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白い霧の向こう ― 茶馬道の小さな殺意 ―  作者: 鬼丸 千


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第12話 小さなつむじ風(2)

 翌朝のことだ。

 空が白み始めた頃、浅い眠りから身を起こし、馬房でラバに飼葉を与えていると、タン頭儿が入ってきた。


 普通の旅であれば、馬店に泊まるのはひと晩か、せいぜい二晩だ。


 今回は、乃柯里ノカリ村に入る直前で狼に襲われたラバの休養と、揚易棠ヤン・イタンの所用のために、数日滞在することになっていた。


 ヤン二公子はジャン家の婿選抜会に備え、茶師を用立てたいらしい。


 選抜会に参加する候補者は、文武のほかに茶の知識も試される。ほかの候補者を圧倒するには、茶に精通していることも欠かせない。


 乃柯里ノカリ村からジャン家が住まう巍山ウェイシャンまでは、一日もあれば行ける距離だ。だが、途中に厄介な峠がある。山賊も頻出すると聞いた。


 タン頭儿と言葉を交わした後、防戦に備えて馬房の隅で剣を研いだ。子どもの頃に見よう見まねで覚えた父さんの鍛冶屋の技は、鏢師になっても役に立つ。


 剣を磨き終えると、ラバの毛並みが目に入った。


 茶発チャファ馬店につれてきたのは、治療を要する八頭のラバだ。残りの元気なラバたちは、郊外に野営している鏢師たちの元でのんびり草を食みながら、小川のせせらぎで水浴びでもできるだろうが、馬房のラバはそうはいかない。身ぎれいにしてやろうと思った。


 かなりの水が必要になる。門楼の前に共同井戸があった。

 そこに──彼女がいた。


 長い黒髪を背中で束ね、井戸の水を苦労して汲んでいた。

 最初は、彼女だと気づかなかった。


 男女は、距離を置くべきだ。

 学問をしない俺にでも、それくらいの心得はある。


 ぶしつけに顔をのぞき込まないよう配慮したつもりでも、振り向いた彼女の白い瞳は目に留まった。

 

「よければ、俺がその水がめに──」


 言い終わらないうちに、平手打ちを食らった。

 そして、彼女があの襲われた娘だと知った。


 彼女は「死体」に気づいていた。どうやら、俺が犯人だと思い込んでいるらしい。証拠があると彼女は言った。死体の処理に問題はなかったはず。はったりだろうと思ったが、彼女の目が「見えている」のであれば、状況は変わってくる。


「証拠のことは、誰にも言うな」

 俺は、そう言っただけだ。


 ところが、彼女は目を見開いた。苦しげな表情を浮かべ、呼吸も浅くなり、へなへなと足から崩れ落ちていく。慌てて抱き寄せると、昨夜の路地でのように、彼女は俺の腕の中で意識を失った。


「た……すけて」


 そう呟きながら。


 一度目は偶然と言えても、二度目は意図的と疑われて当然だろう。

 だが、茶発チャファ馬店の店小娘たちは、事情を問い詰めるどころではなかったようだ。『芳寧ファンニン!』『芳寧ファンニン姐さん!』と、彼女の名を呼び続けては、甲斐甲斐しく世話をしていた。


 三人は、姉妹のように仲がいいらしい。ふと昔の自分と揚易棠ヤン・イタン──ヤン二公子と呼ぶべきか──の姿に重なった。


 薬草を買って戻ってきた店小二の安茶アンチャから、あらかた事情は聞いた。花祭りの夜、彼はサンザシ飴の屋台で銭入れを落とし、一緒にいた芳寧ファンニンとはぐれたらしい。彼女は、近くの茶坊の娘で、この馬店には通いで来ていると教えてくれた。


 瞳のことも聞いた。

 見えているのかいないのか、はっきりさせる必要があったからだ。


 まったくの盲目ではないらしい。生まれつき重度の白内障で、光に弱く輪郭しか見えないそうだ。その分、聴覚や嗅覚が人並外れているらしく、おそらく俺を認識したのは「声」が理由なのだろう。


 正午になって、ヤン二公子から「茶館までの護衛はいらない」と言われた。理由を問うと、茶試会が延期になったらしい。代わりに、峠の様子を見てきてくれないかと頼まれた。


 山賊の対策なら整えてあると伝えはしたが、帰りに地元の酒でも買ってきてくれと駄賃を握らされては、断るに断れない。

 

 タン頭儿に状況を告げると『気まぐれな公子は、これだから困るよ』と言いながら、俺にも頼むと酒代を手渡してきた。


 峠までは二十里ほどある。往復すれば半日はかかる。

 俺は急いで茶発チャファ馬店を出た。


 乃柯里ノカリ村を出て一刻ほど歩いたところで、峠道の様子を記録しておくことを思いついた。酒代と剣は腰にあるが、紙と筆がない。


 馬を借りて駆ければ、夕暮れまでには帰れる。筆記具を調達しようと、俺は乃柯里ノカリ村へ引き返した。


 ──そして、あの二人が視界に入った。

 厳密に言えば、三人だ。

 揚易棠ヤン・イタンの後ろには、従者がいた。


 俺は、とっさに物陰に隠れた。

 理由はわからない。


 隠れた瞬間に思った。

(なぜ、二人が一緒にいる?)


 肩を並べて歩きながら、にこやかに笑っていた。揚易棠ヤン・イタンが、腰に下げていた香り袋を手に取り、彼女──芳寧ファンニン──に振ってみせる。


 彼女の顔はまだ少し青白く見えた。無理をしているのかもしれない。

 

 やがて、身体を傾けるようにして、揚易棠ヤン・イタンが何かをささやいた。彼女は慌てたように首を振る。歩きながら、二人はコソコソと話を続けていた。陶器店の影に隠れている俺には、気づく様子もない。


 揚易棠ヤン・イタンが、納得したようにうなずいた。そして、二人はまるで旧知の仲であるかのように親しげに語らいながら、俺の前を通り過ぎた。


 後をつけた。

 峠道の偵察など、すっかり忘れていた。


 二人──厳密には三人だが──が立ち止まった場所は、『百花バイファ』と刻まれた看板を掲げた大きな茶館の前だった。茶試会は延期になったはずでは? なぜ、ここへ?


 正面で少し言葉をかわし、連れだって中へ入っていく。


 どうすべきか、迷った。

 今からでも峠道には行ける。

 そもそも俺には関わりのない事だ。

 だが、井戸端で聞いた彼女の『助けて』という声が、耳から離れない。


 茶館の入り口に向かうと、門番がいた。

 鏢師の腰佩を見せると、すんなり中へ通された。


 揚易棠ヤン・イタンと彼女は、茶席の最前列に向かっていた。中央にいた茶師の男が、慌てふためいて彼女に近づき、抱きつこうとして押し返されている。かなりの偉丈夫だが、どうやら泣いているらしい。

 しきりに目をこすりながら、それでも見事な茶芸を披露した。


 茶芸は見事だったが、俺は二人から視線を外せずにいた。

 彼女は、ちらちらと揚易棠ヤン・イタンの横顔を盗み見ている。


 数人の茶師が茶芸を披露し終えると、揚易棠ヤン・イタンと彼女は席を立った。笑顔で、また何やら言葉を交わしている。

 顔を上げた揚易棠ヤン・イタンの視線が、俺の視線と重なった。


陸峰ルフォン、来ていたのか」

 昔のような笑顔で、彼は言った。


 昔と違い、俺は会釈する。二人に向かって歩いていった。

 驚いた表情で、彼女がふり返る。


 俺の心に、つむじ風が吹いた。

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