雛芥子は、雨の中咲く
気が付いたとき、あたり一面は、火の海だった。
覚えていない。ただ、そこにいた。どこかの屋敷。そして、火と、骸。あとは、血。とにかく、赤い。
恐怖と、わからないものに震えていた。何かをしてしまった。それだけ、覚えている。ただそれ以外が、まったくわからない。
足元に、男の骸。位の高そうな、若い男。襦袢だけで、胸から上が、火で炙られたようになっていた。
自分の着ているもの。開けた襦袢。やはり今、まさに。そうだ。それが、こわくて。それで。
でも、違う。私がやったんじゃない。
駆け出していた。とにかく外に。とにかく、ここから逃げなくては。
誰も彼もが、死んでいた。焼けて、炙られて、斃れていた。知った顔はない。そもそも、ほとんどの顔が、焼けただれていた。
外に出た。おそらくは庭園。やはり、火に包まれている。
誰かがいた。
「そこなお方。どうか、お助けあれ」
叫んでいた。
それは、動かなかった。背中を向けて、ぼうっと立っていた。
「何をしておられるか。どうか、ここから」
近寄ろうとした。そこで、気付いた。
人じゃない。
立ちすくんでいた。それは、人のかたちをした炭。未だ熱を持ち、ひび割れた肌のあちこちから、赤い炎をちらつかせた、人のような何か。
こちらを、向いた。
肺腑が割れるほどに。体も、動いていた。
何だ、あれは。人ではない、人のような何か。走っている間も、幾つか見かけた。ただうろつき、あるいは斃れたものに近寄って。
違う。何もかもが、間違っている。
「誰ぞ、誰ぞっ」
叫び。でも、誰も。皆、もう、いなくなって。
おそらくは正門。門は開いている。外に、出れる。
そこまで出た。出れた。ただ、そこまでだった。
「どうして」
ここは城だったのだろう。高いところの景色だった。
そして眼下は、同じような光景だった。とにかく、赤と黒。そしてあの、炭のような人のかたちが、生きた人を襲っている。聞こえるのは、悲鳴と、火の爆ぜる音ばかり。
灰が、雪のように降っていた。
1.
今が昼なのか夜なのか、それすらわからない。そんな日が、何日か続いている。
宮野屋は人を使って、何が起きているのかを探っていた。手下と保護できる人間は、空いているところを使って匿っていた。ひと月分のめしであれば用意できていたし、足りなければ、どこかしらから、ちょろまかして来ればいいだけだ。
表の顔は両替商だが、その元手は賭場から築き上げた。不良役人や僧侶どもを客とした賭場を開いており、そこに出入りしている連中に金を貸すこともやっていた。恩の貸し借りをやるためにも、取り立てはつとめて強くしなかったこともあり、奉行所や市井にも、ある程度の信頼を得られていた。
今、こういった異常な事態においても、人が頼ってくれている。ありがたいことだ。だからその恩は、返さなければならない。それだけは絶対に、忘れないことにしていた。
「宮さん、駄目だね。こりゃあ、どうにもだ」
店に入ってきたのは、そのうちのひとりだった。体中、灰だらけだった。
「雪が灰になっただけで、こうもなるもんかねえ」
「俺は役人でもないし、天気読みでもないからわからんよ。学者でもないしね」
「うちの奉行所も、やられてるみたいだ。中には入れなんだが、そもそも生きてる連中と会えやしない」
「伝さんでも駄目なら、駄目だろうさ。まあ、お入りよ。着るものは、今、持ってくるからよ」
女房のひとりに、めしと、着るものを頼んだ。灰だらけで中に入られても、お互い困るので、そこはこちらが格好を付けておこうといったかたちである。
伝を着替えさせてから、中に招いた。独り占めしていた手焙も近づけてやり、膳もひとつ、置いてやった。
この辺りの奉行所に勤める同心のひとりで、気が利いて、腕も立つのだが、何しろ金遣いが荒い。うちの賭場によく出入りしては負けたりして、金を貸していた。返ってくる見込みもないので、かわりに色々と働いてもらっている。
自分のところにも、膳が置かれた。湯漬けと、豆を煮たもの。それと菜葉とか豆腐を炒ったもの。全部、湯漬けの椀に入れて、混ぜ込む。箸を逆手に握りしめて、ざっとかっこんだ。
「宮さん。それ、止めねぇ。みっともない」
伝が顔をしかめた。これでも、それなりの家の出なので、案外、人のそういうところを見るくせがあった。
「食えりゃあいいんだよ。そもそも、人に出すめしでも無ぇ。贅沢を言っている場合でも無ぇから、時間も勿体無ぇ」
「まあ、こちらも頂いている身だから、とやかく言うのは野暮だろうけどよ」
「わかってんなら、まずは召し上がんなさいよ。そのうち、食えなくなるかもしれんのだから」
伝の膳には、鰯の干物と、梅漬けを足しておいた。それぐらいは、気を利かせている。
「ともかくまあ、地獄の底みたいな状況ってことだね。お天道さまが見えなくなって、灰の雪が降って、死んだ人間が炭になって黄泉帰ってだ」
「この辺りにまでは、まだ火が来ていないからいいものの、これからどうするよ?俺が言うのも情けないが、お奉行さまでもどうにもならんだろう。宮さんみたいな連中で、逃がしていくしかない」
