第19話 北門へ向かえ
道端で出会った老婆と一緒に、芳寧が甜雑貨店のすぐ近くを歩いていた、ちょうどその頃──。
『名もない茶坊』に、一人の少年が駆け込んできた。
物乞いのようないでたちである。
薄汚れた顔のその少年は、迷うことなく戸口に近い丸卓に近づき、一枚の紙片を叩きつけるように置くと、再び通りへ走っていった。
火の場──茶を淹れる作業場──には、克己がいた。物音に気付いて顔を上げた時には、駆けていく小さな背中しか見えなかった。
「なんだ?」
茶の選別をしていた彼は、ゆっくりと腰を伸ばした。
丸卓に紙片がある。
「周さんが、ツケを払いに来たか?」
腰に下げた手巾で手をぬぐいながら、克己は茶席へと入った。丸卓の上の紙片に手を伸ばす。文字を目で追っていた彼の眉間に、驚愕の色が浮かんだ。
「克己さん、一杯いいかい?」
生成りに『茶』とだけ染め抜かれた暖簾を押して、隣で菜店を営んでいる張老板が顔を出した。
「喉が痛いんだ。この前の菊花茶を頼むよ」
その声に弾かれたかのように、克己が動いた。
紙片を握りしめたまま、矢のような素早さで張老板の脇をすり抜け、暖簾が揺れたと思った瞬間には、もうその姿は通りへと消えていた。
白髪の頭には似合わない軽快なその足さばき。
あんぐりと口を開けたまま、克己を見送った張老板は、慌てて厨房へと駆け込んだ。竈には火にかかったままの茶釜がある。取っ手に触れて熱さに叫び、前掛けで茶釜をつかんで火から下ろすと、薪を隅によけた。
「おいおい、火事はごめんだぞ」
ふうふう指先を拭きながら、戸口を見やる。
「克己さん、どうしちまったんだ? 穏やかな人なのに、あの慌てぶり。まさか、芳寧ちゃんに何かあったんじゃないだろうな」
張老板の推測は、珍しく当たっていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
白髪ではあるが、克己はまだ三十路の偉丈夫である。
好奇の視線を浴びながらも、あっという間に百花茶館の前に来た。
「克己さん、どうしました?」
大きな声がかかった。ふり向くと、道の端に立つ揚易棠の姿が目に入った。傍らには陸峰と従者もいる。
そのまま走り去ろうとして、克己は思い直し、揚易棠の元へ駆け寄った。
「芳寧が、さらわれました」
「なんだって?」
「これが、茶坊に」
克己が、揚易棠に紙片を差し出す。
そこには乱れた筆跡で、こう記されていた。
『娘を預かった。衛門には言うな。銀子五両をもって北門に来い』
「これは……」
「銀子五両なんて、すぐに出せるわけがない」
額に汗をにじませた克己が、白髪の頭を振りながら言った。
「北門はすぐそこにある。まずは行ってみようかと」
揚易棠が片手をあげ、克己を制した。
「父親が行くのは賢明ではない。顔が割れているはずだ。ここは落ち着いて、様子を探るほうがよいだろう」
「様子を探る?」
「北門に犯人がいるはずだ。もしくは、仲間が」
「ですが――」
「陸峰に行かせよう。犯人も油断するはず」
揚易棠は、陸峰をふり返った。
「私も同行したいところだが、背中に傷を負っている。鏢師であるお前が適任だ。克己さんのために娘さんの行方を探ってくれ」
陸峰は無表情でうなずいた。
「私は克己さんと対策を考える。百花茶館の謝館主も力になってくれるだろう。さあ、いったん中へ」
どうにも落ちつかない克己をなだめるように、揚易棠は背中を押し、百花茶館の入り口を指し示した。従者が克己を中へと導き入れる。
「陸峰」
揚易棠が、陸峰に耳打ちした。
「なんとしても芳寧を救出しろ。北門周辺に、何らかの手がかりがあるはずだ。運よく彼女を探し出せたら、巍山へ向かってくれ」
「巍山へ?」
揚易棠は、茶館をふり返った。
