第2話 茶発《チャファ》馬店で
「芳寧がいてくれるから、茶師なんか雇わないよ」
ふうふう言いながら茶の準備をしている芳寧の横で、厳掌事が包子をほおばりながら言った。
次の宿場町をめざす茶隊を見送ると、小川のせせらぎが聞こえるほど静かになる。早朝からの慌ただしさが落ち着いたところで、茶発馬店の従業員たちはひと息ついていた。
羊肉と野菜を刻んで具にした今日の包子は、厨房から客の接待まで担当する店小娘、阿依のお手製だ。
「僕にも、ひとつ!」
馬房から戻ったばかりの安茶が、卓子の上の大皿にぐいと手を伸ばした。住み込みで働いている彼は、孤児だ。通りで物乞いをしていた八歳の彼を哀れに思った厳掌事が、老主の常掌柜に頼みこみ、店小二(給仕)として雇ったのだという。
老主の常掌柜は六十七歳。ここ最近は体調を崩しているようで、めったに馬店には現れない。
今日の茶は、烤茶。
野菜不足を補える健康茶で、客入りが多い日はよく煎れるのだが、直火で普洱茶を焙煎する作業というのが、かなりの力仕事である。焙煎に使う土瓶は、結構な重さがあるうえ、茶葉を入れたその土瓶を、火の上で小刻みに揺らし続けなければならないのだ。
「茶葉が黄色くなるまで、ねばり強く振り続けること」
茶師である父の教えだ。油断していると茶葉が焦げてしまう。
香りが立つまでしっかり焙煎したら、少量のお湯を土瓶に注ぐ。
「ジュウ」という音とともに、泡が立つ。
熱湯をさらに継ぎ足せば、一煎目の烤茶のできあがりだ。
「芳寧の茶は評判がいいよ。茶師も顔負けだってね」
卓子に並べられた茶杯に、次々に手が伸びる。
ごくりと喉をうるおして、厳掌事が続けた。
「この前も、茶師に雇ってくれと言ってきた新参者がいたけど、よそから来た連中には薄情な者もいるからね。ふらりと来て、ふいと消える。仕事に慣れると給金をねだる。あてになったもんじゃない」
嫌な記憶を思い出したのか、ふんと鼻を鳴らした。
「茶馬道のおかげで、商売は繁盛するけれど、怪しい輩も多くなったね。茶商たちもずいぶん生意気になって、石畳をふんぞり返って歩いてる。こっちの商売が茶で成り立ってることを承知してるのさ」
愚痴を言い出すと止まらない性質だ。阿依が、さらりと話を変えた。
「芳寧のお茶は、いつも美味しいわ。昨日のバター茶も濃厚で、すごく身体が温まった」
バター茶は、はるか北方の吐蕃王国が発祥だ。
茶葉を煮だし、ヤギの乳と塩を加えて攪拌することで、高地に暮らす人々にはありがたい栄養価の高い飲み物になる。馬店の泊まり客だった吐蕃王国の行商人から習ったばかりの煎れ方だ。
学びたての茶であろうと、ちょっと失敗したかなと思った時でも、阿依はいつも褒めてくれる。
「ありがとう、阿依姐さん。また作るね」
「わあ、楽しみ」
「普洱茶には、この包子も合うけど……」
安茶が、大きな前歯を見せてにやりと笑う。
「葱油餅が食いたいな」
葱油餅は、安茶の好物だ。
「はいはい。豆お婆さんに頼んでおくわ」
豆お婆さんとは、週に三回来てくれる七十歳を超えた経験豊富な厨娘だ。芳寧たちを「あたしの孫たち」と呼んで可愛がってくれる。
その「孫たち」に今日、新しい仲間が加わった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「よろしくお願いします」
ちょこんと頭を下げる十歳の少女。
まん丸の瞳が愛らしい桐儿は、阿依の紹介で雑役として雇われた。大家族の娘だそうで、幼いながらすでに重要な働き手らしい。