「とりあえず、橘の港にまでは、たどり着けそうだ。そこから船で、那原あたりに行けるかもね。岸沿いなら、冬だろうが、そう荒れもしないだろう」
「船は動かせるのかい?操れるのが、いるのかね」
「いねぇよ。男ども総出で櫂漕いで、えっちらおっちらでやるっきゃないさ」
宮野屋がそう言うと、伝は額を抑えた。
「あんたはまあ、前向きだねえ」
「思いついたのを試さなきゃあ、前に進めねえもの。俺たち文無しは、体ひとつが財産なんだからよ。相続先を定めないまま死ぬぐらいだったら、使い切ってしまったほうが後腐れが無かろうさね」
「参りましてございますだ。それと、あの男女は?」
伝が話題を切り替えたので、こちらは煙管の用意をした。
「絶好調。今だって、生きてる人間やら、食い物やらを拾ってくるよ。一宿一飯以上を稼いでくれるから、助かってら」
「信用していいもんかねえ」
「渡世のもんを受け入れなきゃ、うちも筋が通らねえもの。向こうも目処が立ったとか言ってたから、そろそろ離れるんじゃねえの?顔も腕も性格もいいから、取り込みたいぐらいなんだけどね」
「いい性格、が正しいだろうよ。もしくは態度がでかい。あれでもう少し肉付きがよければ、使っちまおうって気にもなるが、痩せた男みてえなもんだからなあ」
「やめとけ、やめとけ。昨日も吾作だとかあのあたりが、手籠めにしちまおうって囲んだら、全員まとめて乾涸びるまで跨がられたってよ。それで向こうは、けろっとしてるんだもの。おっかねえ女もいたもんだよ」
最近、働いてもらっている、渡世人のひとりである。男みたいな格好をした女で、何しろ見目がいい。そんじょそこらの男以上に腕は立つし、めしも他に優先させるなど、心意気も素晴らしい。
ただ、素行に些か以上の問題があった。奔放なのだ。それも、男も女もお構いなしである。欲を出した男などは、泣かせるまでに搾り取るのだから、来てから二日もしないうちに恐れられた。逆に女どもは、きゃあきゃあ言って近寄りたがるのだから、寝所は毎日、大賑わいである。逆恨みした男どもが襲いかかることもあるが、どいつもこいつも、二刻もしないうちに、股と顔を隠して逃げ帰ってきた。
人を見る目は培ってきた。はじめて訪ねてきた日から、いくらか怪しいものは見つけれていた。だから女として扱うことは、してこなかった。ここまでひどいとまでは思ってもいなかったが、それでも女どもには、いい発散になるのだろうと、目を瞑ることにしていた。
そうやって、お互いで悪態を交わしているあたりで、表が騒がしくなった。どうやら何人か、中に入ろうとしているようだった。
「親分。ふた家族、連れてきた。だがあいつら、もう近くまで来ている」
田介の声である。
「わかった。中に入れろ。動けるやつは、とにかく長いものを持たせな」
「やるのかい、宮さん」
伝の問いには、答えなかった。
立てかけた槍。そのあたりで拾ってきたもの。がきの頃、槍術の道場で奉公をしていたから、見様見真似ではあるが、使えるほうだった。使ってみてからわかるものだが、刀は色々と、面倒である。
「求時雨さんも一緒だ。戻ってきてる」
「よし、それなら安心だ。田介は逃げる準備だけ。女子どもに、まとめるもんをまとめさせろ。灰は吸わせないようにだけ、注意させな」
「親分。どうか、気を付けて」
田介は体が大きいが、気が強くない。その分、人を安心させるものを持っている。内向きの人間であるから、そういうことは、任せやすかった。
外は寒い。ただ、着込むのも面倒だった。それでも羽織と襟巻、それと山付きの手甲ぐらいはしておいたほうがいい。それと編笠。とにかく、灰である。それで肺腑をやられたものすらいるのだ。
あれとは、何度かやり合った。近寄ったら、焼かれる。言ってしまえば、火に巻かれた人間だ。近寄らせず、叩き伏せるしかない。
「水。山ほどいる。井戸から汲んどけよっ」
それだけ告げて、外に出た。
出て、右手。群れが見える。数、およそ三十はあるか。
不死火人。あの女は、それをそう呼んでいた。黄泉帰った骸。それも、体のそこかしこから火を吹いているものである。
「すまんね。大橋で踏みとどまれなかったよ」
鈴の音のような声。背を向けたままのそれは、言った言葉とは裏腹に、おどけた口調だった。
「大健闘だよ。たまにゃあ俺たちも、体を動かさないとな」
「そう言ってくれるなら、ありがたい」
腰に佩いた太刀。鍔に、指がかかる。
「それじゃあ、行こかい。咲香月」
鈴の音が、二歩、踏み出した。
ひび割れた箇所から火を覗かせる、黒い肌。それが、求時雨の細い肢体に、もたれかかろうとする。抱きつかれれば、生きたまま焼かれる。
それを掠めるように避け、太刀を抜いた。
振り抜く。ひとつ、胴からふたつに。そして舞うようにして、もうひとつが、足を刈られる。そうやっていくつもの不死火人を、斬り伏せていく。
