穏やかな深夜
お題「穏やかな深夜」 時間:4時間
ふと眠気を感じて時計を見れば、文字盤の長針と短針が仲良く天辺を指していた。
すっかり遅くなってしまった、と眼鏡を外して目頭を押さえる。
「夜更かしは体によくありません」
背中にそう声がかかって振り返れば、大きな二つの瞳と目が合った。
ちょうど座布団に座っている私と同じ目線になるほどの背丈の少女は、何を考えているのかわからない無表情でそこに立っている。
「そうだね、そろそろ寝る支度をしなければ」
「お布団ならもう敷いてあります」
目を瞬いて少女を見返すと、少女は首を傾げた。
「どうかしましたか?」
「……一人で布団を敷いたのかい?」
「はい」
「えっと、大丈夫だった?」
「どういう意味ですか?」
質問の意図がわからない様子で、少女は怪訝そうに眉根を寄せた。
私は苦笑して座布団から腰を上げる。それに合わせて、少女の視線がついてきた。
「いや、押入れに手が届いたのかと思ってね」
「踏み台を使えば届きます」
「重くなかったかい?」
「少し引きずりましたが、問題ありませんでした」
その答えに私は苦笑したまま、少女の頭を撫でた。
「声をかけてくれれば私がやったのに」
「お仕事中のようでしたので、邪魔をしてはいけないと思いました」
「そんなに気を回すことはないんだよ」
私は少女を促して、書類の山に圧迫されている仕事部屋を後にした。
寝室に行けば、確かに畳の上に布団が敷かれている。
少し不格好ではあるが、きちんとシーツも伸ばされ毛布もかけられていた。
「よくできたね、ありがとう」
「今度は、もう少しうまくできるようにします」
私は笑って毛布を捲ると、布団の上に腰を下ろす。
少女は黙って私と向かい合うように、畳の上に正座をした。
「では、おやすみなさい」
「まだ寝ないのかい?」
「あなたが眠るまでは、ここにいます」
背筋をピンと伸ばしたままそう答える少女に、私は困ったなと眉根を上げた。
「いつもそうやって夜遅くまで起きているだろう? 好きに眠っていいんだよ?」
「……好きに、というのは難しいです」
「眠くなったら、とも言うけど」
「私にはよくわかりません」
無表情のまま、少女は淡々と答えた。
まるでロボットか人形のような少女の言動に、私はどうしたものか、とため息をつく。
「私には眠くなる、という感覚がよくわかりません。いつも気づいたら気を失って、朝日が昇る頃に覚醒します。眠っているのだとわかりますが、私にとっては突然スイッチを切られるようなものです」
「……そうだね。君はそういう体だ」
私は手を伸ばして少女の頬をそっと撫でる。
「それでも、いつか治ると私は信じている」
「なぜですか?」
「なぜ、と言われても難しいな……信じていると言うより、治ってほしいと思っていると言う方が正しいかもしれないね」
少女は二度瞬いて、私を見返した。
「赤の他人の……しかも捨て子の私になぜ」
「そう言うのは関係ないよ。私は、医者だからね」
それに、と私は付け加える。
「子どもはね、もっと自由でなきゃ」
「自由、ですか」
「大人になるとうまくいかないことが多いからね。子どもの内に自由に笑ったり、泣いたり、眠ったりしてほしいんだ」
「……そうですか」
少女は目を伏せて、何か考えている様子だった。
ふと、窓の外に目を向けると、雲一つない空に大きな月が輝いている。
「良い月夜だ、眠るにはもったいない」
そう言って立ち上がった私を、少女は不思議そうに見上げた。
「たまには夜更かしもいい。温かいお茶でも飲もう、月を見ながらね」
「……明日もお仕事ではないのですか?」
「大丈夫、気にしなくていいんだよ」
笑って答えると、少女は少し躊躇する様子を見せ、スッと立ち上がった。
「お茶、入れてきます」
「お願いしよう。君の入れてくれるお茶はおいしいからね」
言うと、少女は目を泳がせて、少しだけ口元を緩めた。
静かな月夜だ。
こんな夜は、多少の夜更かしも悪くない。