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白い霧の向こう ― 茶馬道の小さな殺意 ―  作者: 鬼丸 千


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第16話 目立たぬように

 まだ少し肌寒さの残る風が、湯気のたつ茶発チャファ馬店の土間に流れ込んでくる。馬店の脇を流れる小川の音に、鳥のさえずりが重なっていた。

 

 正午に出す茶の準備をしながら、芳寧ファンニンは落ち着かない。


 今頃、ヤン公子の部屋で、父の克己クジがせっかくの申し出を断っているはずだ。虎街の茶商であるヤン家とつながれば、茶師として将来も有望だということは百も承知であるはずなのに。


 乗り気だった父が、なぜ急に断ると言い出したのか。


 克己クジは理由を言わなかったし、芳寧ファンニンもあえて聞こうとはしなかった。聞くべきではないような気もした。


「今日のお茶は、何?」


 安茶アンチャの声で我に返った。

 かまどにくべる薪を割り終え、両手に抱えている。


杜仲茶とちゅうちゃよ」


 昨夜、茶坊に来てくれていたドゥアンおじさんが帰り際に飲みたいと言っていたのを思い出したのだ。……というより、今日はどの茶を淹れようと考える余裕がないという方が正確かもしれない。


 克己クジが出てくる気配はないかと、耳をそばだてていた芳寧ファンニンだったが、茶に意識を集中することにした。


 手のひらで乾いた茶葉の重さを確かめる。

 井戸水で満たした茶釜に乾いた茶葉を落とす。

 煮出すと甘みが増すが、焦って火にかけては味を損ねてしまう。


 ゆっくりゆっくり弱火で十五分。

 甘い香りが土間に広がるにつれ、心のざわつきも少し和らいだ(気がした)。けれど、胸の奥の重さは消えない。


 杜仲茶は美しい。

 琥珀色の茶が細い流れになって茶杯に落ちるのを見ていると、不安も薄れていく(気がした)。だが、すぐにまた濃さを増す。


 窓から差す日差しが、埃にきらめいて星の河のようだ。

 のんびり茶をすすれば、すべては気の持ちようで何とかなるように思えてくる(気がした)。そう、ただの気のせい。


 ──ええい。

 甘い香りに包まれようと、胸のつかえは取れない。

 土間で悶々としているくらいなら、客房に行けばいいではないか。


 芳寧ファンニンが勢いよく立ち上がったので、すぐ脇で薪をくべていた安茶アンチャが驚いて顔を上げた。


ヤン公子のお邪魔をしてるかも。父さんを呼んでくる」


 意を決して、回廊へと向かった。


 廊下を折れたところで、克己クジ揚易棠ヤン・イタンと並んで客室から出てくるのが見えた。二人の表情は、百花バイファ茶館での時のように、実ににこやかだ。どんよりした空気を覚悟していた芳寧ファンニンは、ほっとした。


「おう、芳寧ファンニン


 克己クジが、笑顔で片手を上げる。

 揚易棠ヤン・イタンも、笑顔で芳寧ファンニンを迎えた。

 回廊の端によけ、芳寧ファンニンは軽く会釈する。


「それでは、失礼します。今回は本当に申し訳ありません」


「いや、申し訳ないのはこちらの方だ。慌ただしい依頼のせいで、逆に気を使わせてしまった。今回は残念だが、機会があればぜひ」


「よろしくお願いいたします」


 揚易棠ヤン・イタンに深々と頭を下げた克己クジは、そのまま後ずさり、もう一度頭を下げた。揚易棠ヤン・イタンも会釈を返し、部屋へと戻っていく ──。


 芳寧ファンニンは、克己クジに駆け寄った。


「父さん、本当にお断りしたの?」

「ああ」

「せっかくの申し出だったのに」

「父さんは心配性だ。大舞台では、いい仕事もできない。ヤン二公子は寛大な方だよ。親心を理解してくださった」

「でも──」

「ほかにも候補はいるそうだ。心配ない。私はイエン掌事に挨拶して、茶坊に戻るよ。お前は遅くなる前に帰りなさい」


 温かな手のひらで、ぽんぽんと芳寧ファンニンの頭を叩くと、克己クジは客堂へと歩いていってしまった。


 揚易棠ヤン・イタンの客室をふり返る。

 扉は開いたままだが、中の様子はわからない。


 声をかけるべきだろうか。

 どんな風に?


「すみませんでした。任せてくださいと言っておきながら、せっかくのお話をお断りすることになってしまって。父は、ああ見えて頑固な性格で……いえ、見た目からして頑固そうですが、見た目と違って心配性で、私の前でも平気で泣くんです。子どもなんだか大人なんだか──」


「ひとり言が楽しいか」

 背後から穏やかな声がした。


 陸峰ルフォンだ。

 ふり返るまでもない。

 この人は、どうしてこうも見られたくない場面で現れるんだろう。


「公子に話があるなら、取り次いでやる」

「結構です」


 呼ばれもしないのに、行けるわけがない。

 あの笑顔の裏に、失望があったかもしれないのに。


「最近は──」


 その場を離れようとした芳寧ファンニンに、声が追ってきた。


「被らなくなったんだな」

「え?」

「あの雄鶏みたいな帽子だよ」

「……ああ、鶏冠帽ジーグワンマオのこと?」


 雄鶏みたいな帽子──。芳寧ファンニンは、思わず吹き出してしまった。言われてみれば、雄鶏のように見えなくもない。


 イ族の少女が三歳になると身に着ける鶏冠帽ジーグワンマオ。銀の玉や刺繍で豪華に飾りつけ、結婚するまで着用するのがならわしである。光や幸福、吉祥を象徴する独特な民族衣装で、芳寧ファンニンも物心ついた頃から被っていた。


 だが、あの事件以来、彼女の漆黒の髪は背中の後ろで編み込まれているだけだ。


「標的になりたくないから」

 芳寧ファンニンは、さらりと答えた。


 花祭りで芳寧ファンニンを襲った酔っ払いは、彼女の白い瞳と鶏冠帽ジーグワンマオを見て標的にした。


 百花バイファ茶館に向かう途中で出くわしたならず者たちは、懸賞金をねらったのかもしれないが、今となって思えば犯人だったのかもしれない。


 事件当夜、イ族の鶏冠帽ジーグワンマオを被った娘が抱きかかえられて──腹立たしくも陸峰ルフォンに、だが──現場から立ち去ったうわさを聞きつけ、探りを入れていたのかもしれない。


「それがいい」

 陸峰ルフォンが、あまり興味もなさそうな口調で言う。


「よく知りもしない人間には、近づかないことだ」


「ご心配どうも。もう二度と一人で夜道を歩く気はないわ。これからは目立たないように生きるつもりよ。ただでさえ人目を引く顔だから」

 

 陸峰ルフォンと話していると、どうしても嫌な自分になってしまう。

 なぜだろう。


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