求時雨。男の格好をした女。おそらく唯一、現状を把握している人物。化け物どもを、一方的に斬って捨てるほどの腕を持つ剣客。そして何より、それらより恐ろしく、不気味な女。
頼るしかないが、魅入られてはいけない。それだけを、宮野屋は腹に置いていた。
宮野屋たちは、漏れ出て前に出てきた不死火人らを、槍や長柄の棒でぶっ叩いた。近寄らせたら負け。突き刺しても、負け。とにかく、這いつくばらせる。ひと段落したら、桶を持った連中に、水をぶっかけさせる。そうするとようやく、動かなくなる。燃えかすの骸に戻る。これも求時雨から教わったことだった。
求時雨は、不死火人たちの中で踊っていた。よろめきながら襲い来るそれらを引き付け、躱し、斬り伏せていく。鮮やかさに、見惚れるほどだった。
不思議とその体には、灰は残らなかった。
最後のひとつ。倒れ込むようにして、宮野屋たちの方に駆け寄ってきた。叩き伏せるには、早く、近すぎる。
「突き出せっ」
棒と穂先が、どてっ腹にぶっ刺さった。熱が、伝わってくる。傷から、火が吹き出ている。槍ごと、燃やしにかかるつもりか。
だがそれも、すぐに終わった。縦一文字。その身体が、綺麗に裂けた。
その向こうに、求時雨の、太刀を収める姿だけが残った。
「家屋に火が移ってないか。それと、燃え残りがいないかを確認してくれ。途中、人がいるようであれば、連れてこい。こうなったら、大橋は焼いて落としてもいいだろう」
ひとしきりを見ながら、宮野屋は男たちに指示を出していった。火が残っている骸に、水をぶっかける音。建物は、どれも無事そうだ。このあたりの家屋からは、色々と頂戴した後なので、今更、入り込む必要もない。
「宮さんにも手間を掛けさせてしまうとは、申し訳ないね」
求時雨は余裕たっぷりに、紙巻をふかしていた。
「構わんさ。むしろ、人を連れてきてくれた。幾つか話を聞いたら、ここを引き払う。橘から船で、那原あたりに向かうとするよ」
「そのあたりなら、多分、無事だろうね。私もお目当ての居場所について、見当が付いた」
「そうかね。それじゃあまあ、ここまでか。それでも、めしと、寝るぐらいはしていきな」
「ありがとさんにございます」
宮野屋と同じぐらい上背のある、美貌だった。佇まいは男のように見えるが、声と顔は、やはり女であるというのを教えてくれる。
幾曽馬求門長平の娘、時雨と名乗っていた。だから、求時雨だそうだ。どういうわけか、あの不死火人とかいう怪異の事を知っていて、しかも、それを倒す術も、心得ていた。
そして求時雨の斬った骸は、これもどうしてなのか、すぐに火が消えていた。水で火を消さずとも、斬るだけでそれができた。
信用はしていなかった。だが現状、これしか頼るべきものがいないのもまた、事実だった。だから、めしと寝床を与え、代わりに周りの状況を把握させるということを頼んでいた。そしてこれも、誰よりも結果を出していた。
何かを知っている。ただ、宮野屋たちにとって、どうしようもないことであろうが。
店に入って、全員を着替えさせた。灰を落とすための洗濯にも、相当な労力がいる。女たちも皆、疲れ切っていた。
やはり求時雨だけは、灰に塗れた様子はなかった。その白く褪せた髪を、軽くほろうぐらいである。
「酒を拾ってきてる。田介さんに渡したよ。皆に配ってやんな」
求時雨の言葉に、田介が幾つかの酒壺を持ってきた。
「こいつは助かる。ひとつふたつは、お前さんが飲みな」
そう言うと、その口元がいくらか綻んだ。
こういう状況での、唯一の楽しみである。本当は役人どもが機能して、人心を慰撫できればいればいいのだが、現状、それは伝ぐらいしかここにはいない。そしてあれは酒を過ごしやすいので、もっとよくない。
何回か酌をしてやった後は、手酌でやりはじめた。身体は細いが、かなりの大酒飲みで、赤くなることすらない。めしは他に渡すので、酒と漬物だけで身体を動かしているといってもいいようなものだった。
「一応、聞くが」
煙管をふかしながら、宮野屋は尋ねてみることにした。
「今の状況、お前さんはわかっているみたいだよね?」
問いに対し、梅漬けをかじりながら、求時雨は頷いた。
「無いとは思うが、お前さんが関係しているのかい?」
「知っているってだけさ。そして、それの対処をやるのが、うちの一門の役目だ。代々なのかは知らないがね」
いつもどおり、飄々とした口調だった。
「大火とともに、骸が黄泉帰る。今のお家が城に入ったあたりから、そういう怪談話は、聞いたことがあるだろう?」
「日長法師ってやつかい」
顔をしかめながら、それだけ答えてみた。
確かに、そう言った話は聞いている。今のお家が天下取りを為した後から、このあたりで大きな火事が起こることは度々あった。あるいは、ここから見えるであろう巫岳が火を噴いて、その底にある地獄の蓋が開いただの、前の天下人の恨みがそうさせていただの、色々な噂が飛び交っていた。
ともかく、大火と共に怪異が現れる。火を纏った生ける骸と、それを率いる化け物。この地に根ざした僧侶の怨念、日長上人、あるいは日長法師と呼ばれるものが、火を熾すのだと。
