校舎裏
雨が、降っていた。いっそ気持ちいいくらいの半端ない降りっぷりに、なすすべもなく立ち尽くしていた。雨雲が重く垂れこめ、まるで日の出前のように薄暗い。
この連絡通路を越えなければ、目的の美術準備室に辿り着く事はできない。なにしろ美術準備室がある西校舎内には、階段がないのだ。校舎外になら階段はあるのだが、それはあくまでも非常用階段であり、屋根などあるはずもない。
センター校舎の三箇所に設置された階段で昇降し、各階からの連絡通路を渡って東西の校舎に移動するように設計されているためなのだが、その連絡通路が、一階部分だけ壁がないのだ。校舎裏つまり中庭への通路を兼ねているためなのだが、それが今は完全に災いしていると言えた。
それよりもともかく、この雨である。さらに悪い事に、強風が吹きすさび、さながら嵐のごとき様相を呈している。とてもではないがここを渡る気にはなれなかった。
仕方なく徒歩五秒の生徒会室に引き返そうと体の向きを変えた時、視線の端にあるものが引っかかった。地面に落ちている、紺色の塊。滝のような雨に視界を遮られながらも必死に目を凝らし、それがどうやら学校指定のジャージであり、さらにどうやら人間が蹲っているのだと理解するのに数秒を要した。
この雨の中、何を考えているのだろうかと訝しく思いながら、眺める事十数分。じっと見ていた俺も物好きだが、その雨の中外にいる人間は酔狂以外の何者でもないだろう。ともかく、目の前の紺色の塊はゆっくりと立ち上がり、ようやく人間だという事が分かる姿勢になった。
ゆっくりとした足取りでこちらに向かってくるその姿が次第にはっきりと見えるようになり、背中まで届く髪の長さで、どうやら女子生徒らしいと気付く。
連絡通路の僅かに雨がかかり辛い位置まで来たその女子生徒は、突然頭を左右に振った。その仕草はまるで、水に塗れた時の犬か猫のようだ。
顔を覆い隠していた赤茶けた髪が左右に分かれ、そこから色の白い顔が覗いた。
「え? 板倉?」
見覚えのあるその顔は、一年の時同じクラスだった、板倉さなえのものだった。
思わずかけてしまった声に、板倉が僅かに反応する。髪から滴る水が目に流れ込むため薄く開かれた瞼の間から、目だけがこちらを向いた。
「松、田?」
俺がいた事が予想外だったのか、それとも誰かに見られた事が心外だったのか、板倉の目が今度は大きく見開かれた。
相変わらずでけー目だなーと感心しながら見ていると、こちらを見た時と同じくらい面倒臭そうな仕草でそっぽを向かれてしまう。
「お前、そんなとこでなにしてんだ?」
「別に。松田にはカンケーない」
可愛げのないその口調も記憶にあった彼女そのままで、なんとなくおかしくて微かに笑ってしまった。激しすぎる雨音のお陰で、多分板倉の耳には届いていないだろうけれど。
「カンケーなくてもいいけどさー。とりあえず着替えるかなんかしねえと、風邪引くぞ?」
「今、濡れたい気分だからいい」
九月、二学期に入ったばかりでまだ残暑が厳しいとはいえ、あまり長時間濡れていれば体が冷える。濡れるのは勝手だが、体を壊しては元も子もないんじゃないだろうか。
「松田は、生徒会?」
「ああ。体育祭やら文化祭やらの準備で、超多忙なんだよなー」
お陰でまだ短縮授業中で一般生徒は午前中に帰宅しているというのに、夕方まで拘束されてしまっている。腕の時計を確認すると、午後四時を少し回ったところだった。
「副会チョーも大変だね」
今日は雨だね、というのと同じくらい自然な口調で、板倉がぼそりと喋った。
「お前、なんかクラブやってたっけ?」
