第20話 山小屋の月
克己が脅迫状を握りしめ、北門へ続く茶馬道を走っていた頃──。
三頭の馬は、山道を駆けていた。
麦粉の袋を頭から被せられたままの芳寧は、馬の振動で激しい頭痛と吐き気に襲われていたが、どうにもならない。いっそ振り落とされてしまえと暴れてはみたものの、馬上の男はまったく動じもしなかった。
まぐさの匂いが染みついた男だ。
馬の扱いには、かなり手馴れている。
「着いたぞ」
やがて、馬のいななきとともに振動が止まった。
ひらりと馬から降りた男が、積み荷を降ろすような乱暴さで、芳寧をひきずり下ろし、再びひょいと肩に担いだ。馬酔いで内臓が激しく波打っている。あまりの辛さに、彼女はあがく余力さえなかった。
疲れただの、腹が減っただのと文句を言いながら、ほかの男たちも馬を下りたようだ。
「馬に水を飲ませとけ」
芳寧を担いだ男が怒鳴るように言った。
「いつでも出られるように、鞍は外すんじゃねぇぞ」
「わかってるって」
「小娘は、やけにおとなしいな。くたばっちまったか」
芳寧の頭の方から、声がした。
癖のある話し方だ。聞き覚えがあった。
(この声……)
はっとした。
あの日。
佐山の茶商の息子が撲殺されたとの触れ板を、衛門の前で見かけた日。死体の感触を思い出して気分が悪くなり、井戸を探していた芳寧に向かって「何か見たんだろう?」と因縁をつけてきたならず者たち。
『見えてるだろ? 杖なしで歩いてやがる』
そう言って腕をつかんできた男──あの男だ!
「楽勝だったな」
上機嫌な声だ。
「小娘をさらうだけで銀子をよこすとは」
「明日になりゃ、残り半分もらえるぞ」
「酒がたらふく飲める。いい雇い主だ」
この男たち……誰かに雇われている?
「うるさいぞ、黙ってろ」
芳寧を担いでいる男が、押し殺した声で言った。
「ぺらぺら喋るな」
「大兄、誰も聞いてないって」
「この小娘がいるだろうが」
男が、芳寧の尻をまた叩いた。
「動いてねぇよ、ほら」
別の男から頭を小突かれたが、芳寧は耐えた。
「失神してやがる」
「それでも余計なことを言うな」
「……わかったよ」
叱られた男は、ぶつくさ言いながらも黙った。
芳寧は、血がにじむほどに唇を噛みしめた。
失神などするものか。なんとしても家に帰るのだ。
五感を研ぎ澄まし、さっきから周囲の様子を探っている彼女だった。どれほど深く山に分け入っているのか。この男たちは何者なのか。――彼らを雇っているのは、いったい誰なのか。
芳寧を肩に担いだまま、首領らしい男が歩き出した。
地面に粘りつく足音。
肌にまとわりつく冷たい空気。
青い草木の匂いが、濃い。
枯れた葉を踏みしめる男たちの布靴が、重い。
木炭の香りが強くなってくる。
朽ちた木材の匂いが混じっている。
きいっと扉が開く音。……山小屋?
男に担がれたまま、中へ運び込まれた。扉が閉まると外気が断ち切られ、湿った板の匂いが一気に濃くなる。長く使われていない山小屋なのか、空気はよどみ、古い煙のにおいが残っていた。
いったい何をされるのか。
恐怖で身体が硬直している芳寧を、男は奥の部屋まで抱えていくと、ゴミでも捨てるように放った。放たれた床の上には藁が敷いてあったものの、全身をしたたかに打って、唸り声が出そうになった。
気を失ったふりをしているのは、男たちが芳寧にはうかつに手を出すまいと踏んでいるからだ。
男たちはこう言っていた。
『いつでも出られるように、鞍は外すんじゃねぇぞ』
『小娘をさらうだけで銀子をよこすとは』
『明日になりゃ、残り半分もらえるぞ』
男たちは、この場所をすぐにも離れる計画なのかもしれない。
だが、誘拐した目的は──?
身代金の要求?
ありえない。
老婆を帰り道で待たせておくくらいだ。芳寧の素性も、家庭事情も茶坊のことも調べているに違いない。危険を冒したところで、たいした稼ぎにはならないとわかっているはずだ。
口封じ?
