第21話 点と線
人里離れた山小屋につれ去られた芳寧が、この窮地をどう逃れようと考えを巡らせていた頃──。
陸峰は、山道を上っていた。
夕闇は思いのほか早く訪れ、みるみるうちに山はその色をなくし、山小屋へ続くはずの細道は陸峰の視界から消えた。
それでも馬は駆ける。
白い月明かりの下で、その歩様に変化はない。
道をたどるのは馬に任せ、陸峰は周囲に目を光らせた。
焦りがないと言えば、嘘になる。
だが、陸峰には根拠のない確信があった。
さらわれた芳寧は、無事でいる。
怖ろしい思いをしたはずだ。心は乱れているかもしれない。だが、彼女をさらった男たちは、おそらく危害を加えてはいない。
──彼は、そんな男ではない。
どれくらい走っただろう。
前方に、ほのかな灯りが見えた。
うっそうとした森の中、ある一点だけが妙に明るい。
馬は、迷うことなくその灯りへと向かっていく。
山小屋らしき影が月の下に浮かんだ。輪郭は小さい。
少し離れた場所に、二つのかがり火が揺れている。ちらついていた光源は、どうやらこの炎らしい。
手綱を軽く引き、馬の歩みを緩くする。
山小屋の扉は、大胆にも開け放たれていた。
囲炉裏で暖を取っているのか、外にまで灯りがもれている。
人を誘うようなかがり火。不用心に開いた戸口。
とても誰かが潜んでいるような場所には見えない。
中にいるのは、ねらいの馬夫たちか、はたまた一夜の宿を求めるだけの猟師か、道に迷った旅人か。
月が、雲に隠れた。
答えを知りたければ、正面から訪ねればいい。
陸峰は、馬腹を軽く蹴った。
ひづめの音を隠すことなく近づくと、すぐに反応があった。
「来たぞ!」
戸口付近で、誰かが叫んだ。
申し合わせたように、さっと室内の焚火が消える。
男たちが、一斉に外へ飛び出してきた。
三人いる。
道端のかがり火が、彼らの武器にきらりと反射した。
陸峰は、馬から飛び降りた。
突進しながら、背中の長剣を抜く。
殺す気はなかった。
生け捕って、事情を吐かせる必要がある。
ところが──。
三人の男は向かってくるどころか、反対側に走った。
木陰にいた馬に、それぞれがひらりと飛び乗る。
逃げる気か。
陸峰は足もとの石ころを拾うと、力いっぱい投げた。
鈍い音と、うめき声。
「覚えてやがれ!」
男たちは、あっという間に駆けていった。
ひづめの音が遠くなる──。
逃げられてしまったのは計算外だった。予測できなかった自分が腹立たしいが、今は連中を追うより、芳寧を見つけ出すことが先決だ。
雲間から、隠れていた月が顔を出した。
その刹那、辺り一面が昼のように明るくなる。
ふり返ると、巨大な白い満月が夜空に浮かんでいた。
冷たさの奥に、かすかな温もりのある白い光。
踵を返し、山小屋へと足早に向かった。
戸口から奥は、漆黒の闇である。
果たしてそんな暗闇に、彼女がいるのか──?
