第23話 茶樹王の下で
茶店と少年に別れを告げた後、二人がたどる山道は、再びうっそうと茂る木々に覆われた。目に迫るのは照葉樹の大群だ。澄んだ空気が心地いい。
陸峰は、馬のくつわを取りながら、芳寧の様子をそれとなく見ていた。疲れはあるようだが、穏やかな表情だ。
昨夜、巍山に行くと告げたとき、彼女の表情は不満そうだった。揚易棠に会えると知って喜ぶかと思ったが、考えてみれば巍山で行われるのは姜家の婿入りに備えての選抜会だ。彼に好意を感じているだろう彼女が、手放しで喜ぶわけもない。
『父は、巍山行きを断ったはず』
そう彼女は言ったが、茶商である揚家に召喚され、茶業界を牛耳る押しも押されぬ名門──姜家──の敷居を跨げることは、茶師にとってこの上なく光栄なことであるはずだ。彼女の知らないところで契約は整っていた可能性もある。
実のところ、これも揚易棠の企みであるのかもしれなかった。だが、そう考えたくない自分がいる。今の陸峰には、整理のつかないことが多すぎた。
昨夜──。
二人きりの山小屋で、焚火をはさんで向かい合わせに座り、彼女は膝を抱えて目を閉じた。あんな経験をした後だ。気が動転して眠れないのではと思ったが、すぐに寝息が聞こえてきた。
焚火の炎を絶やさぬよう、隣の小部屋に薪を取りに行って戻ると、彼女が震えているのに気が付いた。標高千五百ほどの位置にある山小屋の夜は、春といえど底冷えがする。娘の衣服に疎い陸峰にさえわかるほど、彼女は軽装だった。
薪を置き、周囲を見渡すが何もない。
転がっているのは、彼女が被せられていた麦粉の麻袋だけだ。
仕方なく外套を脱いだ。
肩にかけてやろうとした時、彼女がぐらりと揺れた。
慌てて差し出した陸峰の右手に、彼女の頬がすっぽりと収まった。
退くに退けない。
中腰のまま彼女の頬をしばらく支えた。
ここで目を覚まされては、あらぬ疑いをかけられかねない。
そっと寝かせようとしたが、藁は明らかに固そうだ。
彼女の頬を刺すだろう。
その時、母を思い出した。
父が病死する半年前、同じ流行り病でこの世を去った母は、幼い陸峰が眠れずにいると、よく膝枕をしてくれた──。
(藁の上に頭を置くよりは、いいだろう)
陸峰は、ゆっくりと芳寧の横に座った。
彼女は目覚める気配もなく、ぐっすりと眠っている。
手のひらに感じる温もり。
柔らかく、なめらかな肌。
腕に触れる柔らかい髪──。
悪意は微塵もないのに、なぜか後ろめたさを感じた。
こんな所で、俺はいったい何をやっているんだと苦笑しながら、なんとか彼女の頭を落ち着かせた。彼女が心地よさげに息を吐く。
外套を身体にかけてやると、ほどなく彼女の震えは収まった。
薪をくべ、焚火をつつく。
手持ち無沙汰になると、目が彼女の寝顔に引き付けられる。
長いまつげ。
赤みを帯びた頬。
なめらかに弧を描いた眉。
通った鼻筋。
幼さを感じる小鼻──唇。
薪のはぜる音で、陸峰は我に返った。
天井を仰ぐ。
(今夜は眠れそうにない)
予想どおり、彼は明け方まで一睡もできなかった。
そのせいで集中力を欠いていたのだろう。
前方の草むらに、山賊が潜んでいた。
奇声をあげて飛び出してくるまで、気づかなかった。
男は三人。獲物を物色していたらしい。
芳寧を指さして、にやにや笑っている。
馬上で、彼女が息を呑む気配がした。
ためらっている暇はない。
無法者たちを睨み、陸峰は芳寧に向かって叫んだ。
「俺が呼んだら手綱を握り、馬の脇腹を蹴るんだ!」
山賊に向かって駆けながら、長剣を抜く。
略奪を生業とする荒くれ者たちは、余裕の表情だ。向かってくる相手が細身の若者一人とあっては、本気を出すまでもないと見たのだろう。朴刀や山刀を振りまわして嘲笑っている。彼らの笑みはすぐに消えた。
陸峰の長剣が、笛のように鳴いた。
