あの頃の君に伝えたい
あの頃は何にでも文句をつけるのが正しいと思っていた。
誰かが「これが好き」と言えば、「センス悪いね」と返すのが、まるで自分が上に立った証拠のように思えた。
本当は、ただ怖かっただけだ。
世界にあふれる「わからないもの」が、どうしても怖かった。
高校を卒業して、街を離れ、ひとり暮らしを始めた頃。
夜中のコンビニで買ったカップラーメンを食べながら、ぼんやりとラジオを聴いていた。
FMの深夜番組で流れた音楽は、正直ピンとこなかった。
でも、パーソナリティがその曲を紹介する声が妙に嬉しそうで、
「この曲を好きって言えるって、なんかいいな」
そう思った瞬間、胸の奥が少しだけ痛んだ。
かつて、自分が笑って切り捨てた誰かたちのことを思い出した。
あの頃、クラスで流行っていたK-POPも、街中でやたらと見かけたストリート系の服も、
自分には「わからない」ものだった。
だから、わからないことの代わりに「ダサい」と言った。
それで安心していた。
自分がその輪の外にいることを「誇り」だと思い込みながら、
本当はただ、輪の中に入る勇気がなかっただけだった。
大学に入ってから、ふとしたきっかけで、仲間に誘われてライブハウスへ行った。
知らないバンド、知らない曲。
最初は正直「素人くさいな」と思った。
でも、客席の隅で歌詞を口ずさむ人たちの顔を見ていたら、
その“くささ”の中に、生きてる人間の必死さが見えた気がした。
音程が外れてても、リズムが少しズレてても、
そこにあったのは「伝えようとする熱」だった。
それを“しょぼい”なんて言葉で切り捨てるのは、なんだか罪みたいに思えた。
人間って、わからないものを嫌うようにできてる。
でも、わからないからって、それを叩くのは、自分が成長を止めることだと今ならわかる。
「口に合わない」ものがあるのは当たり前だ。
でも、それを「不味い」と言って終わらせるのは、ただの怠慢だ。
味の奥にある“誰かの手間”や“誰かの好み”に、
ほんの少しでも思いを寄せることができるなら、
たぶん世界はもう少しだけ優しく見える。
ある日、職場の後輩が派手な紫色のジャケットを着てきた。
以前の自分なら、きっと笑っていた。
でもその日は、「似合ってるね」と言えた。
ほんの少し、心が軽くなった。
自分の中にまだ知らない色があるんだと、そう思えた。
多分、他人を笑うことって、自分の小ささをごまかす行為なんだ。
自分より下を見つけて安心する、その一瞬の快楽に依存して、
気づけば自分の世界を狭くしていく。
中学生の頃は、それでもよかった。
何も知らないのが恥ずかしくて、何かを知っているふりをしていた時期だから。
でも大人になった今、
あの頃の自分を見かけたら、そっと肩を叩いて言いたい。
「それ、ただわからないだけなんだよ」って。
今の僕は、わからないものに出会ったとき、
なるべく笑わないようにしている。
その代わりに、少しだけ考えるようにしている。
「これを好きな人って、どんな気持ちなんだろう」
「どこが良いって思えるんだろう」
そんな風に考えていくと、
世界はだんだん柔らかくなっていく。
まるで、長年閉じたカーテンの向こうから差し込む朝の光みたいに。
中学生の頃、あれほど嫌っていた世界の色が、
今では少しずつ好きになっている。
あの頃笑ってしまった誰かの好きなものが、
今は僕を支えてくれている。
きっと、世界を広げるというのは、
誰かの「好き」を否定しないことから始まるんだ。
そしてそれに気づけるのは、
あの頃を少し過ぎてからなんだろう。




