静かな世界
お題「静かな世界」 時間:1時間
夜の帳が下りる。
暗闇の中、私はじっと布団の上に腰を下ろしていた。
布団に入ろうという気にはならない。そもそも、眠くない。
いつ眠りに落ちるのかわからないまま、布団の中で暗闇を見つめる夜は孤独で、とても不安だ。
私はそっと立ち上がって部屋を出る。
音を立てないよう襖を閉めて、すり足で廊下を進む。
月明かりに照らされて日中とはまた違った趣の家の中は、ひっそりと静まり返っていた。
どこか幻想的で、物語の世界のようなとても綺麗で静かな景色。
一人だけ別の世界に迷い込んだ気分だった。
私は足音を立てないよう気をつけて、ある部屋の前に立つ。そっと襖を開けて中を覗けば、部屋の真ん中には布団が敷かれ、そこに横になっている彼の姿が、障子越しの月明りでぼんやりと浮かんでいた。
微かに寝息が聞こえてくる。
畳に足をつけて、そっと彼の元へ歩み寄り、傍らにしゃがみ込んで彼の顔を覗き込んだ。
眼鏡を外して目を閉じている彼は、普段よりもずっと幼く見える。いつもは仕事の疲労でやつれ気味なので、老けて見えるのだ。
ゆっくりと規則的な寝息が耳に届き、それに合わせて彼の体にかけられた毛布が上下している。
彼の寝顔を眺めるのは、私の秘かな趣味だ。
普段とは違う彼の表情を見ていると、とても落ち着いた気分になる。
夜、独りで眠れずに不安な時、彼のこの寝顔にいつも救われている。
しばらく彼の寝顔を堪能した後、私はそっと立ち上がって部屋を後にした。
庭へと続く縁側に腰掛けて、ぼんやりと景色を眺める。
月明かりに青みがかった庭は、昼とは違って冷たい印象を受けた。
この辺りは繁華街からも離れていて、夜は静かで暗い。なので、月明かりがよく映える。
縁側から下ろした足をぷらぷらと揺らしながら、いつものように静かな夜の世界を眺める。
何をするでもなく、ただぼんやりと。
夜空に浮かぶ今夜の月は、少しだけ欠けていた。
こうして夜を過ごしていると、いろいろなことが頭に浮かんでは消えていく。
なぜ、私はこんな体なのだろう。
なぜ、私は捨てられたのだろう。
なぜ、彼は私を引き取って面倒を見てくれるのだろう。
どうしたら、私は普通の人と同じように眠りにつくことができるのだろう。
揺らしていた膝を抱え、顔を埋めた。
夜の静寂が痛いほどに私の耳を打つ。
誰もいない、私だけの世界。
とても静かだ。静かな夜だ。
この静けさが、とても怖い。
独りだけ取り残されたようで、不安に押し潰されそうになる。
また、彼の顔を見に行こうか。
そう考え始めた時だった。
「眠れないのかい?」
穏やかな声だった。
私が驚いて振り向くと、僅かに寝間着を乱した彼が柱に体を預けて立っていた。その両目は眠そうに細められている。
「……起こしましたか?」
「いや、目が覚めてしまっただけだよ。時々あるんだ、ついでに厠に行ってきたら、目が冴えてしまってね」
苦笑混じりに答えて、彼は私の隣に腰を下ろした。
目が冴えたと彼は言ったが、今にも閉じられそうになっている瞼は重そうだ。
「……眠らなくていいのですか? 明日もお仕事では」
「君の姿が見えたからね。何をしていたんだい?」
気を遣われているのがすぐにわかった。
「……考え事です」
「どんなこと?」
「……眠くなる、とはどういうことなのか、想像していました」
嘘だった。
私の嘘を見抜いているのかいないのか、彼は穏やかに微笑んで一つ頷くと、月明かりに照らされた庭に目を向ける。
「想像するのはいいことだ」
「そうですか?」
「何も考えずにいるよりはずっと楽しいし、前向きだと思うよ」
先程まで考えていたことを思い返す。
何一つ前向きなことなど思い浮かばなかったことに、なんとなく後ろめたい気持ちになって俯く。
そんな私の頭を、彼の手が優しく撫でてくれた。
大きくて、温かな手だ。
照れくさくて顔を上げられない。
「焦ることはないからね」
静かな声が耳に入る。
私は何を言っていいのかわからなくて、とりあえず頷いておいた。
「あの……」
「なんだい?」
「私も……いつか――」
不意に少女の言葉が途切れた。
どうやら時間が来たらしい。
隣の少女の肩に手を回し、こちらにそっと抱き寄せれば、糸が切れた人形のように力の抜けた体がもたれ掛ってくる。顔を覗き込むと、少女は瞼を下ろしており、微かな寝息が聞こえてきた。
起こさないよう小さな体を抱えて立ち上がる。
もっとも、少女は一度眠ってしまえば、余程のことがない限りは目を覚まさないようだ。
以前、夜中に様子を見に行った際、何かに躓いて派手な音を立てた時も、少女は目を覚まさなかった。
少女の部屋に行き、敷いてあった布団にそっと横たえる。毛布を掛けて、眠っている少女の頭を撫でた。
どんな夢を見ているのだろう、とても穏やかな寝顔だ。
眠った後の少女の様子は度々見に来ていたのだが、いつもこの無垢な寝顔に癒されている。
大人びた言動の少女の、唯一と言っていい年相応の姿だ。
仕事の疲れも飛び、明日も頑張ろうと思える。
私は、この小さな少女に救われているのかもしれない。
少女の部屋を後にし、先程までいた縁側に立つ。静寂に包まれた庭を見つめ、小さく息をついた。
静かな夜だ。
こんな夜を、少女はどんな思いで過ごしているのだろう。
ここに座って、膝を抱えていた少女の後姿を思い出す。
様子を見に部屋へ行ったが、姿がないので探していたところ、縁側で身を縮めていた少女を見つけたのだ。
その姿に胸が締めつけられるようで、つい声をかけてしまった。
眠気を感じることができない少女は、こうして糸が切れるように眠りに落ちてしまう。本人に自覚できないので、いつ眠りにつけるのか予測ができない。
何度か少女が眠るまで様子を観察してみたこともあったが、見た目にも言動にも眠りの前兆は見受けられなかった。
以前、廊下に倒れるようにして眠っていたのを見つけた時は、心臓が止まるかと思った。
毎日眠れるまで一緒にいてやれたら安心なのだが、仕事の疲れもあってままならないのが現実だ。
それに、私が無理をして起きているのを少女は良しとしない。申し訳なさそうに、困ったように、眉尻を下げた悲しそうな顔をする。
女の子であるから、一緒に寝ようとも言い辛い。嫌われてはいないと思うのだが、そこまで許されている自信はなかった。
何もしてやれない不甲斐なさに悔しくなる。
娘を持つ父親の心境はこうも複雑なのだろうか。
ため息をつき、縁側を後にする。部屋に戻り、布団に横になって私は目を閉じた。
朝になったら、少女が言いかけていた言葉の続きを尋ねてみよう。