第3話 前触れ
目が覚めたとき、相変わらず「師匠」は隣で日向ぼっこをし、のどかにベンチに座っていた。
「おや、お目覚めですか。おはよう」
私は口元のヨダレを腕でさりげなく拭くと、師匠に現在の時刻を訊いた。
「今ですか? 午後一時を少し過ぎたところですよ」
大して眠っていなかった事実に、私は驚いた。
「てっきり、今は夕方前かと思っていました」
まだ寝ぼけ眼でいる私の顔を師匠は一瞥すると、カカと笑った。
「そんなばかな。夕方ならば、私はあなたと二人でこのようにのんびりしてはいられませんよ」
「そういえば、今日はどちらに用があるのです?」
「お墓参りですよ」
「墓参り……」
「ええ」
それ以上、師匠はそれについて口を開こうとはしなかった。
そんなわけで、私たちの話は自然と違うものになった。
「最近、物騒ですね。世界的な地震なんて、大層珍しい。さては何かの前触れでしょうか」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれません」
「そうじゃない、というのは?」
「私たちが知らないだけで、この世界では常日頃何かが起こっているからですよ。
……今この瞬間、テロや大事件、もしくは今後の世界を脅かす何かが起こっていると考えれば、何かの前触れという言葉は非常にしっくりこないのです」
「なるほど」
「普段、みなさんが使う『何かの前触れ』というのは、しょせん私たちの観測範囲でしかないのです。
世界的に見れば、“娯楽小説を読み物にした子どもの事件”だなんて、たくさんある中の事件のひとつでしかないのですから」
「おっしゃるとおりです」
私が師匠に尊敬のまなざしを向けると、師匠は不自然にプイと顔をそらしてしまった。
私は何も言わず、公園にいる子どもたちのほうへと、ぎこちなく顔を戻した。
何か師匠の気に障るようなことでも、愚かな私は言ってしまったのだろうか。
そう思った瞬間、私は師匠から肩を叩かれた。
ギクッ、と私は恐る恐る師匠に目を向けた。
「どういたしました?」
「あれをごらんなさい。あれです、あれ……公園の砂場にいるおチビさんを」
「はあ」
言われるがまま、私は公園の端っこにある砂場をじっと眺めた。
砂場では幼稚園くらいの子どもがブルドーザーのおもちゃで無邪気に遊んでいた。
…………。
「あっ」
私は気づいた。
子どものそばで陽気に飛び回るハチに。
「大丈夫でしょうか、あれは。子どものすぐそばには親御さんがいますが、あの人たちはじっとして動かず、ただただ地面とにらめっこをしていますが」
「あれがいい例ですよ」
私は師匠をわずかに見た。
「例、ですか」
「ええ。おそらくですが、おチビさんの親はハチの存在に気づいています。しかし、おチビさんはハチがいることに気づかず、遊んでいる」
「……なるほど、道理で」
私は自分が浅はかな思考をしていることに気づき、思わず赤面した。
師匠をチラリと見ると、師匠はハチに襲われるかもしれない子どもからすでに目を離していた。
「親としては、このままハチが興味をなくしてどこかに飛び去るのを期待していることでしょう。
だからあわてず騒がない、かわいいおチビさんがびっくりしないよう、子どもには教えない」
「ふむ」
「あの二人の親は子どもの危機という前触れを察し、対策を講じています。
ところが、それを知る私たちはどうでしょう、のほほんとその様子を遠くから眺めているではないですか」
「……そのとおりです」
「以上のことから、世間一般で使う『何かの前触れ』という言葉は個人、または団体による観測範囲でしかないのです」
「よく分かりました、師匠」
師匠はつまらなさそうに鼻を鳴らすと、「大したことではないですよ、大したことでは」とわざとらしく咳払いをした。
それから私と師匠は公園をあとにし、それぞれの自宅に戻った。




