カミさん
悪夢だ。いや、悪魔だ。
とんでもないことになってしまった。戦争に来て、私は悪魔と一緒になってしまった。
その悪魔というのは私が子供の頃、同じ学校に通っていた二つ上の学年にいた奴だ。
私はある町から悪魔のいる学校に引っ越し、その当日より同学年の者によそ者だと面白半分にいじめられ、数人に囲まれ暴力に暴言を浴びせられていた。
見知らぬ土地に引っ越したばかり、不安ばかりで誰も知り合いもいない学校。
そのような中で理不尽ないじめに遭った私は悔しいやら怖いやらで暴力に耐えうずくまり泣いていた。
通りすがりに悪魔はその様子をみつけた。
偶然にも私も瞬間的に私は顔を上げ、お互い目が合った。
興味がなさそうな真顔で私を見ていた悪魔に、私は淡い期待を抱いた。
きっと年上の者として私を取り囲み暴力を振るう者たちに対し「君たちやめたまえ」といさめ助けてくれるつもりだと。
しかしその悪魔から返ってきたのは、哀れな者を軽くせせら笑う口元と小馬鹿にしてくる目だけ。
悪魔はそのまま見て見ぬふりをしてさっさと消えていった。
その当時のその時、私はそいつを悪魔ではなく、鬼だと思った。あいつは人の心を持たない鬼だと。
そして鬼と思った通りその悪魔の名字はそのまま「鬼」の文字の入った「鬼頭」で、体は大きい。何を考えていているのかもさっぱり分からない。次に何をしでかすかも読めない。
その三拍子揃った性格のおかげで子供どころか先生からも違う角度から恐れられていて、腫れ物に触る扱いをされていると知った。
その情報を聞く程度に同学年の者と打ち解けたころ、そいつの母が再婚するということで悪魔は遠くの町へ引っ越していき、鬼頭の名字も変わったそうだという話を聞いた。そのまま学生の時分に悪魔と会うことは二度となかった。
年を重ね成人した私は郵便配達員として働いた。その中で郵便局に新人として入ってきた女子と良い仲となり、程なく結婚し子も生まれた。女の子だった。
我が子に私は「碧子」と名をつけた。
碧子は標準より体が小さく生まれ、二歳まで生きるかどうかと産婆に脅された。だから元気な赤子となるよう、みどりの子…元気な赤子という意味のその名をつけた。
だが産婆の脅しをよそに碧子は日を追うほどに元気になっていき、気づけば四歳になっていた。その四歳の年齢を迎えたその日のこと、私に赤い紙が届いた。戦地に赴けという誘いの紙だった。
そうして兵隊として召集された者たちと共にジャングルの戦地に赴くことになった。
その戦地に赴くまでに先輩と名乗る奴らに理不尽な言いがかりをつけられいびられるやら殴られるやらする中、子供の頃の引っ越した当日と同じ状況になった。
自分より階級が上の者の指示にすぐ動かなかったとして何人かの者に囲まれ、生意気だと頬をひっぱたかれ、なお怒りが治まらないのか腹に拳骨を一撃食らった。
あまりの一撃にうめきながらその場にうずくまって咳き込み鼻水と涙を垂らす中、そいつが近くを通った。
その時まで存在すら忘れていたが、通りがかりに興味のなさそうな顔で眺めてくるその出で立ちを見てすぐに悪魔だと分かった。
上層部の階級である軍服を身にまとった悪魔は、あの時と違い、私に理不尽な言いがかりをつけるそいつらに声をかけた。
「どうした、何をしている」
私の腹に拳骨を一撃食らわせた男はというといつも偉そうであるのに、その声に酷く驚き「いひぃ」と悲鳴をあげ飛び上がると、慌てて振り返り素早く背をただし敬礼し、
「こいつが我らに反抗するので制裁を加えていたのであります!」
と声をひっくり返しながら言い放った。
―何が反抗だ、反抗できなさそうな弱者を選んで鬱憤を晴らしているだけのくせして。
内心そう思っていたが上の立場の者の手前何も言い返せず黙って口を噛みしめていた。
