第18話 魔の手
いつもと変わらぬ午後だった。馬店を訪れた客にはおもてなしの茶を淹れ、馬店の従業員たちには憩いの茶を淹れる。揚易棠にも陸峰にも会わないまま、何事もなく夕刻になった。
「芳寧、お疲れさん。上がっていいよ」
厳掌事に声をかけてもらったので、芳寧は土間を出た。
阿依と桐儿に手を振り、旅人の行李を山ほど抱えていた安茶には「さすが、力もち」と胸の前で小さく拳を握ってみせ、それから「またね」と手を振った。
山に囲まれた乃柯里村の夕刻は、すっかり春めいている。
数日前までは冷たさを感じた風も、今は肌に温かい。
芳寧は、片手に杖を、背中にきんちゃく袋を抱えて歩いていた。今日は、豆お婆さんが「お父ちゃんとお食べ」と南瓜とひき肉の包子を持たせてくれた。
背中が、ほんわか温かい。
乃柯里村を突っ切る茶馬道。
食事処を探している旅人や、最後の売り上げに貢献しようと声を張り上げる売り子たち、店先でのんびり茶を飲んでいる客もいれば、荷車をがたごと揺らしながら家路を急ぐ野菜売りもいて、石畳はごった返していた。
軒を並べていた店の前を過ぎると、やがて両脇には民家が多くなる。
夕餉の香りで満ちた石畳を歩くたび、何ともいえない寂寥感が胸に迫るのは、なぜだろう。
母がいないせいだろうか。
視界が効かなくなるせいだろうか。
それとも私だけでなく、誰しもそう感じるものなのだろうか。
ふと「お嬢ちゃん」としわがれた声が聞こえた。
道端にしゃがみ込んでいる一人の老婆がいる。
道行く人は、まるで気が付かない様子だ。
気付かないふりをしているのかもしれない。
周囲を見渡しても、ほかに「お嬢ちゃん」らしい娘はいない。
戸惑いつつも、芳寧は近づいた。
老婆の衣服は、かなり貧相だった。
もとは藍色だったと思しき上衣は、土埃を吸ったような薄茶に褪せている。袖口は何度も繕ったのだろう、糸の色が少しずつ違っていた。くたびれた濃紺の下衣の紐帯には、すり切れた小袋が結わえてある。ヨモギの匂いがした。草鞋から見えているつま先に血がにじんでいる。転んだのだろうか。
「大丈夫ですか?」
声をかけると、老婆は芳寧をじっと見つめた。そして、よろよろと立ち上がろうとする。慌てて細い身体を支えた。汗のにおいが鼻をついた。
「お婆ちゃん、どうしました?」
いやいやと言うように、老婆は首を振った。
「孫とはぐれてしまって……。待ち合わせの場所に行かないと」
「どこですか?」
「甜雑貨店」
老婆は、即座に応えた。
甜雑貨店は、百花茶館のすぐ隣だ。
乃柯里村の北部に位置しており、芳寧の家とは方向が違う。ここから歩いていけば、老婆の足では片道三十分はかかるだろう。
空には、まだ陽がある。
運よく、今日は杖もある。
「甜雑貨店ならわかります。一緒に行きましょうか?」
老婆はうんうんと頷いて、芳寧の袖に子どものようにしがみついた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
老婆の歩みに合わせて、芳寧もゆっくり歩く。
思っていたより時間がかかってしまった。
辺りはすっかり薄闇に落ちている。
二人は、黙って歩いていた。
芳寧が話しかけても、老婆は答えない。
体調はどうですか。
お孫さんは何歳ですか。
今日は、小春日和でしたね。
いくら言葉をかけても、老婆はもごもごと喉を鳴らすばかり。
(きっと疲れているのだろう)
芳寧も、それ以上は声をかけなかった。
百花茶館の大きな看板が見えてきた。
甜雑貨店の正面には、まだ客の姿もある。
「お婆ちゃん、着きましたよ」
声をかけたが、老婆は芳寧の袖を離そうとしない。
そのまま、店の前を通り過ぎていこうとする。
「お婆ちゃん?」
手を振りほどくわけにもいかず、芳寧も甜雑貨店の前を通り過ぎた。きっと、待ち合わせ場所はこの先なのだろう。
乃柯里村の北門が見えてきた。
北門といえど「ここから村です」と旅人に伝える程度の簡素な造りで、石畳の上に『乃柯里』とぼやけた墨で記された板が掲げてあるだけだ。
そのいたって素朴な門の前では、老齢の門番が腰を下ろし、村人たちと並んで煙袋をくゆらせていた。酒も入っているのか、豪快に談笑している。刻み煙草の乾いた香りが、風に乗ってふわりと漂っていた。
老婆が、左へと折れた。袖を引かれる力が思いのほか強く、芳寧もつられて歩く。周囲には商店も家もなく、倉庫が並んでいるだけだ。
「お婆ちゃん。お孫さんはどこですか?」
甜雑貨店は、とうに過ぎている。
不安になってきた。
この老婆は、本当に孫と待ち合わせていたのだろうか。
その時。
背後で足音がし、ふり向く間もなく、頭の上から何かを被せられた。
麦の香りが鼻につく。
薄暮れだった視界が闇と変わる。
芳寧の手から、杖ときんちゃく袋がどさりと地面に落ちた。
「っ……!」
芳寧は暴れた。
男が被せた袋の中には麦の粉が残っていた。鼻と口から思い切り吸い込んでしまい、激しく咳き込む。目からは涙がこぼれた。
「おとなしくしろ」
みぞおちに拳が入り、息が止まる。
「一丁あがり」
別の男の声がした。
腹の奥がねじれる痛みに声も出ない。
ふっと身体が軽くなり、ごつごつした肩に抱えあげられた。
「ごめんよ……。ごめんよ」
老婆のしわがれ声が、足元から聞こえてくる。
「婆さん、これでメシでも食いな。誰にも言うなよ。お前も共犯者だ」
何かが地面に落ちる音がした。おそらく銅銭だろう。
老婆の草履が、ひきずられるような音を立てて遠ざかっていく。
芳寧は、見も知らぬ男の肩の上でもがいた。
重みのある手で尻をからかうように乱暴に叩かれ、頭に血が上る。
男の肩からは、まぐさの匂いが漂っていた。
「静かにしな」
「妓楼に売り飛ばすぞ」
「それも金になる」
笑い声と足音からして、男は三人いるようだ。
(お婆ちゃんにお金まで渡して、なぜ私をねらったのか)
花祭りの夜に襲われた時とは違う冷静さが、どこかにあった。
何とかして逃げなければ。
──何をされようと、逃げなければ。
咳き込んでいる芳寧を、男は馬の背に乗せた。
「行くぞ」
「おう」
ひづめは石畳ではなく、土を蹴っていた。
三頭の馬が、茶馬道ではない踏み固められた土の道を駆けていく。
やがて、闇に流れる三つの影は山道へと消えた。




