お題「怪しい痛み」 時間:30分
その日、珍しく朝寝坊してしまった。
物音に目が覚めて起き上がると、ちょうど襖が開いて彼が顔を覗かせた。
「あ、おはよう」
「……おはようございます。ごめんなさい、寝坊――」
「謝ることはないよ。君は急ぐ必要もないんだし、たまにはゆっくりしているといい。私はもう行くけど、朝ご飯用意してあるからちゃんと食べるんだよ」
「はい」
「じゃあ、いってきます」
「いってらっしゃい」
笑顔で手を振った彼をそのまま見送り、玄関の扉が閉まる音を聞いてからゆっくりと立ち上がる。
私はいつもスイッチが切れるように眠りにつく。それは目を覚ます時も同じで、すぐに意識がはっきりする。
ただ、今日は少し違っていた。
布団の上に両足で立って、違和感に首を傾げる。
なんとなく、身体が重いのだ。
頭もズキズキ痛んで、ぼんやりするようで、ふらふらするような気がする。
こんなことは初めてだった。
なんだろう、と思いながら布団を畳んで、顔を洗い、居間へ向かう。テーブルの上に用意された朝ご飯には、傘みたいな形の蠅帳が被せられていた。
ご飯とお味噌汁、卵焼きと焼いた塩鮭。
食欲がなかったものの、せっかく彼が用意してくれたものだからと頑張って食べきった。無理をして食べたせいで味がほとんどわからなかったのが悲しい。
食器を片づけてから、重い身体を引きずるようにして洗濯をし、庭の物干し台に干す。何度かふらついて踏み台から落ちそうになった。どうにか踏み止まって洗濯物を干し終える。
いつもの倍以上の時間がかかってしまい、それだけでお昼になってしまった。
お昼ご飯も彼が用意していってくれているはずなのだが、私は縁側に腰を下ろしたまま動くことができなかった。
今日はいい天気だなぁ、とぼんやり空を見上げる。
最近は季節の変わり目というらしく、雨が降る日も多かった。
庭の木や花の色も変わって来たような気がしてくる。
陽に当たっているせいか、少し熱い。
喉が渇いて台所へ行って水を飲んだ。コップを流し台に置いてから、遅いお昼ご飯を食べる。
お昼ご飯のメニューはおにぎりと朝と同じお味噌汁と卵焼きだった。
のろのろと食べていたらあっという間に時間が過ぎてしまって、慌てて片づける。
洗濯物を取り込まなければと思って庭に出て、乾いた洗濯物を腕に抱えた。洗剤と庭の花の香りがふわりと鼻をくすぐる。
縁側に洗濯物をまとめて、一つ一つ畳んでいく。
朝から重かった身体は、今は鉛のようになっていた。頭痛も酷くなっているような気がした。
一体どうしてしまったんだろうと思いながら、洗濯物を畳んでいった。
その時、玄関の方から呼び鈴が鳴ったのが聞こえた。
誰だろう、と思って立ち上がった時、目の前がぐらりと傾いた。
立っていられなくて、私はその場に座り込んでしまう。
呼び鈴が聞こえる。
でも、私は立ち上がることも、声を出すこともできなかった。
目の前がどんどん霞んでいく。
ゆっくりと瞼が下がり、目の前が暗くなった。
もしかして、私は眠いのだろうか。
やっと、私は眠くなれたのだろうか。
眠いと言うことは、こんなに苦しかったのか。
彼はいつもこんな苦しい思いをしていたのだろうか。
私は沈んでいく意識の中で、そんなことをぼんやりと考えていた。
気がつくと私は天井を見上げていた。お布団で横になっているのだと、少ししてから気づく。
「目が覚めたかい?」
目の前に彼の顔が現れて、私は驚いて目を見開いた。
「……おかえりなさい」
戸惑ながらそう言うと、彼は一瞬目を見開いて、困ったように笑った。
「ただいま。気分はどうかな?」
そう尋ねられて私は目を瞬く。
ぼんやりしていた頭も、重かった身体も、今は少しよくなっているように思った。
おでこに濡れタオルが乗っているのに気づいて、その冷たさを感じる。
「……私、眠くなれたんですか?」
「え?」
「ふらふらして、ぼんやりして……私、やっと眠くなれたんだって……」
「……君はね、体調を崩していたんだよ。熱が上がってそれで気を失ったんだ」
彼は苦笑したまま私の頭を撫でてくれた。
「期待を裏切るようでごめん。回覧板を回しに来たお隣さんが、返事がないのを変に思って庭に回ってくれたんだ。それで、縁側に倒れてる君を見つけて私に連絡をくれたんだよ。私が来るまでは、お隣さんが看ていてくれたんだ」
「……そうだったんですか」