そのように報告された悪魔はというと、涙と鼻水だらけでうずくまっている私を見て、遠い昔に同学年の者に囲まれ泣いている私を思い出したのだろう、鼻で笑った。
「お前、大人になってもまだいじめられ泣いているのか、哀れだな」
それだけを言うと、悪魔は他に何をいうでもなくさっさとその場を立ち去っていった。
何も変わっていなかった。悪魔は子供の頃から何も変わらず、いじめをみても見て見ぬふりをする性格のまま成長していた。
「あいつには気をつけたほうが良いぞ」
制裁という名の単なる暴行を受けたのち、その様子を止められもしないまま黙ってみているしかなかった同輩たちが声をかけてくる。
「あいつ?」
「途中で声をかけてきたあいつだ」
ああ、と頷きつつ「なぜ」と聞くと、一人が声を潜め囁いてくる。
「あいつは『悪魔』と呼ばれている」
そこで鬼頭という名字であった男は現在、陰で悪魔と呼ばれているのを知った。しかし私はその詳細は知らないから質問した。
「鬼ではなく、悪魔なのか?悪魔なんて敵国で使われているデビルを訳した言葉ではないか、だとすれば鬼といったほうが無難な気がするが」
同輩は顔をしかめ首を横に振り、
「あいつは敵と同じだからいいんだ、悪魔で」
と言う。もっと詳しく聞いてみると、悪魔の話を聞かされた。
どうやら悪魔の母が再婚した相手というのが揺るがぬ権力を持っている裕福な家の家長だったそうだ。
権力のある裕福な家の後ろ盾、そして士官学校に入った悪魔は優秀な成績で卒業し、卒業後は流れるように立派な立場へと収まった。
おかげで自身より格上の階級の者たちですら無下にできない特別の枠へ収まっているんだと。
であるからして悪魔は戦地に近い場所にいながらも、それはのんびりとした時間を過ごしていた。それだけならまだいい。
悪魔は先ほどのように自身がいさめねばならないいじめを見ても見ぬふり。
なんだったらその制裁を目の前でやれと酒を持ってきて眺め、酒に酔った勢いで自ら制裁に加わり、相手の鼻と足の骨をへし折ってしまったという。
その暴行の酷さは先に制裁を加えた者たちが止めに入るほどであったらしいが、悪魔は上官にいけしゃあしゃあとこのように報告した。
「仲間内でのふざけが過ぎてこのようになってしまった」
被害者である哀れな男は大けがのため本国へ戻り、後日、悪魔はこう言って笑っていたという。
「名誉の負傷ではないからあいつに国からの賠償金は出ないぞ。権力も金も立場もないってのは哀れだな」
その話を最後まで聞いた私は背筋が粟だった。
もしやあいつに目をつけられてしまったのではないか、その男と同じようにいたぶられるのではないか、と。
しばらく脅えて過ごしていたが、幸運なことに悪魔は私に関心がなかったようだ。
変わらず度々制裁を加えられ痣は増えはしたが、そこに悪魔が関わってくることはなかった。
そのようなことがありつつ戦地であるジャングルにたどり着いた私たちは、ある程度の人数に振り分けられそれぞれの戦線へと向かうことになった。
私を使い鬱憤を晴らしていた奴ら、そして悪魔も私とは別の隊であり、心の底から安堵した。
代わりにそいつらと行動を共にしなければならなくなった同輩たちは、唇を噛みしめ眉間にしわを寄せ、絶望の目を隠すため険しい顔をしていた。
私の上官になった方はというと、それはありがたいと思えるほど立派な軍人だった。
どうしてここに来るまでに私の前に現れてくれなかったのかと崇めたくなるほどできた人であった。
戦いの指示も的確であり、一人一人に目を配り、戦う時には戦う、逃げる時にはとにかく逃げる、隠れる時には隠れるを徹底的に実行させた。
何度か死を覚悟することがあっても、上官は決して誰一人見捨てず、全員を生きる道へと導いてくれていた。