「茶師として、彼は巍山へ同行してくれることになっている。乃柯里村につれ戻したところで、父親は村にいない。娘さんの無事を確認するまで、彼も気が気ではないだろう。巍山で再会させてやりたい」
「……わかりました」
揚易棠は、信頼を込めるように陸峰の肩をつかむと(行ってこい)と目配せした。一礼し、陸峰は北門へと駆ける。
その背中を、不安そうな面持ちの揚易棠が見つめていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
乃柯里村の北門は、すぐそこにあった。
簡素な門の前で、年季の入った門番が村人たちと煙袋をくゆらせている。どうやら酒も入っているようだ。豪快な笑い声がこだましていた。
少し離れた位置で、陸峰は腕組みをし、村の誰かを待っているふりをしながら門番と村人たちの様子をうかがった。
門番のほか、談笑している男は四人。
どれも似たような身なりをし、荒くれ者の風采はないが、明らかにそのうちの一人が、きょろきょろと落ちつかない。商店が立ち並ぶ通りを見やったかと思えば、左にある倉庫が密集する区画に視線を移す。
あの男は何かを知っている。
陸峰は腕組みを解き、男が幾度となく視線を向ける通りへと入った。人通りはない。しばらく行くと足元に何かが落ちていた。
――芳寧の杖だ。
彼女が愛用している藍色のきんちゃく袋も、そのすぐ脇に落ちていた。拾い上げると、袋の口から微かに南瓜の香りがした。
「……彼女はどこだ?」
陸峰は、腹の底に響く声で問うた。
背後から足音を忍ばせて近づいてきていた男が二人、驚いて立ち止まる。
ゆっくりと振り返った陸峰は、杖ときんちゃく袋を左手に持ち直すと、二つの顔を交互に睨みながら背中の長剣に手をかけた。
「さっさと言え。俺の我慢は、長くもたない」
あまりの威圧感に、二人の男は思わず後ずさる。
それでも顔を見合わせ、あごを突き出して交互に怒鳴った。
「金はどこだ?!」
「持ってきたんだろう?!」
ひゅっと空気が唸った。
最初に怒鳴った男の鼻先に、陸峰の剣先が触れた。
「ひぃぃぃっ!」
男は、腰を抜かして座り込む。
陸峰の剣が、また鳴いた。
今度は、呆然と立っている男の喉元に、鋭い剣先が突きつけられる。
「まだ渋るか」
「や……山小屋ですっ!」
「山小屋?」
「はいっ! その先の山道の先に!」
男はしどろもどろになりながら、陸峰の後方を指さした。
暗い緑の木々が、一本の細道を隠すように密集している。
「馬を貸せ」
「はい?」
「お前らも仲間なんだろう? 馬をよこせ」
「は、はいっ!」
先刻から陸峰は馬夫の匂いを感じていた。
すえたような馬の汗の匂い、飼葉の匂い。
ラバの世話をしている彼には、嫌でも覚えるニオイだ。
加えて、男らの腰には馬の口にかませる餌袋がある。
一般の村人が持つものではない。
――やはり、馬夫だったか。
馬夫なら、荷馬隊の仕事で村には自由に出入りできる。
人から雇われて動くにも、都合のいい立場だ。
陸峰の鮮やかな剣裁きを目の当たりにして、馬夫の二人はすっかり戦意を消失したらしい。反抗することなく素直に案内した。
北門の近くに、馬夫の詰め所があった。
馬屋と水場、そして飼葉を収納しておく小屋が見える。
二人の男について馬屋に入ると、三頭の駿馬がいた。
瞳に生気のある腰の逞しい馬をすぐさま選び、軽やかにまたがると、陸峰は馬夫の男たちを見下ろして、言った。
「依頼主に伝えろ。余計な手は使うなと」
唖然としている馬夫を一瞥し、力強く馬腹を脚で蹴る。
そして、ほんの一刻ほど前、芳寧を乗せた馬が走り去った山道へと馬の鼻先を向けた。
「チャッ!」
陸峰の声に、馬は生き返ったように反応した。
あっという間に疾風のように、細い影が闇へと消えた。




