【短編】テレフォンクラブ
長野市権堂の裏路地に、その店はあった。
古びた雑居ビルの5階。入口の上には、色あせた看板が掲げられている。
テレフォンクラブ
その下には、小さくこう書かれていた。
――各種電話機、取り揃えております。
「……電話機?」
会社帰りの小林達也は、看板を見上げた。
テレフォンクラブといえば、昔は男女が電話で知り合うための場所だったはずだ。男性がブースに入り、女性からの電話を待つ。そんな話を聞いたことがある。
だが、この店の看板には、どうにも妙な但し書きがある。
各種電話機。
「電話機を売ってるのか?」
入口のガラス戸から中を覗くと、受付の奥に電話機らしきものが並んでいた。
黒電話、プッシュホン、コードレス電話。なぜか赤い公衆電話まである。
達也は首をかしげた。
そして、好奇心に負けて扉を開けた。
カラン。
「いらっしゃいませ」
受付にいたのは、三十代半ばくらいの男性だった。
「あの……ここ、テレフォンクラブですよね?」
「はい」
「女性と電話で話す……」
「いいえ」
男性は即答した。
「電話機をお楽しみいただくお店です」
「……はい?」
*
店内には、個室が五つ並んでいた。
それぞれの部屋には、小さな机と椅子、そして電話機が一台ずつ置かれている。
「こちらが一番人気の黒電話です」
店主が受話器を持ち上げた。
ジーコ、ジーコ。
「ダイヤルを回す感触、いいでしょう?」
「はあ……」
「こちらは昭和後期のプッシュホン。ボタンの押し心地が違います。こちらは初期のコードレス電話。こちらは海外仕様の電話機です」
達也は、説明を聞きながら部屋を見て回った。
電話機は、どれも実際に使えるらしい。
「で、これで何をするんです?」
「電話を掛けます」
「どこへ?」
「お好きなところへ」
「……相手がいないんですが」
「電話ですから」
店主は当然のように答えた。
「相手がいれば、話せます」
「いや、そういうことじゃなくて」
達也は頭を抱えた。
どうやら、この店は本当に電話機を楽しむだけの店らしい。
しかも、料金は三十分五百円。
妙に良心的だった。
「まあ、せっかく来たんだし……」
達也は、黒電話のあるブースに入った。
*
机の上には、電話帳が一冊置かれていた。
達也は受話器を持ち上げた。
ツー。
発信音が聞こえる。
久しぶりに聞く、昔ながらの電話の音だった。
何となく懐かしい気分になり、実家の番号を回した。
ジーコ、ジーコ。
呼び出し音。
数回鳴ったあと、母親が出た。
『はい、もしもし』
「……あ、俺」
『達也? どうしたの、こんな時間に』
「いや、別に。元気かなと思って」
『元気よ。あんたこそ、ちゃんとご飯食べてるの?』
いつもの会話だった。
母親は、近所のスーパーの話を始めた。父親がまた庭の植木を切りすぎたこと。隣の家の犬が最近よく吠えること。
達也は、相槌を打ちながら笑った。
気づけば、十分が過ぎていた。
『ところで、あんた、どこから電話してるの?』
「……テレフォンクラブ」
『は?』
「いや、電話機を楽しむ店」
『何それ』
「俺にもよくわからん」
二人で笑った。
電話を切ったあと、達也はしばらく受話器を眺めていた。
実家に電話をするなんて、いつ以来だろう。
用事がなければ連絡しない。連絡すれば、仕事の愚痴を聞かれたり、結婚の話を持ち出されたりする。
そんなことが面倒で、いつの間にか電話をしなくなっていた。
けれど、今日の電話は、なぜか悪くなかった。
*
ブースを出ると、店主がカウンターで帳簿をつけていた。
「いかがでしたか?」
「……不思議な店ですね」
「よく言われます」
「他のお客さんは、何をしてるんです?」
「いろいろですよ。昔の電話機を懐かしむ方もいれば、ダイヤルを回す感触が好きな方もいます。受話器を通した音の違いを楽しむ方もいらっしゃいます」
「電話機の音?」
「ええ。電話機によって、受話器から聞こえる音も、声の響きも少しずつ違うんです」
店主は、棚の上に置かれた古い電話機を見た。
「今は、電話を掛けるのも簡単でしょう。スマートフォンを取り出して、名前を押せばつながる。でも、昔は違いました」
彼は黒電話を手に取った。
「番号を確かめて、ダイヤルを回して、呼び出し音を聞いて、相手が出るのを待つ。たったそれだけのことに、時間がかかったんです」
「……確かに」
「私は、その時間が好きなんですよ」
店主は微笑んだ。
「電話は、相手とつながるための道具です。でも、つながるまでの時間も、電話の一部なんじゃないかと思うんです」
達也は、先ほどの母親との会話を思い出した。
呼び出し音を聞きながら、母親が出るのを待っていた時間。
たった数秒だったのに、妙に長く感じた。
そして、母親の声が聞こえた瞬間、なぜかほっとした。
「……なるほどね」
達也は、少しだけ笑った。
*
帰り際、達也は入口の横に置かれた電話機に目を留めた。
それは、古いピンク色の公衆電話だった。
「これも使えるんですか?」
「もちろんです」
「どこへ掛けられるんです?」
「どこへでも。つながる番号なら」
達也は、ふと思いついてスマートフォンを取り出した。
連絡先を開き、しばらく迷ったあと、一つの名前を見つめた。
大学時代の友人、山本。
就職してから、ほとんど連絡を取っていない。
最後に会ったのは、もう五年も前だった。
達也は番号を紙に書き写し、店の電話機に向かった。
硬貨を入れ、受話器を持ち上げる。
ダイヤルを回す。
ジーコ、ジーコ。
呼び出し音が鳴った。
一回。
二回。
三回。
そして。
『もしもし?』
「……山本?」
『えっ、達也? お前、何年ぶりだよ!』
「悪い。なんとなく、声が聞きたくなってさ」
『なんだよ、それ。変なやつだな』
山本の笑い声が聞こえた。
『そういや、今度、長野に行く用事があるんだよ。飯でも食おうぜ』
「マジか。いいね」
『詳しい日程、あとでメッセージ送るわ』
「おう。待ってる」
電話を切ったとき、達也は思わず笑っていた。
たった数分の電話だった。
けれど、五年間も途切れていた友人との距離が、ほんの少し縮まった気がした。
*
店を出ると、権堂の夜はすっかり更けていた。
達也はスマートフォンを取り出し、母親にメッセージを送った。
『今度、実家に顔出すわ』
すぐに返信が来た。
『あら、珍しい。待ってるね』
達也は笑った。
ふと、背後の看板を振り返る。
テレフォンクラブ
その下には、相変わらず小さく書かれていた。
――各種電話機、取り揃えております。
「……変な店だったな」
そう呟きながらも、達也の足取りは、入店したときより少し軽かった。
店の中には、今日も黒電話やプッシュホンが並んでいる。
誰かと話したい人。
懐かしい音を聞きたい人。
しばらく連絡していなかった誰かに、電話を掛けてみたくなった人。
それぞれが、それぞれの理由で受話器を持ち上げる。
そこは、出会いを斡旋する場所ではなかった。
ただ、電話を掛けるという行為を、もう一度ゆっくり味わうための場所だった。
そして店主は、今日も新しい客に尋ねる。
「お客様。今日は、どの電話機をお試しになりますか?」