皆も上官のことを心から尊敬し、敬い、この方のためなら命を賭して戦ってもかまわない、いや、命を持ってしてでも助けてみせる、必ずこの方を勝利の栄光の元、本国へ帰還させるのだと強い団結が生まれていた。
が。
その上官はマラリアにかかり、どうにもできぬまま亡くなってしまった。
敵の銃弾なら代わりに受けられるものだが、マラリア相手ではどうにもできなかった。
私たちを率いる上官がいなくなってしまったことで我が隊から団結力が少しずつ消えていった。
そんな最中の夕暮れ時。敵国からの奇襲を受け、それぞれが自身のやり方で応戦した。
とはいえ、いきなりのことで戦うこともまともにできず右往左往している間に仲間はどんどん倒されていった。
そんな中、私は逃げることを選択した。
何人かの逃げる後ろ姿を見て、何も考えずその後を追った。
先に逃げた何人かは銃に撃たれて倒れ、その倒れた者を飛び越え私は逃げた。
死にたくなかった。
両親が待っている、義両親も待っている、何より妻が待っている、娘が待っている。
死の瀬戸際で私が選んだのは、お国や仲間よりも自分の命と本国にいる家族だった。
どれくらい走ったのか、銃撃の音も聞こえなくなり安心して立ち止まったのは夜もとっくに更けた頃だ。
走り続けたせいで心臓は破裂しそうで、体はジャングルの熱気も混じり汗まみれで口の中もカラカラ。水筒を手に取り中の水を飲んだが、全く足りない。
水、水が欲しい。
そうやって歩き出した時だ。
悪魔が目の前に現れたのは。
悪魔はふらふら歩きだした私の前に煙草を吸いながら悠々と現れ、私をみるやいなや、
「吸うか」
と煙草を一本私に差し出してきた。
見るからに疲れ衰弱している奴にいきなり煙草を差し出す奴がいるかと心の中で悪態づいたが、悪魔は私より格上の上官である。上官から差し出された物を拒否できる立場ではない。
「ありがたく頂戴します」
と言い、むせながら吸えもしない煙草を必死に吸った。
「お前、死んでないんだな」
あまりの言いようだが、悪魔は上官である。
「敵の奇襲に会いましたが、すんでのところで逃げました。それ以降敵どころか仲間にも会っていません」
そして私は一人でいる悪魔を見て、
「上官の隊はどうなったのですか」
と質問した。
「そうかお前の隊は聞いていないか。玉砕命令がきたんだ、本国から。全員で突撃して死ねと」
無言でいると悪魔は続ける。
「俺は逃げてきた」
思わず目を見開いて凝視していると、悪魔はまさに悪魔らしい顔で笑った。
「上官ってのはいいぞ、部下に玉砕しろと言って、自分はその間にトンズラできるんだからな」
呆気にとられ、煙草を取り落とした。
「それは本気で言っているのでありますか、皆は本当に玉砕したのですか」
悪魔は悠々と煙草を吸っている。
「俺は見てない、逃げたからな」
カッと頭に血が上って、相手は上官だというのを忘れ、悪魔の胸ぐらを掴んでその顔に拳骨を喰らわせた。悪魔の吸っていた煙草は吹っ飛んでいく。
悪魔に馬乗りになってまた殴ろうとすると、その手をつかまれ、下から顎に思いっきり拳骨を喰らった。
その一撃に私は後ろに倒れ、ジャングルの木々を地面から見上げる。
その視界の中に悪魔が映り込んできて、上から嫌な顔で笑いかけてきた。
「いじめられる立場でも人は殴れるようになったか。戦争の賜だな」
「うるさい!この…」
「『悪魔め』、か?」
「…」
言おうとしていたのを先に言われ、思わず口をつぐんだ。
悪魔は私の胸ぐらを掴んで無理に引きずり起こし、
「悪魔と呼ばれているのは知っていたぞ、敵と同じだからあえて鬼ではなく敵国の言葉である悪魔を使っているのも」
