第13話 背中の刀傷
天能茶問屋がある易武通りを出て、茶発馬店に続く夕暮れ迫る石畳を、芳寧は足早に歩いていた。
今日の午後は、百花茶館の一等席に座り、克己のすばらしい茶芸を見ながら烏龍茶と桂花糕を味わい、揚易棠と夢のような時間を過ごした。その直後、よりによって陸峰を案内する羽目になってしまったが。
茶工房の裏庭で、雨儿と英儿が話してくれた噂が、どうしても気になって仕方がない。
揚公子に、何もなければいいけれど──。
『俺は、殺していない』
『俺が、衛門に通報した』
そう陸峰は言った。
であれば、なおのこと、揚易棠の身が危険なのではないか。
数歩ほど遅れて、陸峰がついてきていた。揚易棠に頼まれて天能茶問屋で受け取った餅茶を小脇に、芳寧の衣服が入った包袱を肩に担いでいる。
二人は、無言で歩いていた。
やがて、茶発馬店の門楼が近づいた時、二人はただならぬ気配を感じた。塀の内側から聞こえる忙しない足音。厳掌事が、焦ったように何やら指示している。桐儿の返事は今にも泣きそうな声だ。
何があった?!
芳寧は、頬に疾風を感じた。背後にいた陸峰が、彼女の脇を駆け抜けていったのだ。束ねた黒髪が揺れる彼の背中を追って、芳寧も屋根付き橋を越え、門楼をくぐった。
荷下ろし場である前庭に入ると、血痕が目に留まった。石段から回廊へ、点々と道しるべのように客堂へ続いている。
陸峰は、すでにその先の客房へと消えていくところだった。
「芳寧!」
脇の厨房から、阿依が出てきた。両手に湯を張った大きなたらいを持っている。何かを懸命に洗っていた桐儿が、まん丸な瞳をさらに丸くして、芳寧をふり返った。
「どうしたの? 表に血痕があったわ。誰かが怪我を?」
「揚二公子よ。刀で切りつけられたの」
嫌な予感は当たっていた。
やはり、茶商の息子をねらう無法者がいるのだ。
芳寧は、客房(客室)へと急いだ。
茶発馬店の客室は、客堂の奥に横一列に並んでおり、手前には八人まで泊まれる大部屋が一室ある。その奥に、旅人がよく泊まる四人部屋が二つ続き、 さらにその先に女性客や病人、身分の高い客に提供する小部屋が二つ並んでいた。
揚易棠は、おそらく一番奥の個室にいるはずだ。
確認するまでもなかった。血相を変えた厳掌事が、その個室から飛び出してきた。その手には、血で染まった布巾が握られている。
「芳寧!」
厳掌事が、芳寧を押しとどめるような仕草をした。それほどひどく切りつけられたのだろうか。
「揚公子が、怪我を?」
「門楼をくぐったところで覆面の男に切りつけられたんだよ。命には別条ないようだけど、背中からひどく出血してる」
「お医者様は?」
「安茶が呼びに行ってるよ。豆お婆さんが応急処置をしてくれたけど、身体が冷えるようで震えておられるんだ。寒気に効くお茶があれば助かる」
「わかりました」
芳寧は厨房へと戻った。
すでに夕暮れが迫っている厨房は、芳寧から視界を奪っていく。気の利く桐儿が何も言わずに燭を灯し、少し離れたところに提灯も掲げてくれた。ほんわりと周囲が明るくなる。
「ありがとう」
馬店の湯釜には、いつも湯が張ってある。
手早くできて身体を温めてくれる姜糖茶にしよう。
材料は、生姜と黒糖と湯だけ。
生姜を薄切りにし、熱した窯で焦げ目がつくまで乾煎りする。茶釜に湯を満たしたら、そこに炒った生姜を加えて煮込む。砕いた黒糖を湯に落とし、立ちのぼる甘い香りが鼻をくすぐれば、できあがりだ。
体を温め、血の巡りを良くし、気力を回復させてくれるはず。
芳寧が姜糖茶を茶杯に入れ、盆に載せると、
「私が、部屋まで届けましょうか?」
桐儿が、声をかけてくれた。
「ありがとう。でも、大丈夫。お茶の説明もしたいから。阿依姐さんが後庭で洗濯物を干しているみたい。手伝ってあげて」
はいと素直に桐儿は出て行った。
揚易棠の部屋に向かうと、回廊に腕組みをした陸峰が立っていた。
「治療中だ」
そうであれば、入るわけにはいかない。芳寧は盆を持ったまま、少し離れて待つことにした。
「茶か?」
陸峰の声に、芳寧は無言でうなずく。
「俺が」
陸峰が長い手を伸ばした。
「いい。お茶の説明もしたいから」
「説明も?」
ふっと笑い声がした。
「心配でたまらないようだな」
陸峰が、再び腕を組む。
──沈黙。
揚易棠が襲われたということは、茶商の息子をねらったのが陸峰でないことの証明になりそうだ。彼はずっと芳寧と一緒にいた。茶工房にいた彼に、揚易棠を襲えるわけもなく、ましてや陸峰にとって揚易棠は報酬をくれる依頼人だ。傷つけることは考えにくい。
犯人扱いしていた無礼を、彼に謝罪すべきか?
