第22話 母なき子
翌朝、目を覚ますと陸峰の姿がなかった。
消えた焚火の向こう、戸口が白く明けている。
朝の光が、薄い霧の中で揺れていた。
陸峰と二人きりで過ごした山小屋の夜。
焚火をはさんで座り、膝を抱えて目を閉じた。こんな状況では眠れるはずがないと思っていたのに、いつの間にか深い眠りに落ちていたらしい。
身を起こすと、肩から黒衣がはらりと落ちた。
陸峰の外套だった。
数本の藁がくっついている。
立ち上がって藁を払い、丁寧に畳んだ。
香木のものでも香粉のものでもない、陸峰その人の匂いが、ふわりと立ち上る。
花祭りの夜、彼女の口をふさいだ彼の香り。
井戸端で気を失った彼女を抱きとめた香り。
(この香りに、これまでずっと守られていたのかもしれない)
その主が、音もなく戸口に現れた。
芳寧は慌てた。
畳んだ外套を、彼に向かってぐいと突き出す。
「ありがとう。かけてくれて」
無表情で受け取った陸峰は、その外套をまとうことなく小脇に抱え、戸口の外を顎先でかるく示した。
「出発しよう。日暮れまでに巍山に着きたい」
芳寧はうなずき、傍らの杖ときんちゃく袋を手にした。
戸口の外は、晴天だった。
朝もやで、空気が白い。
山小屋の外には粘土質の地面が広がっており、歩けば足にまとわりつく感触があった。鳥のさえずりが近い。
青々とした茂みの脇に、馬は行儀よく立っていた。
陸峰が近づくと、甘えるように鼻先をつける。
「乗れるか?」
聞かれた芳寧は、戸惑った。
馬は一頭しかいない。
乗れということは、馬で駆けろという意味か。まさか、彼女にくつわを任せて、彼が伴走するわけでもないだろう。相乗りで行くのだろうか。この狭い馬の背に、二人で?
陸峰が、芳寧に近づき──
「悪い」
短く、そう言った。
何のことかと思った瞬間、彼の手が彼女の腰をとらえた。
視界がふっと浮く。
足が地面から離れ、気づけば馬の背を越えていた。陸峰の腕に力がこもった瞬間、彼女は鞍の上にいた。握っていた杖はいつの間にか彼の手にあり、代わりに手綱が握らされている。
「行こう」
陸峰が馬の首をさすり、くつわを持って歩き出した。
生まれて初めて乗った馬の背。
想像よりはるかに高い。
思いのほか右に左に大きく揺れる馬の背から落ちまいと、芳寧は慌てて手綱を握りしめた。
恐る恐るふり返る。
朝もやをまとった山小屋が、ひっそりと建っている。昨夜は恐ろしいだけの場所だったが、今は清々しい朝の光の中で、どこか寂しげに見えた。
うっそうと茂る樹木の中で、ひっそりと時を重ねる朽ちた小屋。
やがて白い霧の向こうに見えなくなった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
自分の足で歩いてもいないのに、芳寧はすっかり疲れてしまった。常に揺れている馬の背中が、容赦なく体力を奪っていく。
二人は、茶馬道につながる(はずの)緩やかな山道を下っていた。
互いに交わす言葉もなく、馬のひづめの音が響くばかり。
話す余裕はなかった。手綱をきつく握りしめているせいで、芳寧の肩も腕もがちがちにこわばっている。落馬しないよう馬の背をしっかり挟んでいる内股は、今にも痙攣を起こしそうだ。臀部が痛い。
「休憩しよう」
その言葉を聞いて、心底ほっとした。
道の左側が大きく開けており、そこに一軒の茶店があった。
茶店といっても壁はなく、吹き抜けの構造だ。柱と屋根だけの簡素な造りで、腰掛け程度の席しかないが、軒先で談笑している旅人たちの声が、にぎやかに聞こえていた。
馬止めに馬をつなぎ、二人は茶店へと向かった。
振動が残っているせいで、どうも身体がふわふわする。
よろけて陸峰に支えられてしまった。
