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ランチ、行く?

 そう聞かれて、私は一瞬だけ考えてから、うなずいた。

 行ってもいいし、行かなくてもいい。

 その選択肢が、最初からある誘い方だった。


 社屋を出て、すぐ近くの小さな路地へ入る。

 辺りはひんやりしていて、猫が来ない限りは、しんとしている。


 ある程度の距離を歩くと、右の並びに古いのれんが出ている定食屋の前に着く。

 少しひなびていて、温かみのある店内。

 いつもの席に、いつも座っているおじいさんがいる。

 特別おいしいわけでも、流行っているわけでもない。

 でも、昼時でも騒がしくならない。


 ちょうど空いている真ん中の席。

 向かいに座った彼女――あの人は、メニューを見ながら言った。


 「今日は、どうする?」


 “一緒に”ではなく、“今日は”。

 それだけで、空気が軽くなる。

 気づくと、もっとお腹が空いてきた……


 注文を済ませてから、しばらく仕事の話をした。

 進捗。引き継ぎ。ちょっとした愚痴。

 必要な分だけ。


 前みたいに、誰かのフォローをどうするかとか、

 場の空気をどう丸めるかとか、

 そういう話は出てこない。


 沈黙があっても、気まずくならない。

 スマホを見るでもなく、無理に話題を探すでもなく、

 ただ、箸を動かす。


 「最近、楽そうだよね」


 不意に言われて、少し驚いた。

 褒め言葉なのかどうか、判断がつかない。


 「そう見える?」


 「うん。前より」


 理由は聞かれなかった。

 説明もしなかった。


 以前の彼女なら、

 「何かあった?」と聞いたかもしれない。

 でも、今は聞かない。


 それが、ありがたかった。


 食後、店を出るとき、彼女が言った。


 「午後、忙しい?」


 「ううん」


 「じゃあ、戻ろうか」


 それだけだ。

 一緒に戻るけど、同じ速度で歩く必要もない。


 職場の入口で、自然に別れる。

 午後は午後。

 昼は昼で終わる。


 その背中を見ながら、私は思う。

 この人は、私がイイ人をやめたことに、

 たぶん気づいている。


 でも、評価もしないし、理由も求めない。

 ただ、同僚として、隣にいる。


 それが、こんなに静かで、続けやすい関係だとは、

 前は知らなかった。

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