いた。
月の光を浴びて、彼女はそこにいた。
陸峰の背中から差す月光が、山小屋の戸口にたたずむ少女の輪郭を静かに浮かび上がらせていた。
白い肌はさらに透き通り、大きく見開かれた瞳はどこまでも白く、漆黒であるはずのその髪は、月光にきらめく白い粉をまとっている。
「目立たないように生きるつもりだったのに、また標的になったみたい」
赤い唇からもれたのは、紛れもなく彼女の声だった。
彼女らしい皮肉めいた言葉に、思わずふっと笑った。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
馬は夜目が効く。
だが、どこに崖があるかもわからぬ夜霧で湿った山道を、相乗りで下りれば危険を伴う。山賊に出くわさないとも限らない。明け方に下山する方がいいと伝えると、彼女は黙ってうなずいた。
まずは、安全の確認を。
山小屋の内部をざっと目視し、異常なしと見た陸峰は、芳寧に杖ときんちゃく袋を渡して、戸口で座って待つよう指示した。
そのまま山小屋の周囲を歩く。
おそらく、あの男衆三人は戻ってこないだろう。
だが、念のため、山小屋の周辺に茶碗の破片をまきびしのように敷いた。馬は小屋の脇の木に繋ぎ、手綱を軽く引いて落ち着かせた。怪しい気配があれば、ひづめの音で察知できるよう山小屋の小窓は開けておく。戸口は壊れた戸棚で塞いだ。
ひととおりの安全を確保した後は、暖を取る。
囲炉裏は水浸しで、使い物にならなかったが、運よく薪は山ほどあった。野営に慣れている陸峰に火おこしは遊びのようなものだ。室内が明るくなり、冷え込んでいた空気に、温かな風が生まれる。
芳寧と二人で乾いた藁を床に敷き、ようやく腰を下ろした。揺れる火が、土壁に赤い光を投げかける。
揺れる炎に両手をかざす芳寧を、陸峰は横目でちらりと見た。
「あの連中に……心当たりは?」
陸峰を見つめる白い瞳。
「馬夫だと思う。これを身に着けていたから」
懐から取り出したのは、馬の口にかませる餌袋だった。
北門の近くで、陸峰を襲った馬夫たち。
やはり仲間だった。
「前に会ったことがある人たちよ」
「会った? どこで?」
「衛門の前……触れ板の近くで」
薪が、はぜた。
「父に会うために百花茶館に向かう途中で、ならず者たちに呼び止められたの。揚二公子が追い払ってくれるまで『死体のほかに何を見た』と、しつこく聞かれたわ。そのうちの一人が、さっきの男たちの中にいた」
陸峰は、唇を噛みしめた。
怪しいと思っていた点と点が、ひとつの線を描き始める。
四日前。
彼は、茶試会が延期になったと言った。
代わりに峠を確認しに行くよう指示をし、その後、芳寧がならず者に囲まれている現場に、彼は偶然居合わせた。
俺は峠道に行かず、代わりに百花茶館に現れた。それなのに、彼は理由を問いただすこともせず、まるであの茶館で待ち合わせていたかのようにふるまった。
そして今日。
百花茶館の謝館主と世間話をした後、彼は時間を気にしながら、隣の甜雑貨店の店主と立ち話を始めた。まるで誰かが通りかかるのを待っていたかのように──。
挙げれば、点はほかにもある。
花祭りの夜もそうだ。彼は本当に先に襲われたのだろうか。
俺は、この山小屋に誘導されただけではないのか。
今ここにいる彼女のように、彼の駒にされただけなのでは──。
「──どうしたの?」
芳寧の声で、陸峰は我に返った。
怪訝そうな表情で、じっと見つめている。
「……何でもない」
「お腹すいてない?」
芳寧は藍色のきんちゃく袋から、不格好につぶれた包子を取り出した。
「食べて。見た目が気にならなければ」
南瓜がはみ出た包子だ。
冷めきって匂いもしないが、急に空腹を覚えた。
芳寧が、促すように目の前に突き出す。
「ありがとう」
受け取ると、嬉しそうに笑った。
「私の方こそ、ありがとう。助けに来てくれて」
屈託のない彼女の笑顔を見るのは、これが初めてだった。
そのまっすぐな視線が、なぜか心に突き刺さる。
陸峰は、気圧されるように包子に視線を落とした。
「明日は、巍山に向かう。早く寝た方がいい」
つい、ぶっきらぼうになった。
口調に戸惑ったのか、言葉に驚いたのか、芳寧は目を丸くした。
「巍山? どうして……」
「克己さんが揚二公子に同行するためだ。乃柯里村に戻れば、きみは一週間、お父さんと離れて暮らすことになる。揚公子は、きみたち親子を巍山で再会させたいそうだ」
「そんな……」
思わぬ展開に、芳寧は口ごもった。
「どうした?」
「父は……巍山行きをお断りしたはずなのに」
──新たに現れた不可解な点。
芳寧と陸峰は、顔を見合わせた。
光の対には、影がある。
動けばつきまとい、引きずろうと離れない影が。