悪魔は先ほどと同じ所に座り、自身のくわえていた煙草を拾い上げるとまた吸い始め、ハハッと笑って口から鼻から煙を吐き出した。
「あれと同じだよな、野球のアウトを駄目、セーフを良し、と言うのと。だったら素直に鬼といえ、鬼と。遠回しに敵国の言葉を使って悦に入ってんじゃねえや」
さっきまで感じていた怒りのやりどころがなくなってしまい、なんとも言えないまま黙っている。
悪魔は続けた。
「だがわざわざアウト、セーフの言葉を変えてまで野球がしたいってのもどうかと思うぜ、結局あれ敵国からやってきたゲームじゃねえか。敵国の言葉は使ってはいけません。でも敵国からやってきたゲームはやり続けます。おかしいだろ」
「…それでも、野球は楽しいものであります」
悪魔は顔を輝かせ煙草を向けてくる。
「そうだよ、楽しいんだよ。だからやめられねえんだ、人間ってのは敵国のやつらの物でも楽しい物を見つけちまったらもう手放せねえんだ、楽しいからな」
悪魔は煙草を吸い続け、
「だったら最初からこんな戦争なんてしなけりゃ良かったんだよ、簡単なことだろ」
「しかし戦争をしなければ周囲の国々どころか本国も敵国の手に落ちていました」
「ふーん、お前はそういう考えか」
その言葉にはなんとも返しようがなく、黙り込む。
しばらく黙り込んでいると、悪魔はふと口を開いた。
「そういやお前んとこ、子供がいるらしいな」
いきなりなんだと思いつつ「はい」と答えると、悪魔は続ける。
「みどりこ、という名前らしいな。お前の同輩の者から聞いたぞ」
「あなたが見捨てた私の同輩から聞いたのでありますね」
嫌味を込めて言うと悪魔はおかしそうにフッ、と笑って、二本目の煙草を吸う。
「もしや体が弱いのか、お前の子は」
こっちの言葉は無視かと腹が立ちつつ、力で敵わないのは先ほどで十分わかっているから頷いた。
「正確には弱かった、であります。産婆に二歳まで生きられるかどうかと言われておりましたが成長するにつれ体が丈夫になりました」
「ふーん。お前が最後に会った時、娘はいくつだった」
「四歳であります」
アッハハハと悪魔は笑った。そして私に向き直る。
「俺の娘は四歳で死んだぞ、体が弱くてな、お前と同じで『みどりこ』と名付けたんだ、元気な赤子になって大きくなれと」
思わず顔を真顔にして、悪魔を見た。
「結婚なさっていたのでありますか」
そもそものそこに驚いていると悪魔はもっと笑う。
「妻もいないのにどうやって子を成せる?それとも俺が誰彼かまわず婦女子に襲いかかって子を成したとでも思っているのか」
「さすがにそこまでは…」
ふふふ、と笑い悪魔は続ける。
「子を失って意気消沈した妻には愛想をつかされてな、美丈夫の下男と共にある日家から消えたんだ。楽しい話だろ、世の中権力に金に地位があろうが、子の命も女の気持ちもどうにもできねえってことだ」
悪魔の本国での生活を聞かされたことで、頭が混乱した。
それよりどうしてそんな不幸ごとをこんな楽しそうに笑いながら言えるんだこの人は。やはり悪魔だからか。
なんとも声をかけがたく気まずく口を閉ざしているうちに悪魔は二本目の煙草を吸い終え、やおら立ち上がった。
「さ、行くか」
「どこへ…あ、戦線でありますか」
悪魔は馬鹿にする目で私を見下ろす。
「玉砕命令が出されたってことは、もう上層部はなりふり構ってられねえってこった。つまりもう終わりなんだよ、負けたんだ、負け負け。俺らは負けたんだ、だったらもう戦う意味がねえ」
負けた。その言葉に私は思わず強く怒鳴り返した。
「我々は負けておりません!」
「あっそ。じゃあお前一人で勝つまで戦え、俺は行く」
そう言われてひるんでいると悪魔は笑った。
「ひるんだな?本当は戦いたくないんだろう」
「それは」