いや、口を封じたうえに気絶させた事実がある。気を失わせたうえ、許しも得ずに抱きかかえ、芳寧はその無防備な姿をみんなに見られてもいる。彼からは謝られて当然なのに、こちらが謝るなど筋が違う。
部屋から医者が出てきた。茶発馬店の近所に医館を構えている孫大夫だ。
腕組みを解いた陸峰は、会釈だか頷きだかわからない程度に頭を下げ、黙って部屋へと入っていった。
「あの……、傷の具合は?」
目の前を通り過ぎようとする孫大夫に声をかけると、親切な老医師は欠けた前歯を見せて、笑顔で言った。
「心配ない。傷は広いが、深くはない。薬を処方しておくから、飲めば痛みも引くだろう。厳掌事に説明しておこう」
芳寧が会釈をすると、孫大夫は客堂へと歩いていった。さて、この姜糖茶をどうしたものか。
部屋の中から揚易棠の快活な声がした。
「入ってくれ。ちょうど喉が渇いていたところだ」
ひと呼吸整えて、芳寧は開いたままの扉から中に入った。
めったに入らない客房だからか、揚易棠がいるからか、わが家のように馴染みのある茶発馬店が、まるで別世界のように見えた。眩しいほどに灯りが満ちている。
寝台の側の卓には、一見して高価だとわかる景徳鎮の小さな蓋碗(旅用の茶器)や雲南の山奥で採れる希少な三七(田七)の薬草袋、高級な玉佩(腰飾り)が並べてあった。
そして、その寝台の上には上半身を包帯で巻いた揚易棠が、茶館で見せてくれたような笑顔で芳寧を出迎えていた。たくましい両肩(だと、芳寧にもわかるほど逞しい)が目に飛び込んでくる。芳寧は慌てて後ろを向いた。
壁際に立っていた陸峰が、そんな芳寧の動揺を見て、またふっと笑った。
「いい香りだ。ありがたくいただくよ」
芳寧が戸惑っていると、陸峰が歩み寄ってきた。彼女の手から盆を受け取り、寝台へと運びながら「茶の説明をするんだろう?」と、からかうように言った。
とことん癇に障る人だ。
「姜糖茶をお作りしました。体を温め、血の巡りを良くし、気力を回復させてくれます。ただ、熱やのぼせがある時には控えた方がよい場合もあります。傷の痛みが強いのであれば、少しずつお飲みになった方がよいかと」
「わかった。ありがとう」
「……痛みますか?」
ふっと笑い声。
「刀傷だ。痛まないわけがない」
(心底、癪に障る人だわ)
芳寧は、じろりと陸峰を睨んだ。
「きみのことは……芳寧と呼んでもいいかな?」
姜糖茶を味わいながら、揚易棠が聞いた。
「はい。お好きなようにお呼びください」
「芳寧、今日は道案内をありがとう」
怪我人とは思えない溌剌とした声だ。
「陸峰に茶工房から家まで送らせるつもりが、きみは私を心配し、ここまで来てくれたそうだね。茶まで煎れてもらって申し訳ない。私はもう大丈夫だ。陸峰に送らせるから、帰ってゆっくり休んでほしい」
「いいえ、一人で帰れます(なんなら馬店に泊まっても)」
「それはいけない。きみのお父さんは、きっと心配しているだろう。今日は家に帰るべきだ。心配ならまた明日、来てくれればいい」
芳寧は、頷くしかない。
柱にもたれ、窓の外を眺めている陸峰を見やる。
その横顔は微笑んでいるようにも、怒っているようにも見えた。