「骸は、火で清める。それでも魂は、焼け残るものなのかね?」
怪談話は怪談話として、宮野屋は求時雨に尋ねた。この怪談話やら噂やらについて、前々から不思議に思っていたことのひとつだった。
「そこまでは、私もわからない。ただ、どいつもこいつも、見覚えのない顔だと思うよ。あれらの中に、おっかさんやお爺さんの顔を見たことはないだろう?」
「確かに、そういう話は聞かねえな。だから遠慮なく、ぶっ叩けるっていうのもあるだろうが」
「どうやら死んだ連中とは直接の関係がないこと。それと、火を源として動いていることから、あれを不死火人と呼んでいる。そして、その火を消す方法を編み出してきた。それが私ら、幾曽馬の一門さね」
そう言って、求時雨は微笑んだ。
「火消しにも、町火消に武家火消、定火消もいれば、私らみたいなものもいるってだけの話さね。あるいは今、そいつらも、どこかかしらかで頑張っているのかもしらんがね」
言われて、ため息ひとつ、煙管をふかした。向こうも、紙巻に火を灯していた。
にわかには信じがたいし、信じたところで、やはり自分たちにはどうしようもない話である。
「武運長久を。薪が足りんから風呂は沸かせんが、身を清めるものを用意する。それで、休んでくれ」
「それも、調達済みでしてね」
目を細めながら、求時雨が笑った。
「またちょっと、五月蝿くするよ。ごめんなさいね」
言われてきっと、苦い顔をしたのだと思う。
それじゃあ、おやすみ。そう言って、求時雨は離れていった。大部屋の方から、女の泣いて感謝する声、驚きの声、そしてちょっとした嬌声のようなものが聞こえてから、静かになった。
腕の立つ用心棒であるから、求時雨の寝所は、宮野屋の隣の部屋にしていた。そこで今から、大汗をかくようなことをおっぱじめるつもりだ。声の数から、二、三人。それもきっと、今日、拾ってきた女が主だろう。
男装の麗人。腕は誰よりも立つ。仁義と恩義に欠くことはない。現状を理解している。ただ何より、奔放が過ぎる。
信用に足る人物と捉えるべきか、いつだって判断に難しかった。
「今日もここで寝る。布団、持ってきてくれ」
控えていた女房に、それだけ伝えた。
2.
ひと眠りしてから、こっそりと店を出た。
宮野屋には、十日ほど世話になった。金は渡せなかったが、義理に報いることぐらいはできたはずだった。賭場の元締めという、阿漕な商売をしていた悪党ではあるが、話は通じるし、ある程度の無茶も聞き入れてくれた。
何より、楽しめた。特に女。子を産んだものが多くいた。これは熱の量が、他のものとは違う。声も反応も、産む前のものとは大違いだ。腹をさすってやるだけで、気をやるものすらいた。
男なら、年若い、生のものがいい。おだてて褒めそやすだけで、夜通し気張ってくれる。年嵩のいった男は、口ばかりが達者で、すぐにへたばる。宮野屋に何人か見繕ってもらうよう頼んでみたが、ひどくいやそうな顔で難色を示された。
身を清めるには、汗をかくのが一番良かった。風呂もいいが、人の熱でかく汗が、たまらなく好きだった。
不死火人とのやり取りでは、汗は流れない。張り詰めているから、身体が凍えていく。それをほぐすためにも、人と交わりたかった。
厄介な役目を受け継ぐ一門に産まれた。
兄がいたらしいが、幾つもしないうちに死んだという。だから自分に役目が回ってきた。大きくなってから知ったことだが、知る人ぞ知るといった程度の家柄でもあるので、どこかに嫁ぐよりなら、役目に従って生きたほうがましだったのだろう。
時雨と呼ばれることは、少なかった。気に入った名でもなかった。人の名前という感じがしなかったから、自分が人かどうかも、今の今まで、あまり感じたことがなかった。
大火を鎮める。誰かが熾した火を、そのものごと。それが、幾曽馬一門の役目。その役目そのものとして、生きてきた。人ではなく、役割として。
だから役目も、さしたる緊張もなく進めれているのだろう。不死火人の熱を斬るときの、凍えるものだけが、いやに思えるだけで。
城の麓までたどり着いた。この中に、火を熾したものがいるだろう。
「行こうか、咲香月」
呼びかけて、太刀を抜いた。
咲香月の刀身は、濡れそぼっていた。生命を預けると決めると、不思議と水を纏うのである。それが、火を纏う不死火人たちや、これから出会うであろう、火を熾したものへの、最大の武器になる。
正門までの道も、きつい坂で、入り組んでいた。兵はすべて、炙られて死んでいた。ならばここにも、不死火人どもは、はびこっているはずだ。
後ろに気配。通ってきたはずの道。それでも、どこかしらかか、湧いて出てきた。熱。ならば、不死火人。
振り向きざまに凪いだ。手応えは無かったが、火の燻る音が響いた。五体。うちふたつは、今、斬り伏せた。引き付ける引き付けて、すれ違うようにして切り倒していく。
振り向いて、正面。火に塗れた人のかたち。ただ不死火人とは、また違う。
「おっ母」
赤と黒の中、瞳だけが、見えた気がした。
