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【短編】テレフォンクラブ

作者: 越路 秋葉
掲載日:2026/10/15

長野市権堂の裏路地に、その店はあった。


古びた雑居ビルの5階。入口の上には、色あせた看板が掲げられている。


テレフォンクラブ


その下には、小さくこう書かれていた。


――各種電話機、取り揃えております。


「……電話機?」


会社帰りの小林達也は、看板を見上げた。


テレフォンクラブといえば、昔は男女が電話で知り合うための場所だったはずだ。男性がブースに入り、女性からの電話を待つ。そんな話を聞いたことがある。


だが、この店の看板には、どうにも妙な但し書きがある。


各種電話機。


「電話機を売ってるのか?」


入口のガラス戸から中を覗くと、受付の奥に電話機らしきものが並んでいた。


黒電話、プッシュホン、コードレス電話。なぜか赤い公衆電話まである。


達也は首をかしげた。


そして、好奇心に負けて扉を開けた。


カラン。


「いらっしゃいませ」


受付にいたのは、三十代半ばくらいの男性だった。


「あの……ここ、テレフォンクラブですよね?」


「はい」


「女性と電話で話す……」


「いいえ」


男性は即答した。


「電話機をお楽しみいただくお店です」


「……はい?」


*


店内には、個室が五つ並んでいた。


それぞれの部屋には、小さな机と椅子、そして電話機が一台ずつ置かれている。


「こちらが一番人気の黒電話です」


店主が受話器を持ち上げた。


ジーコ、ジーコ。


「ダイヤルを回す感触、いいでしょう?」


「はあ……」


「こちらは昭和後期のプッシュホン。ボタンの押し心地が違います。こちらは初期のコードレス電話。こちらは海外仕様の電話機です」


達也は、説明を聞きながら部屋を見て回った。


電話機は、どれも実際に使えるらしい。


「で、これで何をするんです?」


「電話を掛けます」


「どこへ?」


「お好きなところへ」


「……相手がいないんですが」


「電話ですから」


店主は当然のように答えた。


「相手がいれば、話せます」


「いや、そういうことじゃなくて」


達也は頭を抱えた。


どうやら、この店は本当に電話機を楽しむだけの店らしい。


しかも、料金は三十分五百円。


妙に良心的だった。


「まあ、せっかく来たんだし……」


達也は、黒電話のあるブースに入った。


*


机の上には、電話帳が一冊置かれていた。


達也は受話器を持ち上げた。


ツー。


発信音が聞こえる。


久しぶりに聞く、昔ながらの電話の音だった。


何となく懐かしい気分になり、実家の番号を回した。


ジーコ、ジーコ。


呼び出し音。


数回鳴ったあと、母親が出た。


『はい、もしもし』


「……あ、俺」


『達也? どうしたの、こんな時間に』


「いや、別に。元気かなと思って」


『元気よ。あんたこそ、ちゃんとご飯食べてるの?』


いつもの会話だった。


母親は、近所のスーパーの話を始めた。父親がまた庭の植木を切りすぎたこと。隣の家の犬が最近よく吠えること。


達也は、相槌を打ちながら笑った。


気づけば、十分が過ぎていた。


『ところで、あんた、どこから電話してるの?』


「……テレフォンクラブ」


『は?』


「いや、電話機を楽しむ店」


『何それ』


「俺にもよくわからん」


二人で笑った。


電話を切ったあと、達也はしばらく受話器を眺めていた。


実家に電話をするなんて、いつ以来だろう。


用事がなければ連絡しない。連絡すれば、仕事の愚痴を聞かれたり、結婚の話を持ち出されたりする。


そんなことが面倒で、いつの間にか電話をしなくなっていた。


けれど、今日の電話は、なぜか悪くなかった。


*


ブースを出ると、店主がカウンターで帳簿をつけていた。


「いかがでしたか?」


「……不思議な店ですね」


「よく言われます」


「他のお客さんは、何をしてるんです?」


「いろいろですよ。昔の電話機を懐かしむ方もいれば、ダイヤルを回す感触が好きな方もいます。受話器を通した音の違いを楽しむ方もいらっしゃいます」


「電話機の音?」


「ええ。電話機によって、受話器から聞こえる音も、声の響きも少しずつ違うんです」


店主は、棚の上に置かれた古い電話機を見た。


「今は、電話を掛けるのも簡単でしょう。スマートフォンを取り出して、名前を押せばつながる。でも、昔は違いました」


彼は黒電話を手に取った。


「番号を確かめて、ダイヤルを回して、呼び出し音を聞いて、相手が出るのを待つ。たったそれだけのことに、時間がかかったんです」


「……確かに」


「私は、その時間が好きなんですよ」


店主は微笑んだ。


「電話は、相手とつながるための道具です。でも、つながるまでの時間も、電話の一部なんじゃないかと思うんです」


達也は、先ほどの母親との会話を思い出した。


呼び出し音を聞きながら、母親が出るのを待っていた時間。


たった数秒だったのに、妙に長く感じた。


そして、母親の声が聞こえた瞬間、なぜかほっとした。


「……なるほどね」


達也は、少しだけ笑った。


*


帰り際、達也は入口の横に置かれた電話機に目を留めた。


それは、古いピンク色の公衆電話だった。


「これも使えるんですか?」


「もちろんです」


「どこへ掛けられるんです?」


「どこへでも。つながる番号なら」


達也は、ふと思いついてスマートフォンを取り出した。


連絡先を開き、しばらく迷ったあと、一つの名前を見つめた。


大学時代の友人、山本。


就職してから、ほとんど連絡を取っていない。


最後に会ったのは、もう五年も前だった。


達也は番号を紙に書き写し、店の電話機に向かった。


硬貨を入れ、受話器を持ち上げる。


ダイヤルを回す。


ジーコ、ジーコ。


呼び出し音が鳴った。


一回。


二回。


三回。


そして。


『もしもし?』


「……山本?」


『えっ、達也? お前、何年ぶりだよ!』


「悪い。なんとなく、声が聞きたくなってさ」


『なんだよ、それ。変なやつだな』


山本の笑い声が聞こえた。


『そういや、今度、長野に行く用事があるんだよ。飯でも食おうぜ』


「マジか。いいね」


『詳しい日程、あとでメッセージ送るわ』


「おう。待ってる」


電話を切ったとき、達也は思わず笑っていた。


たった数分の電話だった。


けれど、五年間も途切れていた友人との距離が、ほんの少し縮まった気がした。


*


店を出ると、権堂の夜はすっかり更けていた。


達也はスマートフォンを取り出し、母親にメッセージを送った。


『今度、実家に顔出すわ』


すぐに返信が来た。


『あら、珍しい。待ってるね』


達也は笑った。


ふと、背後の看板を振り返る。


テレフォンクラブ


その下には、相変わらず小さく書かれていた。


――各種電話機、取り揃えております。


「……変な店だったな」


そう呟きながらも、達也の足取りは、入店したときより少し軽かった。


店の中には、今日も黒電話やプッシュホンが並んでいる。


誰かと話したい人。


懐かしい音を聞きたい人。


しばらく連絡していなかった誰かに、電話を掛けてみたくなった人。


それぞれが、それぞれの理由で受話器を持ち上げる。


そこは、出会いを斡旋する場所ではなかった。


ただ、電話を掛けるという行為を、もう一度ゆっくり味わうための場所だった。


そして店主は、今日も新しい客に尋ねる。


「お客様。今日は、どの電話機をお試しになりますか?」


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