蛙屋敷
まとわりつくように蒸し暑い夜だった。
仕事帰りにコンビニに寄り、たまにはちょっとした贅沢くらい許してくれと神だか仏だかに念じながら数種類のアイスを買い物袋いっぱいに買い込んだ。
店を出て当たり付きの棒アイスを一本取り出し、それを囓りながら家へ向かった。
行儀が悪い。
高校時代の担任が浮かぶ。
厳しい女性だった。私立高校だったから特にだろう。制服を着ている時の言動には気を使いなさいと何度も言われた覚えがある。
そういえばバスの待ち時間に焼き鳥を食べていたクラスメイトが学校に通報されてしまったことがあったななどと思い出しながら、街灯の少ない通りを歩いていた。
犬の声すらしない。
夏の虫がやや騒がしい以外は人の声もしない。
べつにそこまで田舎というわけでもないのだが、時間帯なのだろう。
大きな通りから一本外れるだけで灯りも人通りも車さえも少ない。
自動車整備工場の裏を通ると灯りの消えたスーパーが目に入る。
やはりコンビニでアイスを買っておいてよかった。
冷たいソーダ味を楽しみながら思う。
仕事が終わると微妙にスーパーの営業時間に間に合わない上に、残業があるとバスも三十分待たなくてはいけない。不便なものだ。
バス停はスーパーの向かい側の通りにある。大きな庭付きの邸宅のまん前だ。
よく利用するバス停なのに、ここの住民を見かけたことがなかった。
押しボタン式の横断歩道を渡るとき、タクシーの運転手に睨まれた気がするがどうでもいい。
ただ、妙にエンジン音が響いた気がした。
車通りだけはそこそこあるが、他に歩いている人は見当たらない。
そんな夜だ。
邸宅の前を通ると、妙な音が響いた。
ここだけやけに騒がしい。
周囲に川も田んぼもないのだが、やたらと大きな音が響いている。
蛙の鳴き声だ。
それも一匹二匹ではない。何十匹もが大合唱している。
気味が悪い。
色褪せた政治家のポスターの胡散臭い笑みからも蛙の声が漏れているように感じられた。
気持ち悪い。
普段は蛙なんて見かけないのに、どうして今日に限って。
そもそもこんなに蛙がいただろうか。
妙に大きな声が聞こえた気がした。
思わず振り向く。
けれども蛙の姿は見えない。
蛙の鳴き声で種類がわかるらしいが、生憎そこまで興味がない。種類は特定出来なさそうだ。
なにに似ているかと訊ねられれば、小学校の音楽の授業で使った棒をこすって音を鳴らすギロだろうか。あれの音とよく似た鳴き声が何十匹分も響き、そしてどんどん大きくなっている。
思わず後ずさる。
鳴き声があまりにも多過ぎて方向感覚が失われていくようだった。
いま、どこにいる?
眩暈がする。
政治家のポスターから音がする。
ふらふらとしていると、邸宅の塀の向こうに大きな影が見えた気がした。
蛙?
巨大な蛙がいたように見えた。
けれども瞬きをすると消えてしまう。
音のせいで神経質になってしまっていたのだろう。
そう思った。
いつの間にかぴたりと蛙の声が止む。
なんだったのだろう。
あんなに大合唱していたのに全く聞こえなくなった。
それどころか、他の音も聞こえない。
無音。
まるで時間が止まった中に放り込まれたようだ。
なに?
辺りを見回しても車ひとつ通らない。
おかしい。バスはまだ?
そう思っていると、また蛙の鳴き声が響く。
近い。
蛙の鳴き声が近づいてくる。
いや、数が増えているのだろうか。
くらり。
ふらつく。
進む方向がわからない。ただ邸宅の中から鳴き声が聞こえる気がする。
ここから離れないと。
なんとなくそう思ってふらふらと歩き出す。
方向感覚がわからない。
あっちもこっちも蛙の鳴き声だらけだ。
とにかく蛙から離れないと。
がくん。
体に衝撃がある。
段差から落ちたらしい。その衝撃でよろめく。
蛙の声が充満している。
ここは嫌だ。
そう思った瞬間、音が消える。
そして。
急ブレーキの音がした。
「なにやってんだよ」
眩しい光と同時に運転手の怒鳴り声がする。
見覚えのある顔だった。
あ、さっき睨みつけてきたタクシー運転手だ。
「すみません、ふらついて」
振り向いても蛙の姿はない。
それどころかあんなに聞こえていた鳴き声が止んだ。
「あの、乗せてもらえますか?」
運転手に訊ねる。
今日はだめだ。タクシー代をケチる元気もない。
「どこか、悪いのかい?」
「この暑さにやられたみたいで」
「それはいけない。クーラーが効いてるから乗りな」
運転手はドアを開けてくれる。
車内は確かにひんやりしていた。
「待ってもバスがなかなか来なくて」
「最近減便多いからねー」
そんな話をしながら目的地を告げる。
また、蛙の声がする。
「今年、蛙多いんですかね」
「蛙? そうですか?」
運転手は首を傾げながら発進した。
聞こえていない? この大合唱が?
まさか。
暑さのせいで頭がやられてしまったのだろうか。
座席に体を預け、天井を見る。
やはり方向感覚がわからないほどの鳴き声がつきまとう。
もう一度、邸宅の方を見る。
濃い霧に沈み、うずくまる巨大な蛙がいるように見えた。