すれ違いざま、斬っていた。肉の感覚が、はっきりと手に伝わった。生命の感覚も。
「私は、あんたの母じゃない」
倒れても、まだ動こうとするそれの延髄に、切っ先を当てた。
「でも、眠らせてやることだけは、できるから」
少しだけの力で、済ませることはできた。
肉の焼ける臭いが、鼻に突き刺さった。
「行くよ、咲香月。私の分も、泣いておくれ」
刀身を払い、また、前に進んだ。
酒壺をもうひとつ、貰っていた。それを煽りながら、歩を進めた。
酔いはしない。それでも酒気は、いくらかでも気を紛らわすことができた。もしかしたらずっと、酩酊の中にいるのかもしれない。そう思ったほうが、気が楽だった。
荒んでいた。いつしか、めしの味もわからなくなった。だから食う気も失せ、酒か煙草ばかりを口にしていた。
弔い。鎮魂。何とでも言える。やっていることは、人のかたちを斬り、終わらせていくこと。それは結局は、ひとごろしのやることである。
人のやることではない。
城の中に入る。所々で火が上がっているが、焼け落ちた感じはない。床もしっかりしていて、崩れる雰囲気はない。事態からかなり経っているはずだが、案外、頑丈なものである。
見取り図は貰っていた。おそらくは一番奥の、後宮。女どもの住む場所。
火は、産まれてきたものとともに熾る。そう伝えられていた。つまりはどこかに、赤子がいる。
「そこなお方」
不意に、呼び止められた。生きた、女の声である。
「そこなお方は、生きたお人か?」
少しだけ開いた襖の向こう。物置だろうか。
「生きている。れっきとした人だよ。お嬢さんも、人のようだね」
それだけ答えると、襖の向こうから、泣く声が聞こえた。
注意深く、開ける。
まだ年端もいかない、若い娘だった。顔を覆うこともなく、泣きじゃくっている。黒い髪は解け、着ているのは、開けた襦袢だけだった。
「隠れていたのかい?偉いこだ。大事ないか、身体を見せておくれ」
「いやじゃ、離れられよ。妾は、何もかもを」
「身体を見るだけだよ、ほら。おいで」
その手を取った途端、違和感があった。
熱い。解けた鉄と思うような、煌々としたもの。
思わずで、手を離していた。焼けても、爛れてもいなかった。咲香月に生命を預けていたから、よかったのかもしれない。
「もしかして、お嬢さんが?」
きっと、震える声だったと思う。
周囲に不死火人がいないことを確認しつつ、近寄った。焚き火に寄ったときのような、熱を感じる。
「何も覚えていない。ただ妾は、こわかった。身を預けるのが、きっと、こわくて。それを、拒もうとして」
「男に、触られたのかい?こわかっただろうね。そういうことは、思い出さなくていい。名とか、産まれとかは、わかるかい?」
「何も、何も思い出せない。気付いたら、燃えていた。きっと妾じゃ。最初は違うと思っていた。それでも、妾がこわがるたび、火は増し、あの燃えている人のようなものも、増えていった」
泣きじゃくる娘を前に、きっと難しい顔をしていたと思う。
火の熾り。それは、ある生命の目覚めと共に訪れる。一門の中で、そう言い伝えられていた。
雛芥子局。人にあらざる、人でなし。産まれ出たとき、炎を撒き散らし、そして火を纏う屍、不死火人を産み出す。そしてすべてを焼き払った後、人として生き、人と交わり、そしてまた子を生す。それを繰り返す、生と死、そのものを表す炎。
これはその、出来損ない。子を成すための行いに怯え、子のために育んだ火を熾してしまった。だからすべてが焼き払われることもなく、灰の雪と、不死火人を招くだけに終わった。
これが生きている限り、この都も、この国も、この現世すらも。長き時間の果てにさらばえて、滅び行くのみ。
可哀想だが、殺すしかない。それに、赤子を殺すよりかは、幾分かましだ。
「目を、瞑ってくれないかい?」
それだけ、つとめて穏やかに頼んだ。それでも、その身体はびくりと跳ねた。
「妾はやはり、咎あるものなのか?」
「そうなる。すまないけど、生きてるだけで危険だ」
告げた言葉に、小さな体が震えはじめた。
「いやじゃっ」
轟音。火の粉が、舞った。
不死火人。床から、生えてきた。二十ぐらいはいるだろうか。猛然と、襲ってきた。
やはりこの娘が、そうなのだ。
幾つかのそれが、身体に抱きついてきた。しがみつき、歯や爪を立ててきた。
それでも、何も感じなかった。装束にも、火は燃え移らなかった。
「お前さま。どうして、燃えぬのじゃ?」
その様子を、雛芥子局は震えながら見ていた。
「私も今、骸みたいなもんだからね」
言ったのは、それだけだった。
咲香月が、閃いた。しがみつき、遮るものを斬り倒した。襲い来るものの胴を薙ぎ、あるいは首を飛ばした。
熱も、ささやかなものしか感じなかった。
「咲香月に、生命を託している。そうしている間、私の身体に生命はない。だから、燃えもしないし、傷つこうが、血は出ない。咲香月が今、私だからね」
仕組みは知らない。だが、そういうことらしい。
