知らぬ間のにおい
お題「知らぬ間のにおい」 時間:30分
玄関のドアがガラガラと開く音がした。
パタパタと駆けて行って、鞄を机の上に置いている彼の姿を捉える。
「おかえりなさい」
「あぁ……ただいま」
随分疲れているようだ。
私は心配になって、彼の顔を窺おうと見上げる。
そんな私に彼は苦笑して、大丈夫だよ、と言った。
何と言っていいかわからなくて、彼が脱ぎ捨てていた白衣にそっと手を伸ばす。
「あぁ、いいよ。私がやっておくから」
疲れた笑顔を浮かべてそう言った彼の顔をじっと見上げる。
「お疲れだと思いますから」
「君は仕様人じゃないんだから、気を回すことないんだよ」
「私がしたいんです」
言うと、彼は困ったように笑って私の頭を撫でてくれた。
力を抜いてへらりと笑うのは、彼の癖だ。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
「はい」
頷いて、白衣の他に彼が着替えた衣服を受け取る。
両手に抱き抱えて、私は洗濯場へ向かった。
籠の中に衣服を入れていく途中、ふと白衣に目を向ける。
少しだけ辺りを窺って、彼が近くにいないのを確認してから、そっと白衣に顔を埋めた。
消毒液と何かわからない薬品のにおい。
彼のにおいだ。
私はこのにおいが好きだ。
彼からいつも微かに香ってくるこのにおいを嗅ぐと、不思議と落ち着くのだ。
部屋着を着ている時は、部屋で焚いているお香のにおいがするのだが、そのにおいも私は好きだった。
そうしてしばらく白衣に顔を押し付けていたが、満足したので顔を離して籠に入れる。
服の袖を捲り、桶を持って井戸へと向かった。
井戸へ駆けていく小さな背中を見つめながら、私はそっと袖を鼻先に近づける。
特に変わったにおいがするようには感じられないが、自分の体臭には気づきにくいと聞く。
少女が度々ああしていることに最近気づいたのだが、なかなか面と向かって尋ねる勇気はなかった。
「加齢臭でもするのだろうか……」
うーん、と唸って首を捻る。
あの奇行には何の意図があるのだろう。
そこへ足音が近づいてきたので振り返ると、少女が桶に水を汲んで戻って来たところだった。
「何をしているんですか?」
「いや、なんでもないよ」
私は笑って誤魔化すと、少女は不思議そうにしながらも桶から洗濯槽へと水を移し替える。
「そうそう。今日の夕食は何がいいかな?」
「……なんでも大丈夫です」
その答えが一番困るのだけど、とは言わないでおく。
「じゃあ、今日はお肉とお魚とお野菜、どれがいいかな?」
少女は少し考えるように虚空を見上げて、不意に振り返った。
「……お隣さんから、お魚を頂いていました。鰤だそうです、冷蔵庫に入っています」
「そうかい、いつも悪いなぁ。今度何かお返しをしなければね。じゃあ今日は鰤の照り焼きにしようか。あ、大根が残ってたから鰤大根でもいいかもしれないね」
「……鰤大根、が……食べたいです」
遠慮がちな少女からの申し出に、私は嬉しくなって満面の笑みを浮かべる。
「そうか! じゃあそうしよう。すぐ作るからね」
「何かお手伝いしますか?」
「いやいや、大丈夫だよ。お洗濯を任せているんだし、夕食の支度は私がやろう」
「はい」
すぐに台所へと取って返す。
少女が自分の意志を表すことは珍しいので、私はすっかり嬉しくなってしまい、仕事の疲れも吹っ飛んでしまっていた。
浮かれていたせいか柱の角に足の小指を強打したが、そんな痛みなど些末なことである。
鰤大根ができる頃には、少女の奇行のことなどすっかり忘れていた。