自分の命と家族の命を優先した手前、命を賭してまで戦いたいと言う気持ちはもうない。しかし負けたことは認めたくない。
しかし上官である悪魔の手前「戦いたくないであります」とはっきり言うのもバツが悪く黙り込んでいると、悪魔は背を向け歩き出した。
その後ろを私はのろのろとついていく。
黙々と歩き続けていると、不意に悪魔が振り向いてきて、自分の鞄から巾着袋を取り出すと私へ押しつけてきた。
「これに俺の家の住所と両親あての手紙がある。お前これを持って俺の家に行け」
「それは…、ご自身で持って行けばいいのでは。どうせ本国へ帰るのでしょう」
悪魔は真顔で一拍の間を置いて、巾着袋をぶつけるように私の体に押しつける。
「ああ、そうだな。だからこれをお前に渡す」
「意味が分かりません」
「分かろうとするな面倒臭え野郎だな。話はこれで終わりだ」
「そんな無茶苦茶な」
そうは言いつつ託されたものであることに変わりはないから、しっかりと自分の鞄の中にしまっておく。
「ところで」
顔を上げると、真っ暗な夜がまばゆい真昼になっていた。
「ん?」
少しずつ目を開けていくと真っ青な空が見えて、周りにはたくさんの人が座るか立っているかしている。
首を動かし左右を見ると、周りにいるのは兵士に一般の服を着ている者と、ごちゃ混ぜだ。そして目線の低さで私は横になって寝かされているのだと分かった。
「目が覚めたか」
俺が動いているのに気づいた一人の男が声をかけてきた。
誰だと思いつつよくよく見てみると、ジャングルへ向かうまで同じ部屋だった同輩だった。悪魔の隊に振り分けられ、絶望していたうちの一人。
「どこだここは」
「船の甲板だ、これから本国へ帰るんだ俺たちは」
ジッと同輩を見つめ、そして悪魔の言っていたことを思い出し、聞いた。
「負けたんだろ、私たちは」
同輩は顔を引きつらせ、かすかに頷いた。
「そうだ、俺は現地の者たちから私たちは負けたと知らされた。その道中でお前が倒れているのを見かけてここまで連れてきたんだ」
「悪魔は?私と一緒にいたはずだが」
同輩は真顔になり、そしてかすかに顔を陰らせ、ほんの少し目を潤ませ首を振り俺を見た。
「悪魔じゃない、あの人は悪魔じゃない。俺らは玉砕命令を受けた、あの場で死ぬはずだった。その命令を無視してあの人は俺たちを逃がしたんだ」
何だと、悪魔が言っていたのと話が違う。
同輩を見て続きを促す。
「俺の隊には直接上層部の者が訪れたんだ、玉砕せよ、これは名誉なことだと。そうしたらあの人はその上層部の者を撃ち殺し、俺たちをみて笑いながら言ったんだ」
そこで同輩は鼻をすすり、悪魔が言ったであろう言葉を言う。
「『おい、俺は行くぞ、お前らも勝手にどっかいけ』」
同輩は鼻をすすり、そこで話を終える。
しばらく空白の頭のままでいた私は、問いかけた。
「悪魔はそのあとどうなった」
「分からない。一人どこかへ行ってしまった。だがあからさまにお国からの命令を無視したんだ、本国に戻ったらどこからどんな非難と制裁を受けるかも分からんし、家の立場もあるから親にも迷惑がかかるかもしれん。それが分かっていて素直に本国へ戻られるだろうか」
しばらくあれこれ考えたが、いくら考えたって何も分からない。
そのうちに私は眠りにつき、そして次に目を覚ました時には病院の中だった。
起き上がるぐらいに回復すると、私の荷物が脇に置かれている。起き上がりついでに鞄を開けて中を確認しようとすると、中には悪魔から渡された巾着がしっかり入っていた。
同輩の話を聞いて悪魔に会っていたのはきっと夢のことだと思っていたものだから、巾着がしっかり入っているのに驚いて思わず「うわっ」叫んで取り落としてしまった。
すると近くにいた医者がその巾着をみて「えっ」と声を漏らし、拾い上げとんでもない事を言う。