佐山の茶商の息子を殺した犯人が、彼らを雇ったのか?
それも違う。
殺すつもりなら、山小屋に監禁する前に手を下せばいい。
通り魔を装うことだってできたはずだ。
人身売買?
だが、わざわざ老婆を雇い、ひと目につく村の真ん中を北門まで歩かせた理由がわからない。芳寧は目が弱い。北門まで移動させずとも、さほどの苦労もなく目的を果たせたはずだ。
相手の算段がつかめず、不安が募る。
土と藁の冷たさが、衣の薄い背中にじかに伝わった。
男たちは、隣の部屋で下品な音をたてながら食事を始めた。
焚火をしているらしい。
パチパチと薪のはぜる音に交じって、干し肉を炙る匂いが流れてきた。まだ馬酔いが残る胃袋が、そのニオイを異臭と感じて思わずえずきそうになる。
芳寧は、できるだけ音をたてないように頭から被せられた麻袋を外した。粉のせいで、くしゃみが出そうになるのを必死でこらえる。
隣の部屋から漏れる明かりで、室内がぼんやりと見えた。
壁際には、崩れかけた棚が一つ。
茶碗や煤けた鉄鍋が、乱雑に並んでいる。
使われている形跡はなさそうだ。
見上げると、天井の梁から乾いた草束がいくつか吊るしてあった。
風がないのに、わずかに揺れている。
どこかで、ぽたりぽたりと水の滴る音がしていた。
すぐ脇に、薪が山と積まれていた。
黒く焦げた炉の匂いが、まだ残っている。
埃をかぶった床。寒々とした空気。
人の住まいではない。
木こりや猟師が夜をやり過ごす避難所のような場所なのだろう。
さて、どう逃げる?
出口はひとつしかなく、その先では男たちが食事をしている。
杖は落としてしまったし、武器もない。
懐に入っているのはサンザシ飴の串のように鋭利な物ではなく、家から持ってきた飾り房と水辺で拾った白檀の粉、そして、つい今しがた、藁敷きの床に放り出された時に引きちぎった――男の腰紐にぶら下がっていた――小さな袋だけだ。
──粉?
男たちは、上機嫌で笑っている。
麻袋に残っていた麦の粉を、そっとかき集めて足元に置いた。
崩れた棚に手を伸ばし、手頃な茶碗を選んで握りしめた。
襲われたら、粉を目に投げつけ、茶碗を割ってでも逃げる隙を作るしかない。
「来たぞ!」
外を見張っていたのか、男の一人が大声で叫んだ。
──来た? 誰が?
焚火に水をかけたようだ。
ジュッという音とともに、辺りは闇に包まれた。
男たちは、一斉に外へ飛び出していく。
もう自分の手のひらさえ見えない。
出口がどこかも、わからない。
背中にあるはずの壁を探し、座ったまま後ずさった。
男らが怒鳴っている。
なんと言っているかは、聞き取れない。
馬がいなないた。
「覚えてやがれ!」
そんな悪態が最後に聞こえ、ひづめの音が響いた──。
山の静寂。
怖ろしいほどに、何も聞こえない。
男たちは、襲撃者とともに去ったのか?
芳寧は、そろりそろりと立ち上がった。
耳を澄ます。
息を殺す。
左手で背中の壁をたどり、右手には茶碗を握りしめたまま、出口があると思しき位置をめざす。
その時、床に白い光の筋が伸びた。
月の光だ。
歩むべき方向を示すかのように、闇に光の道がある。
美しい白い道。
芳寧は壁から離れ、その光をめざして歩いた。
開け放たれたままの山小屋の扉。
底の見えない闇が、どこまでも広がっていた。
怖ろしいほどに巨大な白い満月が、夜空に浮かんでいる。
冷たさの奥に、かすかな温もりを含んだ白い光を、地上へと放っている。生まれて初めて見る山小屋の月──。
その神々しく眩い満月の前に、ふっと細い黒衣の影が重なった。
山小屋の入り口に立ち、微動だにせず声もなく、月を見上げている芳寧を穏やかに見下ろす長身の影──。
誰かなど、問うまでもない。
「目立たないように生きるつもりだったのに、また標的になったみたい」
山小屋の月光を背に受けるその人は、ふっと笑ったようだった。