こんな日にこんな時間までいるのは、生徒会と教師以外には、秋の大会を控えている体育系のクラブの奴らくらいなものだろう。ジャージを着ているところを見ると、板倉もその口かと思った。
しかし予想に反して、板倉の首が左右に振られる。そういえば板倉が着ているのは、学校ジャージ。クラブ活動中なら、部の指定ジャージなりユニフォームなりを着ているのが普通だ。
「濡れたいから、着替えてきた」
「は? わざわざそのためだけに?」
「制服濡らしたら、帰りが困るから」
なるほど。準備がいいというかなんというか。
「そこまでして濡れようって気持ちが、理解不能だな」
「別に、あんたに理解してもらわなくてもいいよ」
それはごもっともな意見だとは思うが、とりあえずいつまでも濡れたままの姿で放っておくのも気が引けて、俺は頭の先からずぶ濡れ状態の板倉の腕に手を伸ばした。
指先が触れた瞬間板倉の体がびくりと震えて、大きく一歩離れた。
「あー。生徒会室にタオルがあるから、来いよ」
伸ばしたままの手のひらを仰向けて、指先をちょいちょいとこちらに招くように動かした。けれど板倉は、こちらを見ようともしない。
「もしかして、なんかあったのか?」
こんな雨の中、濡れてみたくなるような事が。よくよく見ると板倉の瞼が腫れぼったいのは、雨のせいだけではなく泣いていたからなのかもしれない。
「なんで?」
「いや、なんとなく。泣いていたのかなーと」
逸らされていた視線がこちらに戻ってきた。
「あー、うん。まあ、ね」
「もしかして男に振られたとか?」
髪を赤茶に染めて化粧なんかもして、いわゆる普通の今どきのジョシコーセーの板倉は、けれど摺れたところがなく、男づきあいも派手ではなかったはずだ。少なくとも、半年前までは。取り立てて美人ではないけれど、笑うと左の頬にだけエクボができて、それがなんとなく可愛いなどと男の間で話題になる事もあった。
板倉の眉間に縦ジワが入り、不機嫌そうに顰められる。どうやら図星のようだ。
「相変わらず変なとこだけスルドイねー」
ほんの僅かだが板倉の口角が上がった。よし、この調子。
「誉められてんのか、それ?」
「誉めてんだけど、一応」
「誉められてる気がしねーんだけど」
「それは被害妄想」
だんだん口調に張りが出てきた。それに反比例して雨脚が少し弱まり、空も少し明るくなってくる。
「勘違いしないでよ。コクろうとしてた男に、夏の間に彼女ができてたってだけなんだから」
振られる以前の問題らしい。どこかで聞いたような話だと思いながら、まさかという考えが頭を過ぎる。
「それって、もしかして川野?」
俺は、去年から二年続けて同じクラスの連れの名前を口にした。その途端に、板倉の表情が目に見えて歪んだ。
「あんたって、嫌な奴」
固く握り締められた両の拳は色を失い、小刻みに震えていた。今ほど、無神経な自分を悔いた事はなかっただろう。
俺がかけるべき言葉を探している間に板倉は踵を返し、再び雨の中に駆け出していく。
ただ呆然と突っ立っていた俺は、耳に届いた小さな悲鳴にはたと我に返った。慌てて板倉の姿を探せば、ちょうどさっきまで蹲っていた辺りですっ転んでいる彼女がいた。
足を踏み出そうとして躊躇する。雨脚はまた強くなっていて、外に出れば濡れ鼠になる事は間違いない。そういえば体操服、教室に置きっぱなしだったっけか。そんな事を思い出し、今度は躊躇わずに板倉の元に駆け寄った。
激しい雨音でかき消されていた板倉の呻くような声が、地面と顔の間から漏れてきている。もしかして転んだ時に顔面を強打したのだろうか。
「おーい、板倉ー」
「え? うわっ」
がばっと上体を起こしてから俺の顔を見上げた板倉は、どうやらひどく驚いているらしい。
「なんでそんなに驚くかな」
「いや、だって、雨降ってるし」