「いらっしゃい。お好きな席にどうぞ」
人のよさそうな面立ちの店主が、声をかけてきた。
北方の訛りがある。
まず香ったのは、酥油茶だ。
花椒を加えた煮茶、甘い香りは野花茶だろう。
懐銭を出そうとする陸峰を、芳寧は制した。
「私におごらせて。ずっと馬に乗せてもらったから」
きんちゃく袋から小さな銭入れを取り出し、振ってみせる。
「じゃ……俺は、馬に水をやってくる」
「好みのお茶はある?」
「特にない。好きに選んでくれていい」
視線も合わせず、陸峰は馬の元へ戻っていく。怒っているわけではないのだろうが、どうも朝から気まずい雰囲気だ。
酥油茶と野花茶を注文すると、店主が「糯米餅が焼き立てだよ。いかがかね」と勧めてきた。もち米をつぶして丸め、鉄板で軽く焼いた菓子だ。砂糖は少なめ、ほんのり甘い。
陸峰が甘党かは知らないが、昨夜の包子以来、二人は何も食べていない。きっと喜んでくれるだろう。二人前、注文した。
腰かけて待っていると、茶も糯米餅もすぐに届いた。
だが、肝心の陸峰が来ない。
しばらく待ってはみたが、それでも現れないので、芳寧は店主に声をかけて席を立った。
馬止めに戻ると、陸峰と少年がいた。
小柄な少年だ。年のころは十歳だろうか。
少年は、馬のたてがみを撫でている。
腕組みをした陸峰が、その様子を眺めている。
言葉を交わす様子もない。
芳寧が近づくと、二つの顔が同時にふり向いた。
陸峰は「来たか」というように軽く頷いたが、少年は眉間に大きなしわを寄せ、ぷいと顔を背けると馬の首を撫で始めた。
「……どうしたの?」
陸峰に並び、小声で尋ねた。
「先を越された」
「この子が、馬に水を?」
「ああ」
馬の足元には、水桶があった。
のどを潤した馬は、満足そうに少年の手から飼葉を食べ始める。
「阿宁! 何をしている!」
そこへ、茶店の店主が駆けてきた。
「申し訳ありません。お客さんの大事な馬に──」
「世話をしてくれているんですよ」
陸峰が答えた。
店主がきょとんとした顔で、少年と馬に視線を移す。
馬は、甘えるように少年の肩に鼻先をすり寄せていた。
その鼻を撫でながら、少年は馬の首に頭をもたせかける。
ほほえましい光景だった。
「まるで……なぐさめ合ってるみたい」
芳寧が、ぽつりと言った。
「馬には人の心がわかる」
陸峰が言った。
「傷を負った心を察すると、賢い馬はああやって慰めようとする」
ふと、山小屋での光景を思い出した。陸峰が近づいた時も、この馬はちょうどこんな風に鼻先をつけていた──。
「この子は、ちょっと訳ありでしてね」
そっと近づいてきた茶店の店主が、小声で言った。
「母親を亡くしてから、ああなんです」
やれやれと首を振り、そのまま茶店へと戻っていく。
それから数分経っても、少年は馬から離れようとしない。
陸峰が、空を見上げた。
「出発しよう。遅くなる」
「でも、お茶は……」
「街道沿いの茶店なら、竹筒に茶を入れてくれるはずだ。道中で飲もう」
「わかった。待ってて」
茶店に戻り、店主に事情を話すと、野花茶と糯米餅を持ち運びしやすいように、竹筒と竹皮で手早く包んでくれた。
馬止めに戻っても、まだ少年と馬は顔を寄せ合っていた。
『どうするの?』と唇だけ動かして、陸峰に問う。
小さくため息をつき、陸峰が少年に近づいた。
その細い肩を、ぽんぽんと叩く。
「ありがとう」
少年はこくりと頷き、馬から離れた。
芳寧が陸峰に抱えられ、再び馬の背に乗ると、少年はぽつりとつぶやいた。
「……また来る?」
どう答えるのだろうと、芳寧は陸峰を見る。
「きみが待っているなら」
表情のなかった少年の幼い顔に、初めて微かな笑みが見えた。