火を鎮める中で、幾曽馬一門はいくつか見つけていた。雛芥子局や不死火人の火は、肉ではなく、生命を薪にして燃える火だと。人を焼くとき、その人の生命を燃やし、内から焼くものだと。
この咲香月は、それを鎮めるためのものだった。使い手の生命を託し、火を鎮める水を纏う。託している間は、使い手の身体からは生命がなくなる。つまりは骸になる。
生ける屍となりながら、火を鎮め、火を祓う。それが一門の役目。
不死火人は、どんどんと湧いて出てきた。雛芥子局の言葉通り、恐れを感じることで、それは現れるのだろう。ひとつの防衛機能だ。
雛芥子局は、逃げ出していた。立ちはだかる、燃える骸を斬り伏せながら、追いかける。討ち漏らしてはいけない。殺さなくては。
心を殺してでも、殺す。この世の巷のために。
それが曲がり角を曲がった途端、悲鳴が上がった。不死火人たちも、そちらに向かっていった。
「何があった」
思わずで、叫んでいた。角を、曲がる。
視線は自然と、上がっていった。それぐらい、それは大きかった。不思議と、恐ろしさは感じなかった。
長大な痩躯。折り重なった骸のようなもの。黒く汚れた襤褸を、あちこちにぶら下げていた。
「火じゃあ、火じゃあ」
へたり込んだ雛芥子局を守るようにして囲む不死火人たち。それは、そいつらに細長い手を伸ばし、掴み取っていく。そうして順に、腹の部分に開いた、大きな口の中に放り込んでいく。
化け物を食う、化け物だった。
「おお、乾くぞ。土に還れぬ我らが身が、乾いていく。本物の、火ぞ。ついに見え申した。ああ、我らが終わりよ」
不死火人を喰らいながら、それは嬉しそうに声をあげた。
「止めなよ。お嬢さん、こわがっているだろう?」
求時雨は言いながら、雛芥子局の前に立った。
それは、ひとしきりを食べ終わってから、居住まいを正すようにした。体からは、対の崩れた細い腕が、何本か生えている。
「もしや、幾曽馬殿の、ご一門かね」
深く、響き渡った。穴の中で響く、水滴のような音だった。
「ええ。お互い、はじめましてになるだろうけど、存じているよ。日長さんだっけ?」
「然り。我ら、火に清められず、土に還ることもできぬ骸なり」
声は、顔のあるべき場所から聞こえたが、その顔は、逆さに吊るされていた。
逆さ首、日長法師。火が熾るたびに現れる、怪異のひとつ。
「火が熾るたび、我らもまた、目覚める。灯された火に導かれ、この身を乾かし、燃えて消えるために」
「ちゃんと死にたいってことで、いいかしらね?」
「然り、然り。あるべきかたちになりたい。火の熱が、そうさせてくれる。火から生まれるものどもが、我が身を乾かし、死で満たすように」
逆さに吊るされた首が、涙を流していた。
おそらくこれは、あるべき姿で死ねなかったものたち。
「だから、そのお方を抱かせておくれ。我が身を乾かし、焦がさせ、灰にさせておくれ」
「どうだろうね。このお嬢さんは、そこまで理想的なものでもなさそうだよ?徒にこわい思いをさせるのは、こちらとしても本意ではないし」
どうしてか、構えていた。
おそらくその本懐を遂げようとすれば、雛芥子局は恐れから、より大きな火を熾すだろう。
それは、より甚大な滅び。だから、食い止めなければならない。自分が雛芥子局を鎮めることを、成さなければならない。
「幾曽馬求門長平が娘、時雨。火を鎮めるは、この咲香月さね」
腕、二本。横から飛んできた。受け流そうとしたが、そのまま体ごとふっ飛ばされた。咲香月から、痛みが流れてくる。立て直し、這うようにして、懐に飛び込んだ。開いた口に、一文字でぶち込む。
刃が、通らない。纏った水が邪魔をするのか、あるいは向こうも、湿り気を帯びているからか。
「無駄じゃ、無駄じゃ。その刀の本質は、我らが骸と同じがゆえに」
日長法師の声は、いくらか悲しそうだった。
「幾曽馬殿とは、幾度となく敵と味方をしてきたゆえ、知っておる。それは涙の刀。悲しみで火を鎮めるもの。なれば同じ。死ねぬ悲しみを負う我らもまた、涙で湿っておるがゆえに」
「理屈はわからないけど、そうみたいだね」
「ゆえに、そこを除け。我らが大願のため」
「こっちも、そのために生きてきたんだよっ」
通らない刃を、何度も叩きつけた。そしてその腕で跳ね除けられ、放り投げられ、叩き伏せられた。
火を鎮める。この生命に与えられた選択肢は、たったそれだけ。そのためだけに生きてきた。すべてを選ぶことを許されず、ただ無為に、人のかたちを殺め続けてきた。
これが無くなったら、今まで生きてきたものは、一体、何だったのか。
吠え声。逆さ首の付け根。振り抜いた。振り抜いたつもりだった。固い。それで、隙だらけになった。
「哀れなり。同じ定めを負ったがゆえに」
二部屋ほど、吹き飛ばされた。
立ち上がれない。咲香月も、乾いていた。それは、託した生命が終わりゆくことを示していた。
「お前さま、どうして」
誰かが、近くにいた。雛芥子局だった。
「どうしてなんだろうね」
涙を流す頬に、手だけが伸びていってくれた。
「きっとお嬢さんを、殺したくなかったのかも」