「降ってるな」
「松田、制服のままだし」
「体操服、あるから」
「何でか知らないけど、ここにいるし」
「一応板倉を、屋根の下に連れ戻しに来たんだけどなあ」
先ほどからの板倉には、当然の事ながらいつもの笑顔がなく、どうやら俺はそれが気に食わないらしかった。
「は? なんで?」
「雨降ってっから」
「松田って、案外バカ?」
「こんな日に傘もささないで外に出て濡れたがるような、酔狂な奴には言われたくねえよ」
胸の位置で両腕を組み、板倉を見下ろす。いつもよりも遥か下に見える板倉の顔は、雨で流れたマスカラで真っ黒になっている。それをぐいっと手の甲で拭ったりするもんだから、顔全体が薄汚れて、なかなか壮絶な状態だ。
それなのに、そんなもの凄い状態なのに、なぜか目を離す事ができないのだ。
「女子生徒の憧れの生徒会副会長さんがこんなバカじゃ、この学校の将来も明るいわけだわ」
声が枯れているのは、泣きすぎたためなのかそれとも風邪のひき始めなのか。とにかくこのまま放っておくわけにもいかないだろう、と板倉の左腕を掴んだ。
「うわっ!」
半袖から覗いた二の腕の予想外の柔らかさに、思わず声を上げる。柔らかいだけじゃなく、かなり細い事にも驚いた。
「ちょっと。何気に失礼じゃん」
汚れた顔の中真っ赤に泣き腫らした目で睨み上げられ、迫力があるんだかないんだか分からないなと思った。どちらかというと間抜けかもしれない。
「あ、悪い、ちょっとびっくりした」
もう一度腕を取り、今度こそ離さないようにけれど強く握り過ぎないように注意しながら、板倉を引っ張り上げた。女の子ってこんなに華奢で柔らかかったっけ、と記憶を探ってみるが、よく分からなかった。
「ありがと。濡れたらちょっとすっきりした」
「そっか? んじゃ、さっさと着替えて来いよ」
「松田もね」
言われて自分の姿を見下ろせば、制服はすっかり水を吸って、重く体に纏わりついてきている。帰ったら母親にどやされそうだなあと、暢気な事を考えた。
「着替えたら、昇降口んとこで待ってろよ。駅まで送ってやるから」
すらすらと口から出た言葉に、自分で驚いた。当然板倉もびっくりして、目を見開いている。
「は? なんで?」
それは至ってまともな疑問だろう。俺自身なんで「送ってやる」なんて事を口走ったんだか分からない。
「やー。なんかお前、ほっといたらまたどっかで野垂れてそうだし」
「人を落ち武者みたいに」
そこで落ち武者という言葉が出てくるのも不思議だが、とにかく半ば強引に送って行く事にした。
急いで教室に戻り、体操服を引っ掴んで更衣室に飛び込んだ。中にいた数人の男どもがずぶ濡れの俺の姿を見て何事か声をかけてきたが、適当に生返事を返して、入ってきた時同様の勢いで飛び出す。
本当に待っているかどうか半信半疑だったが、昇降口前の廊下に立つ板倉の姿を見つけた時はほっとした。さすがに顔を洗ってメイクし直して来たらしく、いつもの顔に戻っている。
「悪い。待ったか?」
「んーん。髪乾かしてたから」
実は昇降口の隣は、生徒会室だったりする。あまり恵まれた位置とは言いがたかったが、遅くなった時の帰りには、昇降口が近い事がありがたいと感じる事もあった。
まあそういうわけで、あまり大きな声を上げると、未だ残って体育祭やら学祭やらの準備をしている他の役員たちに、無断で帰る事がばれるので、極力声を落として話す。
「そんなに慎重になるくらいなら、別にいっしょに帰らなくてもいいじゃん」
その言葉はごもっともだが、素直に頷くつもりはなかった。
「なに。俺と一緒じゃ、迷惑とか?」
「別にそんな事言ってないじゃん。松田って、被害妄想激しい?」
