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白い霧の向こう ― 茶馬道の小さな殺意 ―  作者: 鬼丸 千


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第26話 三日間

 克己クジは、乃柯里ノカリ村に帰るぞと言う。

 芳寧ファンニンは、巍山ウェイシャンに残ると言う。


 どちらも理由を問われると、口ごもる。

 このくり返しばかりだ。

 陸峰ルフォンは、とうとう立ち上がった。


「俺は、ここで」


 二人が一斉に陸峰ルフォンを見る。


「おい、どこへ行く?」

ジャン府に行くの?」


 懐から茶代をだしながら、陸峰ルフォンはうなずいた。


ヤン公子に、巍山ウェイシャンに到着したと報告を」

「私も行くわ。ヤン公子に会わないと」

「おい!」


 立ち上がった芳寧ファンニンの肩を、克己クジが押し戻した。


「お前は……駄目だ」

「どうして?」

 

 二人とも負けん気が強い。 


「いくら聞いても、父さんは理由を教えてくれない。ヤン公子から同行してほしいと依頼された時も、最初は喜んでいたのに、急に『お断りする』と言ったわ。私だけ村に置いていくわけにはいかない、同行させるのも心配だからって」


 克己クジの不自然な咳払い。

 陸峰ルフォンは、二人の顔を等分に見る。

 立ち去りにくい雰囲気だ。


「理由は、巍山ウェイシャンね。この街に何があるの?」


 克己クジのつけ髭を、ぐいと指さす。


「そんな変装までして。この街に、会いたくない人でもいるの?」

「……大人の事情があるんだよ」

「また、そんなことを言う。話してくれないと理解できないわ」


 克己クジは、ふうと天井に息を吐いた。


「じゃあ、お前は? なぜ、ヤン公子に会う必要がある?」


 その答えは、陸峰ルフォンも気になるところだ。

 芳寧ファンニンの顔を見た。

 

 茶店に数人の客が入ってきた。

 看板娘のような猫が、歓迎するようににゃあと鳴く。


 芳寧は、膝の上で指を組んだ。


「……ヤン公子に、聞きたいことがあるの」

「なんだ?」

「それは言えない。もう少し確かめてからでないと」


 揚易棠ヤン・イタンに聞きたいこと?

 何を確かめたいと言うのだろう。──彼の気持ちか?

 芳寧ファンニンの白い瞳からは、何もうかがい知れない。


「父さん、三日ちょうだい」


 克己クジが、きょとんとする。


「三日?」

「三日後に帰るわ。乃柯里ノカリ村へ、父さんと一緒に」

「それは、お前、婿選抜会が終わるまでは帰らないという意味か?」


 芳寧ファンニンはうなずいた。


「父さんだって、恩返ししたいと言ってたでしょう? ヤン公子に同行してジャン府に入った以上、このまま帰れないはずよ」


 そして、陸峰ルフォンを見る。


「山小屋まで、彼が助けに来てくれたのは、ヤン公子のおかげでもあるのよ。それなのに……そんなふうに帰ったら、まるで恩を仇で返すみたいじゃないの」


 克己クジは、返す言葉もない。


「父さんが巍山ウェイシャンを離れたがる理由は、あえて聞かないわ。だから、父さんも三日だけでいい。私の意志を尊重して」


 茶店の外では、豆腐売りが声を張り上げている。

 にぎわう通りに、山歌が響いていた。

 水あめの甘い香りが漂い、子どもたちのはしゃぐ声がする──。


「……いいだろう。だが、条件がある」


 克己クジが、やっと口を開いた。


「条件?」


 克己クジは椅子から立ち上がると、二人の前でくるりと回ってみせた。白髪を隠すため額まで下ろした儒生の布帽を自慢げに指ではじく。


「変装しろ。私のように。うまく化けられたら三日の滞在を許可する」


 芳寧ファンニン陸峰ルフォンは顔を見合わせ、それから不安そうに、今にも落ちそうな克己クジのつけ髭を見つめた。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇


「三日?」


 タン頭儿が、口に運びかけた杯を置いた。


「三日遅れで、ここを発ちたいって?」

「はい」


 陸峰ルフォンタン頭儿は、ジャン府にほど近い食事処で、巍山ウェイシャンの名物料理である一根面イーゲンミェンを食べていた。


 長い麺が一本、薄い琥珀色の清湯チンタンの中で渦を巻いている。雲南名物の大きくて白い豆──荷包豆ホーバオドウ──と、山のタケノコ──山笋サンスン──、旨味の濃い熟成肉──火腿フォートゥイ──が乗っていて、食べ応えがある。


 地元では、長寿麺と呼ばれているらしい。


「そりゃまた、どうして?」


 陸峰ルフォンの予想に反して、タン頭儿は明るい声で聞いた。


 鏢局と別れて単独行動をとるなど、前代未聞だ。

 揚易棠ヤン・イタン巍山ウェイシャンまで護衛し終えた今、鏢局の任務ははるか北方の吐蕃王国まで茶葉を届けることにある。

 

「あと三日、巍山ウェイシャンに留まりたい」


 そう告げれば、殴られると覚悟していた。

 タン頭儿は、三十代にして鏢局の馬鍋頭。規律をなにより重んじる責任感の強い男だ。


 殴られるのは覚悟していたが、できるだけ温和に話を進めようと年代物の紹興酒を奮発したのが、功を奏したのかもしれない。


 注文した麺が出てくる前に、野生茸──牛肝菌ニウガンジュン──の煮つけを肴にして、酒豪の彼はすでに上機嫌だった。


巍山ウェイシャンで三日、何をする気だ?」


 その返事は用意していなかった。


「あの娘さんか?」


 タン頭儿が、硯のように四角い顔をにやつかせて言った。


「それは……」

 陸峰ルフォンは口ごもる。


「隠すな、隠すな。お前は器用な男じゃない。鍛冶の腕前と剣術は見事だがな」


 自分の発言が面白いと思ったのか、あっはっはと豪快に笑う。

 陸峰ルフォンはうまく笑えずに、一根面イーゲンミェンの汁をすすってごまかした。


「よかろう!」


 タン頭儿が、分厚い手のひらで自分の膝を叩いた。


「わかった。俺たちは先に行く。お前は三日後に発て。一本道の茶馬道だ。迷子にならずについてこいよ」


 陸峰ルフォンは箸を置き、黙って頭を下げた。

 タン頭儿は、満足そうに喉を鳴らして紹興酒をあおる。


 客席のすぐ脇にあるかまどの前で、白髪の老婆が葱油餅を焼いていた。


 乃柯里ノカリ村の茶発チャファ馬店にいた安茶アンチャという少年が、よく頬張っていた葱油餅と同じ香りだ。宿で世話になった彼に、別れも言わずに村を離れたことを、ふと思い出した。


 別れることになる相手には、きちんと言葉をかけるべきだ。

 思い出したとき、胸の奥が痛まないように。


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