これまで配達から洗濯までこなしてきたとかで、かなりの戦力になると太鼓判を押されての採用だ。
可愛いね、よろしくね、頑張ってねと声をかけてくる先輩たちに、恥ずかしそうな笑顔を見せていた桐儿は、芳寧を見て一瞬、かたい表情になった。初対面ではよくある反応だ。
「生まれつき目が白いの。はっきり見えない時もあるから、その時は助けてね」
芳寧が明るく言うと、桐儿はこくりと頷いた。
「目の代わりに、芳寧は耳で見るのよ」
阿依が自慢げに言う。
「鼻も鋭いよね。おならもできない」
安茶が、ふざける。
同じ背丈の彼の頭を、芳寧がこつんと小突いた。
茶発馬店の午後。
今日の宿泊客に出す茶は、烘青緑茶にしよう。
烘青緑茶は釜でなく、竹籠に入れて炭火の上でじっくり焙り、静かで柔らかな火を入れる。茶師の父から「炒ってから籠に入れ、しっかり炙って乾燥させる」よう教わった。準備に手間取るが、甘い焙煎香がお気に入りの茶だ。
「克己さんは、新しく茶器を買うんだって?」
豆お婆さんと献立てを確認していた厳掌事が、土間にいる芳寧に声をかけた。克己とは、父の名だ。
炭の準備をしながら、芳寧は答える。
「はい。あさっての茶芸で使う長嘴壺だそうです」
長嘴壺というのは、長い注ぎ口の急須のこと。父の得意技は、高い位置から湯を注ぐ“高沖”だ。白内障の芳寧には、誰もが目を見張るというその妙技がぼんやりとしか映らないけれど。
「克己さんの茶坊も、繁盛してるそうじゃないか。芳寧を返してくれと言われそうで、なんだか複雑な気分だよ」
炭火をおこし終えた芳寧が、せっせと茶を煎れる準備をしていると、客房の方から入ってきた阿依が桐儿をつれてきた。
「この子に籠をもたせようか。小さいけど力もあるし、交替でまわす方がいい」
視力のない芳寧の火入れは、炎の揺らぎや香りが頼りだ。
炭火の火力は強くなったり弱くなったり予測ができない。烘青緑茶は、一人が炭火を調整し、もう一人が籠をまわす方が格段に効率がいい。
「客が入るまでは、私一人で大丈夫だから」
「そうしな。桐儿にも勉強になる」
芳寧が答えるより先に、厳掌事が言った。
「芳寧は、耳と手のひらで香りがわかる。努力の賜物とはこのことだよ。桐儿、何事も勉強だ。呼ばれるまでは火入れの加勢をしな」
「はい!」
桐儿の声に、好奇心が見えた。
「ところで、安茶はどうした? まだ戻らないのかい? 豆お婆さんの葱油餅が冷めちまうよ」
厳掌事がそう言うのとほぼ同時に、芳寧の耳に、往来を駆けてくる安茶の足音が届いた。右足を少しひきずる癖のある足音だ。
「今、橋を渡ってるみたい。五つ数えたら帰ってきますよ」
「おや、そうかい?」
桐儿が五つ数えた直後、
「ただいま、戻りました!」
安茶が飛び込んできた。
「遅かったじゃないか。どこで油を売ってたんだい」
「籠町通りで、明日の花祭りの準備をしてたんですよ。提灯をつけてくれと、屋台のおかみさん達に頼まれて。…うわ、葱油餅だ!」
相変わらず騒々しい。
「おかみさん、花祭りに行ってもいいですか? 雑用なら今日のうちに片付けます。何でも言ってください」
子どもを亡くして離縁した過去のある厳掌事にとって、八歳から世話をしている安茶はわが子も同然。愚痴は言っても否定はしない。
「はいはい。桐儿も一緒に、子ども三人で眺めておいで。一時間したら、阿依を迎えに行かせるよ。克己さんには、馬店に迎えにきてもらおう。私の話し相手にもなってもらえるしね」
やった!と、三人の声が弾んだ。