「普段はそうでもないけどな」
「じゃあ今は特別なんだ? なんで?」
なんでなんだろう。
外に出ると、あれだけ激しかった雨は、すっかり上がっていた。
「通り雨にしちゃ、景気がよすぎないか」
「不景気よりはいいんじゃない」
雨に不景気なんてものがあるのかどうかは甚だ疑問だったが、とりあえず板倉が濡れたいなんて思うような雨は、降らないに越した事はない。
「松田って、変な奴だよね」
「本人目の前にして変とか言うか、普通」
「や、ごめんごめん。だってさ。別にほっとけばいいのに、なんでわざわざ一緒に濡れに来たりしたんだろうなーなんて思っちゃったから」
さっきも聞かれたな。なんで、って。実はそれは俺が一番知りたいんだが。
「さあね。捨てられた猫みたいでほっとけなかったからかもな」
「猫? あたしって猫系?」
「犬よりは猫じゃね?」
そうか、猫だったのかーどっちも好きだけどねーなどと、雲が切れかけている空を見上げながら、板倉が笑った。左の頬にはえくぼ。その微かな笑顔が妙にきれいに見えたのは、うっすらと顔を出し始めた夕日のせいかもしれない。
「俺、猫好きだし」
「は? な、なに言ってんの?」
目を丸くして俺を見ている板倉の頬が、心なしか赤くなっている。
「あ、いや、別に深い意味は」
なかったつもりだったんだが、板倉の顔を見ていると、深い意味があったような気になってくる。
「そ、そうだよね、深い意味はないよね」
それから何となく言葉が途切れてしまい、二人とも無言で駅まで歩いた。俺と板倉はここから逆方向に分かれる事になる。
「じゃ、送ってくれてありがとう、なのかな?」
「どういたしまして、でいいのか?」
なんとなくお互い顔を見合わせて、同時に吹き出してしまった。
「じゃあ、またね」
「あ、板倉」
階段を上がってい行こうとする板倉を呼び止めると、素直にくるんとこちらを向いた。
「俺、毎日八時五分に着く電車だから。明日、一緒に行かないか」
今日何度目かの、まん丸に見開かれた目。元々表情が豊かだったけれど、ここまでくるくると変わると、いっそ面白いというか可愛いというか。
「え? あ、ちょっと、松田!?」
「じゃーな」
板倉の返事を待たずに、俺は反対側のホームへの階段を一気に駆け上がった。返事なんて、怖くて聞けない。
大体、板倉は失恋したばかりの傷心を抱えているのに。それにつけ込むような真似は、既にしてしまっている。だからこそ顔を見るのが気まずくて、逃げるようにして離れた。
俺がホームに着くとすぐに、向こう側のホームに板倉の姿が見えた。肩で息をしているところを見ると、同じように走ったんだろう。
「松田の、バカー! 卑怯者ー! 言い逃げするなー!」
真っ赤な顔で叫ぶ姿が、ホームに滑り込んできた電車に隠れてしまう。
開いたドアから乗り込んで、ガラス越しに板倉を見ると、バカでも卑怯者でもいいさと思うくらい可愛く照れている姿に、笑顔で手を振った。
電車が動き出した時、板倉が仕方なさそうに手を振り返してくれた。
翌朝八時五分。いつもの電車で駅に着いて外に出ると、そこには既に板倉が立っていた。目茶苦茶不機嫌そうな顔で。
「昨日あの後、死ぬほど恥ずかしかったんだからね」
ホームで叫んだ後周囲の視線を浴びてしまい、いたたまれない気持ちになったんだそうだ。
「目立ってたもんな、お前」
「誰のせいだと思ってんの」
叫んだのは板倉の勝手だが、そうさせたのはやはり俺のせいかもしれない。
「お詫びに今度、マック奢ってやるよ」
途端に板倉の表情が緩んだ。安上がりな奴でよかった。
「絶対だからね! チキンフィレオのLLセットだからね!」
機嫌よく笑う板倉の左の頬には、やっぱりえくぼができていた。