一太刀ごとに男たちの唸り声が響く。
彼の剣先は急所を突くことなく、少しずつ男たちの戦意を奪っていく。目にも留まらぬ速さで薙ぎ払われる長剣を、攻めることも防ぐこともできない山賊たちは、次第に悪態をつき始めた。
三人を相手にしながら、陸峰の動きには一切の乱れがない。
しなやかな身体が、宙を飛ぶ。
芳寧の目に映る陸峰の姿に、百花茶館で見た父──克己の姿が重なった。
克己の長嘴壺が空を切るように、陸峰の長剣が風を切る。肩や背中でくるくる回り、軽やかに舞う。一滴の湯をこぼすこともない父の長嘴壺のように、陸峰の長剣の正確さも神がかっていた。
緊張の中に余裕があり、動きの中に静寂がある──。
「芳寧!」
陸峰が叫んだ。
はっとして、芳寧は手綱を握りしめ、足の腹で思い切り馬の脇腹を蹴った。駿馬はすぐさま反応し、背中の芳寧とともに勢いよく駆けだした。
芳寧の顔に突風が刺さる。目を開けていられない。手綱をぎゅっと握りしめ、内股で馬の背をとらえようと力を込めてはみたものの、身体は跳ね上がり、圧倒的な力で後方にもっていかれてしまう。
(もう無理!)
そう思った瞬間、背中に衝撃を感じた。
ふわりと芳寧を包み込む大きな温もり。
「チャッ!」
陸峰のかけ声とともに、駿馬は疾走した。
苦痛に顔をゆがめる三人の無法者たちが、あっという間に後方に消えた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
辺りの景色が、ゆっくりと流れていく。
馬が歩を進めるたび、背中に陸峰の胸が触れた。
手綱を握る指が、かすかに重なっている。
さっきまで、馬で全力疾走していた。
少しも怖くはなかった。
馬で駆けるのが、あれほど爽快な気分だとは知らなかった。
滝の近くを駆け抜けた時は、冷たい飛沫を肌に感じた。
心にあったわだかまりまで流れ落ちたように思えた。
恐怖心から一気に解放され、自由な世界に飛び込んだような気分だ。
思い切り深呼吸した芳寧は、これまでに嗅いだこともない茶葉の香りを感じた。茶畑などあろうはずもない場所なのに。
「どうした?」
背中から、穏やかな声がした。
「茶葉の匂いがする」
「茶葉? こんな山奥にか」
間違いない。すぐ近くだ。
「向こうの方よ」
芳寧が指さすと、陸峰が馬の鼻先を向けた。
野生の山茶が群生していた。
つやのある濃い緑の葉と、厚みのある花弁。冬の終わりから初春にかけて開花する赤い花の小道を抜けると──。
突如、二人の目の前が開けた。
平野を見下ろす高台に、樹齢三千年はあろうかという野生茶樹が立っていた。大人ふたりでも抱えられないほどの巨木だ。ごつごつとした幹からは、枝葉が意志をもつかのごとく空へと伸びている。
圧巻の生命力が、そこにあった。
「茶樹王……」
馬上の芳寧が感嘆の声をあげた。
風が吹くたび、手のひらほどの大きな葉がざわりと鳴る。その音だけで、この木が生きてきた歳月の深さが伝わってきた。
「いい香り」
「……ああ」
芳寧は、驚きと嬉しさの混じった表情でふり返った。
「あなたにも茶葉の香りがわかるの?」
聞かれた陸峰は、視線を宙に泳がせる。
「……さっき、茶店で何か買ったんだろう?」
言われて思い出した。
藍色のきんちゃく袋に入ったままの竹筒と竹皮。
「野花茶と糯米餅を買ったわ。食べる?」
「ああ」
二人は茶樹王の下で馬を下りた。並んで見下ろす平野には、瓦屋根が波のように続く街並みがあった。乃柯里村が五つほど収まりそうな大きさだ。遠目にも(芳寧の目にもそれとわかるほど)美しい三つの塔がそびえている。
「巍山だ」
陸峰が言った。
「もう少しね」
もう少しで巍山に着く。父に会える。また父は泣くだろう。泣いて抱きついてくるに違いない。今度は押しのけず、抱きしめてあげよう。