「うん。季節の変わり目で風邪を引いたんだね。薬を使ったから、今は少し楽になってると思うよ。私が気づいていれば、辛い思いさせずに済んだのに、すまなかったね」
私は首を横に振る。
「私こそ、ご迷惑かけてごめんなさい」
「私は医者だ。一緒に暮らしていて、朝に君が珍しく寝坊をしたのに気づくべきだったんだ」
「……でも、今日は容体の悪い患者さんがいて、それでいつもより早く行かなきゃいけなかったんですよね?」
「そう、だったんだけど……」
ぐっと言葉に詰まった彼は、目を伏せた。
「君を預かるって言ったのは私だし、責任がある。もし、お隣さんが気づかずにいたら、君はもっと危ない状態になっていたかもしれないんだ」
彼は苦しそうな表情で、私を見つめる。
胸がチクリと痛んだ。
具合が悪い時の痛みとはまた違う、不思議な痛み。
彼のこんな顔は、見たくなかった。
そっとお布団から手を出して、彼の着ていた白衣の裾を掴む。
「……私は迷惑ですか?」
「え?」
「私がいたら、迷惑をかけてしまうなら……出て行きますから、だから――」
白衣を掴んでいた手が、彼の大きな手にそっと包まれる。
「そんなことはないよ。でも、君がここにいたくないと思うなら、私は引き留めるつもりはない」
ここにいたくないなんて、思ったことは一度もない。
「今回はお隣さんのおかげで大事にならずに済んだけど、もしまた同じことがあったら……やはり、独り身の私よりは施設の方が安全だし、きっと友達もできる」
彼の手に、力がこもった。
「君の幸せは君の物だ。私は、君に幸せになってほしいんだよ」
彼はそう言って微笑んだ。
温かくて、だけどなんとなく寂しそうな。
「……わがままを、言ってもいいですか?」
彼は首を傾げて先を促してくれる。
「……ここに、いたいです」
彼にも、この家にも、今の生活にも、何の不満もない。
むしろ満足している。
私にはもったいないくらいの贅沢な毎日。
身寄りが見つかるまでの、仮の住まいなのはわかっている。
そうだとしても、私はここにいたかった。
「……本当に、いいのかい?」
「はい」
「また、君を辛い目にあわせてしまうかもしれないよ?」
「もう風邪を引かないように気をつけます。危ないことも、ちゃんと考えてしないようにします。ご迷惑かけないように頑張りますから……それじゃ、ダメですか?」
不安になりながら尋ねれば、彼は安心させるように微笑んでくれた。
いつもの、へらりとした彼の笑顔。
「気をつけるに越したことはないけど、頑張ることはないよ。何かあれば遠慮なく言って欲しい。迷惑なんか、君はかけていないんだから」
「……そうですか?」
「うん」
言って、彼の手がゆっくりと私の頭を撫でてくれた。
ここにいてもいいんだとわかって、私はホッと息をつく。
「あの」
「なんだい?」
「私……眠くなれたんじゃ、ないんですよね?」
まだ期待を捨てきれずに尋ねると、彼は苦笑を浮かべた。
「気を失う時、どんな感じだったかな?」
私は記憶を辿る。
「頭が痛くて、身体も重くて、ふらふらしてて……目の前がぐにゃぐにゃするみたいで、ちょっと苦しかったです」
うまく言葉にできない感覚をどうにか伝えようと答えれば、彼は少し考えるように目を伏せて、握っていた私の手をそっとお布団の上に戻した。
「それは、たぶん熱が上がったせいかもしれないね」
「じゃあ、やっぱり違うんですか?」
「はっきりとは言えないけど……似た症状だとしても、それは熱のせいだろうから普通の眠気とはまた違うんじゃないかな」
それを聞いて私は少し残念に思った。
もしかしたら、と期待していたけど、どうやら違ったらしい。
そんな私に彼は苦笑して、また頭を撫でてくれた。
「落ち込むことはないよ。ゆっくり、気長にいこう」
「……はい」
「喉は乾いてないかい? 水なら持ってきているけど」
私は首を横に振って、遠慮がちに彼の顔を見上げる。
「……もう1つ、わがままを言ってもいいですか?」
「なんだい?」
「手、繋いでもらっていいですか?」
さっき手を握ってもらえて不安な気持ちが溶けるようで安心できた。離れる時、もう少しだけ手を握っていて欲しいと思ったのだ。
彼は何も言わずに微笑んで、私の手を握ってくれた。
大きくて、温かくて、優しい手。
彼の大きな手から伝わってくる温もりに、私はそっと目を閉じた。