「これは悪魔さんの巾着ではないですか」
驚いて医者を見た。見る限り私と同じかそれくらいの医者だ。
それよりも私は驚きのまま問いかけた。
「悪魔を知っているのか」
「はい、私は彼に鼻の骨と足の骨を折られ本国へ送還された者です」
あの噂の被害者かと目を見開いていると、医者は巾着を見て、かすかに肩を落とす。
「これを持って両親の元へ持って行くよう言われたのですか?」
「ああ、そうだが」
「私も同じ事を言われ、これを渡されそうになりました」
「…自分が痛めつけた相手にそんな大事なものを託そうとしたのか」
思わず呆れて物を言うと、医者は首を横に振る。
「私は衛生兵として同行していたのですが、あちこちの水が合わず度々上から吐いて、下からはくだるという有様だったのです。衛生兵だというのに自身の健康管理すらまともにできないのかと毎日のように制裁を喰らっていて心身ともに限界でした」
医者はその時のことを思い出したのか一瞬口を閉じてから、
「そんな時です、ずっと制裁を見て見ぬふりをしていた彼が『本国へ帰りたいか』と聞いてきました。しかしあなたも分かるでしょう、そこで素直にハイと答えると制裁を喰らいますから、いいえ、と返しました。すると彼は笑い『だったら帰らざるをえない理由をつけてやる』と言って、その数日後に私をひどく痛めつけたんです。恐らく彼は戦えないほどに私の体を壊し、強制的に本国へ帰そうとしてくれたんです」
医者はそう言うとかすかに笑い、
「立ち去る際、『残念だったな、名誉の負傷を受けられなくて。お前は国からの賠償金は受け取れないぞ、哀れな奴め』とせせら笑っていました、彼は」
それには思わず笑ってしまうと、医者は巾着を手に持ち、
「その際にこれを俺の家に持って行けと言われたのです。しかし嫌な予感がしたんです。戦況も悪くない時分にどうして家族宛の手紙を送付せず本国に戻る私に託そうとしているのか。
まるで戦死者の家へ遺留品を持って行かせるようではないか、もしや最初から家に戻る気もなく戦地で死のうとしているのではないかと。そう考え、それはご自身でお願いしますと丁寧に断ったのです、私は。それをあなたがお持ちだと言うことは…そういうことなのかもしれませんね」
笑いが引っ込んだ。
私は巾着を眺める。
「なんだ、それならこれは受け取らない方が良かったのか」
医者はかすかに微笑む。
「いいえ、私はこれを受け取らないことがずっと気がかりでした。もし巾着を託せる者がいないままその身に何かあった時、彼はどう感じるのだろうと。彼からしてみたら、あなたがこれを受け取ったことでひどく安堵したかもしれません」
しばらく考え込む。
それでもあの悪魔が安堵したかどうかも分からない。
なんせあいつは子供のころから何を考えているのかさっぱり分からない奴だったからだ。
正直いい奴でないことは確かだろう。だが…どうだろう、鬼だ悪魔だとずっと侮蔑してきたというのに、今となっては全く見方が逆転してしまった。そしてどんなことがあろうと、きっと無事に戻ってきて欲しいと心の中で静かに祈る。
しばらく巾着を眺めてから、ぽつりと呟いた。
「そういえば私はほんの数ヶ月あの人と同じ学校に通っていてな、あの人は自身の母が再婚するまでの名字は『鬼頭』だったんだ」
「ほう、お似合いの名字だ」
「私も子供の頃似合いの名字だと思っていた。だから招集されてあの人の新しい名字を聞いて、なんて似合わん名字だと思ったものだ」
「ええ、私も最初はそう思いました」
私と医者は軽く含み笑いする。
だが今となってはこの名字が一番しっくりくる。
あの人は鬼でもない、悪魔でもない。
私はあの人の名字を呟いた。
「『神』さん」