「お前さまは、それがお役目なのではないかえ」
「そうだけどね。なんだか、可哀想になっちゃってさ。私も女だから、女としてのつらいこととか、こわいことが、伝わっちゃったのかもね」
思いついたことを、言ったつもりだった。
実際、女として生きることを許されてはいなかった。だから、つらいことも、こわいことも知らなかった。むしろ、知ってみたかった。それぐらい、女とは、あるいは人とは無縁の生と、骸としての生を歩んできた。
役目も咲香月もなく、ただ人として、生きてみたかった。
雛芥子局の涙。温かい。手に、熱が伝わってくる。骸同然の体に、それが染み渡る。体の中に、朝日のような穏やかなものが、広がっていった。
このままきっと、眠るのだろう。
ふと、咲香月が潤いを取り戻しているのに、気付いていた。
体が、動く。痛みも引いている。
「お嬢さん、何かしてくれたのかい?」
驚いて、声を掛けていた。目の前の娘は、何もわからないといった風に、ただ泣いていた。
これが、火の力。火が持つ、生命の熱の力。言い伝え以上の、何かがある。
ならば、試してみるのもいいかもしれない。
「ありがとう、雛芥子。そして」
開けたところから覗いた膨らみの上に、切っ先を突き立てた。
「ちょっとだけ、痛むよ」
一気に。
身体すら持っていかれるほどの、熱。刀身に纏った水が乾き、湯気が立ち込めている。預けた生命が、沸き立っている。
その小さな身体。背中から、咲香月の刀身は、見えなかった。
思いつき。きっと、行ける。このこの熱で、咲香月を磨く。
「お前さま、お前さまっ」
「大丈夫、耐えれる。雛芥子もどうか、堪えて」
「妾はよいのじゃ。お前さまが、燃えてしまう」
「燃えて盛って、笑ってみせるさ」
生命そのもので、微笑んだ。
引き抜く。そのままの勢いで、巨大な骸に叩きつけた。
「なんと」
歓喜の声。
「これが、生命の熱。我らを死に導く、本当の火よ」
「そこまでは知らないよ。ただこれで、引導は渡せそうだね」
咲香月の刀身は、沸騰していた。溶岩のように脈動し、眩しく輝いていた。
鼓動が五月蝿い。汗が、滝のように湧いてくる。預けた生命が燃え盛り、火を吹いている。
雛芥子局の火。そして、私の生命。これで、焼き切る。
何本かの腕。刀身でいなすだけで、焼け焦げ、溶け落ちた。そのたびに日長法師は、喜びの声を上げた。腹に開いた口。そこに、突き立てる。焦げる匂い。抱き込むように、牙のような肋骨が閉じてくる。それならばと、その口の中に飛び込んだ。
一瞬の、暗闇。それが開けた。骸の背中を、突き破っていた。骸ではなく、沈香に近い香りだった。
「死ぞ、死ぞ。分けたもれ。我らに、授けたもれ」
「だったら、大人しくしなよっ」
飛んでくる腕をはたき落としながら、進んでいく。それでも幾つかが、身体にぶち当たった。叩き伏せられる。
「お前さま」
雛芥子局が駆け寄ってきた。抱きつかれる。熱い、いや、温かい。咲香月で、いくらか火を鎮めたからか。
また、感じた。生きてる。生命が、癒えていく。
「ありがとう、行ける。雛芥子と、私。咲香月に、乗せていける」
痛みは、すぐに感じなくなった。託した生命が、膨らんでいく。
熱が、私の生命を大きくしている。
理屈は知らない。それでも、信じる。そうすればそれが、力になり、生命になる。
立ち上がる。咲香月から滴るものは、もはや溶けた鉄そのもののように、白く輝いていた。刀身もまた、炉から引き上げたばかりのもののように、煌々と光を放っていた。
「時雨の後、稲妻が春を呼び」
正眼に、光るものを構えながら。
「花を、咲かす。赤く可憐な、雛芥子の花を」
喝。
踏み込む。覆いかぶさる、黒い骸の姿。その、逆さに吊るされた首。
それを、払った。
「おお」
首だけのそれは、喜びに叫んでいた。
それを拾おうとした体もまた、引き裂いた。背に飛び乗り、浮かぶ背骨に、咲香月を、根本まで。
沈香の香り。骸の身体が、乾いていく。巨躯が、うつ伏せに倒れ込んでいった。
「ああ、温かい。これが、火の熱。我らが望んでいたもの」
その首は、雛芥子局に抱かれながら、涙を流していた。
「どう、死ねそう?」
「わからぬ。死んだことなど、ないがゆえに。産まれたときから、骸だったがゆえに。生き損ない、法師だの上人だのと呼ばれ、ただ畏れられてきたがゆえに」
疲れ切った声だった。
これもまた、自分と同じように、ただそのためだけに生きてきたもの。火にめぐり逢い、それに焼かれて終わるためだけに、荒んだ道を歩んできたもの。
同じように、不確かなものとしてしか、生きてこれなかったもの。
「それでも、眠れる。この、温かさの中で」
痩けた、骸の顔。男か女かも定かではない。ただ、穏やかな表情だった。
「上人さま」
ぽつりと、その頬に。
雛芥子局が、涙を流していた。
「どうか、おやすみなさいませ」
一言と共に、雛芥子局は、その首をひときわに抱きしめた。
「おやすみなさい、母さま」
柔らかな声だった。
それで少しずつ、その首は、灰のように崩れていった。
3.
