第14話 鏢師と公子
人通りが少なくなりつつある薄闇の石畳を、芳寧と陸峰は並んで歩いていた。
並んで歩きたくはなかったが、今夜は杖もなく、花祭りの夜のように提灯が足元を照らしてくれるわけでもない。安茶のように先導してもらおうにも、陸峰は芳寧の家──父の茶坊──を知らない。
無言で歩くのも気まずくて、芳寧は気になっていた質問をした。
「揚公子とは、親しいの?」
「なぜ、そう思う?」
「話をしながら腕組みしてたり、ふっと気安く笑ったり、公子に対する態度が図々しく見えるから」
そう言うと、陸峰は怒るどころか軽やかに笑った。
──笑い声を初めて聞いた。
「幼なじみだ」
「公子とあなたが?」
「子どもの頃に縁あって知り合った。数年ほどして別れたが、今回の護衛の依頼で、再会した」
なるほど……と頷いたとき、腕組みをしながら歩いていた陸峰が、芳寧の方に大きくよろけた。彼の腕が肩にぶつかり、芳寧は慌てて石畳の縁へと身を引いた。
「悪い」
そのまま陸峰は、すたすたと前を歩いていく。その後ろをついていくと、大きな荷車が停まっているのに気がついた。あのまま歩いていれば、芳寧はまともに接触していただろう。
(意図的? それとも偶然?)
目の前の黒い背中が、心もとない薄闇の中でひときわ大きく見えた気がした。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
翌日、芳寧が茶発馬店の門楼をくぐると、前庭の掃除をしていた安茶が竹ぼうきを抱えて走ってきた。花祭りの夜以来、何かと騒がしいことばかりで、ゆっくり話す機会がなかった二人だ。
芳寧を置き去りにしたことを何度も何度も謝るので「もう一度、『僕のせいだ』と言ったら三文銭ちょうだい」と言ったら、おとなしくなった。
「そうだ、揚公子が呼んでたよ」
「揚公子が?」
「昨日のお茶がおいしかったから、また飲みたいんだって」
素直に嬉しい。
芳寧はまっすぐ厨房に向かった。
厨房では、今日はお休みらしい厨娘の豆お婆さんに代わって、阿依と桐儿が軽食の下ごしらえをしていた。酒肆(居酒屋)で食事をとらない旅人と自分たちのためで、たいていは麺をこしらえる。
干し肉の香りが漂っていた。
芳寧は、棚から陳皮を取り出した。昨日と同じ材料──生姜と黒糖──に加えるつもりだ。まずは生姜を薄切りにし、熱した窯で焦げ目がつくまで乾煎りし、乾燥させた陳皮を砕いて混ぜる。
茶釜に湯を満たし、生姜とともに加えて煮込む。砕いた黒糖を湯に落とす。立ちのぼる甘い香りに上品な柑橘の香りが重なる。
揚易棠は、喜んでくれるだろうか。
余計なことをしたと思われるだろうか。
陳皮を加えた理由に気づかれてしまうだろうか──。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「陳皮だね?」
やっぱり、わかってくださった。
芳寧は笑顔を隠しきれない。心を読まれているようで、嬉しくもあり、気恥ずかしくもあった。
揚易棠は、青磁色の絹で仕立てた上衣に、動きやすそうな濃紺の袴をさらりと着こなしている。上半身に包帯だけを巻いた姿が脳裏によみがえり、芳寧は頬を両手で隠した。
「私の香り袋の成分を覚えていてくれたとは」
そんな言葉に、ますます頬が赤らむ。
阿依姐さんの言う「恋心」とは、実に厄介なものだ。
「実は、きみに頼みがあるんだ」
「私に、ですか?」
「きみにというより、きみのお父さんに」
(……父さんに?)
姜糖茶をぐいっと飲み干すと、揚易棠は続けた。
「巍山まで、きみのお父さんに同行してもらえたらと思っている」
巍山? 巍山といえば──。
茶杯を置くと、揚易棠は脇机から一通の書状を出した。赤い背表紙に金糸で刻まれた「福」の文字。姜家から届いた「婿選抜会の招待状」であることは一目瞭然だった。
「乃柯里村に長く滞在しているのは、腕利きの茶師を雇うためなんだ」
揚易棠は、招待状を指先でトントンと叩いた。
「あの百花茶館の謝館主と父は、古い付き合いでね。毎月開催している茶試会のことは以前から聞いて知っていた。有能な茶師が技を披露するということで、この機会を逃す手はないと思ったよ」
芳寧はうつむき、床の上の揚易棠の黒い布靴を見つめていた。勘のいい揚易棠のことだ。目を合わせれば、失意の胸の内がばれてしまう気がした。
「昨日の茶試会で見せてもらったが、きみのお父さんの茶芸は抜きんでている。ぜひ、巍山まで同行し、選抜会に備えて私を支えてほしいんだ」
揚易棠は、俯いている芳寧の心に気づいているのかいないのか、朗らかな声音でそう言った。
思い上がっていた。
芳寧は恥ずかしくなった。
昨日、茶館で芳寧に席を勧めてくれたのは、芳寧の父親が茶師だったからなのだ。私のように『もう少し、一緒に時間を過ごしたい』と思ったからでも『身分など関係ない』と思ったからでもなく、茶師の娘であれば、無下にするより優しくしておいた方がいいと思ったからなのだろう。
なのに、私ときたら。
揚公子の期待に応えようと、好意に応えようと、気が進まなかったにも関わらず、陸峰を天能茶問屋まで案内し、呼ばれてもいないのに茶発馬店まで駆け戻り、公子から頼まれてもいないのに姜糖茶を用意した。
しかも今日は、揚公子の好きな陳皮まで添えて。
陳皮は、薬膳において気を整え、体を温める存在。相手の健康を願う思いが自然に含まれている。
また、陳皮は古いほど価値が上がる。年月を重ねて深まる香り──まるで、積み重ねた想いを示唆するかのように。
「──だろう?」
「え?」
芳寧は、我に返った。
「よければ、お父さんに話してみてくれないか?」
目の前で、気品ある笑みが答えを待っている。
「わかりました。話してみます。任せてください!」
芳寧は、精一杯の笑みで返した。
夢はいつか覚めるから、純粋に憧れていられるのだ。夢のないまま朝を迎えてしまうより、夢を見られただけでも幸せではないか。そう思いながら。




