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白い霧の向こう ― 茶馬道の小さな殺意 ―  作者: 鬼丸 千


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第10話 公子を守りたい

 雨儿ユア英儿インアが止めるのも聞かず、芳寧ファンニン天能ティエンノン茶問屋の工房を飛び出した。


 今しがた、茶工房で聞いた「若君がまた襲われた」という噂が、胸の奥でざわついて消えない。


 揚易棠ヤン・イタンの言葉が、耳に残っている。

「私も行きたいところだが、あいにく茶商の子息が集まる茶会に呼ばれているんだ」


 茶商の子息。

 花祭りの夜に撲殺されたのは、佐山の茶商の子息だった。

 溺死したという若君も、頬を切りつけられた若君も、みんな茶商の子息だ。

 

 たった二日の間に、この小さな乃柯里ノカリ村で、茶商の子息が三人も襲われている。こんな偶然があるだろうか。


 石畳のひび割れに足をとられ、芳寧ファンニンは思わずよろけたが、体勢を立て直して足早に歩を進めた。


「おい、待てよ」


 背後から、陸峰ルフォンの声が追ってきた。

 待っていられるものか。構わず、ゆるやかな石畳をのぼった。


「どうした」


 陸峰ルフォン芳寧ファンニンを追い越し、行く手を塞いだ。

 小脇に、丁寧に包装された餅茶ビンチャを抱えている。古木の静かな深みと、春の朝のような冷やかな香気が漂っていた。


 芳寧ファンニンは震えそうになる声を抑え、白い視界の中の黒衣の陸峰ルフォンに問うた。


ヤン公子が出かけた茶会は、どこ?」

「知らない」

「じゃ、茶発チャファ馬店に戻る時間は?」

「なぜ聞く?」

「伝えることがあるのよ」


 大事な話を。

 すぐ目の前に立っているこの陸峰ルフォンという男が、佐山の茶商の息子が殺された現場にいたという事実を。

 犯人かもしれない疑いがあることを。

 そんな男を雇っては危険だということを。


「あの夜のことか?」


 返事の代わりに、大きく息を吐いた。


「誰にも言うなと言った」

「同意はしてない」

「いい加減にしろ!」


 穏やかだった陸峰ルフォンの声に、動揺があった。


「俺は、殺していない」

「私が判断することじゃないわ。あなたが現場にいたことは、事実だもの」

「現場にいたから殺したことになるのか? だとしたら、きみも容疑者だ」

「殺してないわ!」


 つい声が大きくなった。数人の通行人が、いぶかし気にふり返る。

 芳寧ファンニンは、身震いした。

 サンザシ飴の串で、男の脇腹を突き刺したときの感触が、まざまざと蘇ったのだ。指先に感じた皮膚の弾力、肉を突き破る串の反発──。

 

 陸峰ルフォンが、そっぽを向いた。


 春の夕暮れ、太陽はさらに傾きを深めていた。

 背中でひとつに束ねた陸峰ルフォンの長い黒髪に、光が反射している。きらめく糸のようだ。前髪が風に乱れ、頬に落ちていた。


 ほんの数秒だったかもしれない。

 居心地の悪いその沈黙を、陸峰ルフォンが破った。


「俺が、衛門に通報した」

「え……?」

「通報したが、名を明かさず立ち去った。証言を求められ、調書でもとることになれば、数日はこの村から出られなくなる。鏢局の仲間に迷惑はかけられない。だから黙っていた」


 陸峰ルフォンが衛門に通報した?

 彼はただの通りすがりで、身を潜めていただけだというのか?


 確かに、陸峰ルフォンが殺人犯だという確たる証拠は何もない。彼の主張の道理はわかるし、そうだったのかもしれないという気持ちもわいてくる。


 だが、旅程に影響するという理由だけで、その場に居合わせた芳寧ファンニンの口をふさぎ、気絶までさせるだろうか?

 証拠があると言った彼女に「誰にも言うな」と脅しをかけるのは、あまりに怪しい。関与していると考えた方が、しっくりくる。


 そうは言っても、芳寧ファンニン自身、陸峰ルフォンに「極悪人」の判を押しきれずにいるのも事実だった。

 殺意を感じない物腰のせいか、穏やかな声のせいか。


「遅くなる。帰ろう」

 陸峰ルフォンが言った。


「家まで送る。先導してくれ」

「家には帰らないわ。茶発チャファ馬店に行く」

「諦めが悪いぞ」

 

 顔を見なくてもわかる呆れ声だ。

 歩き出した芳寧ファンニンの後を、陸峰ルフォンが追う。


乃柯里ノカリ村で、人殺しなんて聞いたことがない。ほんの数日で、茶商の若君ばかり三人も襲われるなんてヘンよ」


「茶商をねらう犯罪なら、茶馬道を歩けば腐るほど聞く」

 陸峰ルフォンが、突き放すように言った。


「買いたたきに不当契約。偽の茶葉を混入させておきながら、その責任を茶農家に押し付ける茶商も、世の中にはごまんといる」

 

「それでも不自然だわ。茶商の若君ですなんて宣伝しながら、名札をつけて歩いていたわけでもないのに、犯人に特定されて殺されるなんて」


「恨みでも買っていたんだろう」


「被害者のうち二人は、佐山と竹河から来た若君なのよ。まるで方向が違うわ。どういう接点で、同じ人物から恨みを買うわけ?」


「……口の減らない小娘だ」


「強盗とも思えない。茶馬道に関わる人たちにとって、お宝は茶と馬だもの。金持ちから金銀財宝を盗んだところで、庶民がさばけば疑われてしまう。それこそ宝の持ち腐れだわ」


「それでヤン公子が心配なのか」

「恩人だもの」


 心を読まれないように、さらりと言った。


「通りで、ならず者たちに囲まれた私を助けてくれた。茶館まで送ってくれた。身分の低い私に、対等な立場であるかのように席をすすめてくれた。今、その恩人に危険が迫っているかもしれないのに、放っておけるわけない」


 揚易棠ヤン・イタンの初夏を思わせる爽やかな声が、耳に残っている。


『父上から、茶工房に立ち寄るよう言われている。ジャン家への贈り物を用意してあるそうだ。受け取りに行ってくれ』


 ふと、気づいた。


ヤン公子も、ジャン家の選抜会へ行くの?」

「ああ」


 がつんと胸を殴られた気がした。

 

 わかっていたはずだ。

 虎街で華やかに暮らす茶商の二公子と、乃柯里ノカリ村の小さな茶坊の娘。よほどの必然がない限り、接点は見込めないと。


 接点はなかろうと、このまま放ってはおけない。

 この胸のざわめきが、ただの勘違いであると確認できるまでは。


 芳寧ファンニンは、再び歩き出す。

 不満そうなため息とともに、後ろからついてくる足音を聞きながら。


 山ガラスが鳴く。

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