愛すべき空
お題「愛すべき空」 時間:15分
ふと空を見上げれば、雲行きが怪しかった。
暗い雲が空を覆い始め、今にも泣き出しそうな空模様だ。
天気予報では雨が降るなんて言っていなかったのに、と思いながら、私は庭に干してある洗濯物を取り込む。
腕一杯に洗濯物を抱えて縁側に下ろしたところで、ぽつぽつと空から滴が落ち始めた。
すぐに滴は増え、勢いを増す。
雨粒が屋根を叩く音を聞きながら、乾いた洗濯物を畳み、乾ききっていない物は部屋の中に干した。
背の小さな私のために、室内用の小さな物干し台を彼が買ってくれたので、部屋干しは楽だ。庭の物干し竿には台がなければ手が届かないが、その台も登りやすいものを彼が用意してくれた。
おかげで不便さを感じることはない。
作業を終えて一息つく。ふと時計の音が耳に入った。
見れば、文字盤の針は5時を示している。
次に雨に濡れた庭へと目を向けて、ハッとなった。
朝、病院へ向かった彼の背中を思い出す。
今日、彼は傘を持って行かなかった。朝の時点では雨が降るなんて信じられない程いい天気だったのだから仕方がない。
空を見上げれば、通り雨ではなさそうだった。
もうすぐ仕事が終わる時間。
傘を持っていない彼は困っているかもしれない。
私は立ち上がって黄色い合羽を着て、家の鍵を持ち、玄関先で傘を手に取った。彼が使う、黒い大きな傘だ。
合羽と同じ色の長靴を履いて家の鍵をかけると、雨の中を駆け出した。
水たまりを踏みながら病院へ辿り着くと、玄関から中へと入った。
すると、受付にいた女性が私に気づいて声をかけてきた。
「あら、先生のお迎え?」
「はい」
「よかったわ。先生、困ってらしたのよ。呼んでくるわね」
「よろしくお願いします」
頭を下げれば、彼女はニコリと微笑んで奥へと消えた。
私は外に出て入口の横で彼を待った。雨が降り続けている空を見上げていると、駆けてくる足音が聞こえて振り返る。
廊下の先には、焦った様子で足早にやって来る彼の姿があった。
「お仕事、終わりですか?」
「う、うん。悪いね、わざわざ迎えに来てもらってしまって」
「いえ、大丈夫です」
首を横に振れば、彼は苦笑して私の頭を撫でた。
「帰ろうか」
「はい」
傘を差しだせば、彼はお礼を言って受け取った。
受付に戻って来た彼女に挨拶をして、彼と一緒に病院を出る。
雨は未だに勢いを緩めずに降り続けていた。彼の少し後ろを歩きながら、雨が合羽のフードを打つ感触をぼんやり感じていると、彼が立ち止って私を振り返った。
「隣においで」
「え?」
「せっかくだし、一緒に入ろう」
言って彼は微笑むと、傘を持つ手を軽く掲げた。
彼と私の歩くスピードは違う。今も、彼は随分とゆっくり足を進めていたはずだ。一緒に1つの傘に入ると言うことは、それ以上にゆっくり歩かなければならない。
私は少し迷ってから、彼の隣に移動する。歩き出した彼に合わせて私も歩き出す。意識して少し早めに足を動かしていると、頭上から苦笑が降って来た。
「今度、君の分の傘も買おうか?」
「……合羽があります」
「そうなんだけど、顔が濡れてしまうからね。それに、君に無理をさせてしまうのは嫌だし」
私が早足になっていることには気づいているようで、彼の歩調が緩む。私でも普通に歩けるほどになって、小さく息をついた。
だが、これではあまりに歩みが遅すぎる。
彼はきっと疲れているはずだ。早く家に帰って休んでもらいたいのに。
「無理は、してないです」
「そうかい?」
「傘は、いりません。合羽を着ます」
それに、と私は彼を見上げた。
「なんだい?」
首を傾げる彼の頭上に、黒い大きな傘が見える。
今、私と彼は1つの傘の下にいる。
くすぐったいような、嬉しいような、不思議な気持ちになった。
「……なんでもないです」
うまく言葉にできなくて、私はそう誤魔化した。
彼は不思議そうな顔をしたが、それ以上尋ねてはこなかった。
「早く帰りましょう」
「あぁ、そうだね」
彼は微笑んで、少しだけ傘を私の方へ傾ける。すかさず、私は合羽を着ているのだから、と言えば、彼は苦笑して傘を持ち直した。
彼が濡れてしまっては、傘を持ってきた意味がない。
彼と並んで歩きながら、雲に埋め尽くされた空を見上げる。
雨の日は少し憂鬱になるものらしい。
でも、雨の日もたまには悪くない、と思えた。