目が醒めたとき、正面に美貌があった。それで、飛び起きた。
城のどこかだと思う。布団の中で、ふたり、抱き合って寝ていた。
時雨は裸だった。寝ながら、汗をかいていた。雨に打たれたと思えるほどであり、その様は女の目から見ても、いやらしかった。
空は、明るい白だった。灰ではなく、しんしんと雪が降っていた。火も鎮まっていた。城だけではなく、眼下に広がる街のものも。
恐ろしい日々が、終わった。きっと、そうだ。
不死火人たち。いくつかいた。斃れたものたちに寄り添い、それを抱きかかえ、火を昇らせる。そうやって共に、灰になるまで燃えていく。
こちらをみとめた。火の中、表情は見えなかったが、きっと穏やかな笑みだった。
あれは本来、そういうものなのだろう。
中には何もせず、ぼうっとしているものもいた。声を掛けると、聞く姿勢を見せてきた。布だとか、なにか羽織るものを見つけてくるよう、頼んだ。もしくは他のものがそうしているように、亡くなったものを、その火で清めるようにと。
すべて、聞いてくれた。言った通りのものを探して、持ってきてくれた。不死火人の熱で、それらは心地よい程度に、温められていた。
小袖一枚だけ、自分の体に纏う。寒くはなかったが、襦袢一枚で歩き回るのは、恥ずかしかったから。
庭先に、何かいた。悍ましい姿ではあるが、こわくはなかった。
その大きな姿は、こじんまりと座り込んでいた。細く長い、何本かの腕を、燃えゆく骸たちにかざしているのが、なんだか可愛らしかった。
「死ねなかった」
日長法師。ぼんやりとこぼした。切り落とされ、灰になった逆さ首は、見当たらなかった。
「其処許の火は、温かかった。心地よかった。まだ生きたいと思うほどに」
「上人さまは、死ぬためだけに生きておられたのですか?」
「然り。心の目覚めたときから、骸ゆえに。理の外にいるのが、つらかったがゆえに」
隣に座った。
襤褸を纏った、大きく、痩せた骸。その長い背を丸くしていた。首は無くなっても、その声はどこかから聞こえた。
「其処許の火は、我らが身を死出の道に導くものに非ず。死と生、その輪を成すものなり。我らはその死の側面ばかりに気を取られ、本質を見誤った。我らが宿願は、もとより間違っていたのだ」
「おつらい思いばかりを、させてしまいました」
「いや、むしろ礼を申し上げたい。幾つもの気付きを得た」
首のない体だが、こちらに目線を合わせてくれた気がした。骸の臭気はしない。沈香のような、落ち着く香りだった。
「我らもまた、理の内にあり。どこかにある、真の死に向かう、生命のひとつなり。この骸のかたちは、かたちに過ぎぬ。なれば、正しく生きるだけなり」
「そういう生き物として、生きるのですね?」
「然り。かたちに気を取られず、心を持つものとして生きる。陽の光の中、灯火に手をかざし、生命あることを、ありがたく思いながら」
優しく、落ち着いた声。怪異の声とはとても思えないほど、穏やかに染み渡った。
「其処許も、そうするといい。在り方を疎まず、悔やむことなかれ。在るように在れば、それを理解してくれるものは訪れる。今、其処許が、我らにそうしてくれてるように」
静かに、頷いた。向こうも、そういう風にしてくれた。
骸たちの火が消えかけていた。室内に手焙があったので、それに火を熾して、側に置いてあげた。
「温かいのはいいなあ。心が安らぐ」
柔らかい言葉が返ってきた。
寝室に戻る。時雨が起きていた。汗をかいて、寝冷えしたのだろう。いくらか、くしゃみをしていた。
抱きついた。それで、その顔は綻んだ。
「お前は、温かいね」
白い肌に汗を浮かべながら、時雨は笑ってくれた。
汗を拭き、持ってきたものを掛けてあげた。襦袢もあったので、それから順に。普段、そういった格好をしないからと、少し恥ずかしそうだった。
肌も体も、見惚れるほどだった。熱で赤みを帯び、汗の滲んだ肌の照りに、目を焼かれるかと思った。
「お前さまは、妾を雛芥子と呼んだ」
「そうだね。私らはお前の血族を、そう呼んでいたから」
「覚えていることは、何も無い。気がついてから今まで、こわいことばかりだった。ただその名前だけは、好きになった」
目を合わせた。涼やかな、切れ長の目。羨ましいぐらいに、麗しい顔つき。
「そしてきっと、お前さまのことも」
「ありがとう、雛。私もきっと、お前のことを、そう思ったんだろうね」
微笑みに、心が熱くなった。
雛芥子、そして、雛。それが、私の名前。時雨が与えてくれた、今、ただひとつの持ち物。
そして、これからはじまる生涯の、ひとつめの宝物。
「里に戻る。雛のような例は、はじめてだから、色々と調べなきゃいけない。雛が、ちゃんと人として生きれるようにするためにね」
「妾は、生きていてもよいのかえ?」
「うん。そもそも私、ひとごろしなんて、したくないもん」
時雨の細い肢体が、後ろから抱きついてきた。心がいくらか、跳ね上がった。
覗き込んでくる。きれいな顔。幾つぐらいなんだろう。白く褪せた髪は、それでも艷やかだし、顔の作りは、大人の女の人、そのものだった。
「それに、こんなに可愛いお嫁さんを迎えれたのだもの。添い遂げて、幸せにしてあげないとね」
言葉だけが、耳に入った。その意味は、理解しかねた。
瞳。本気でそれを言っている。それだけは、理解できた。
「お前さまは、女子であろう?妾もまた、女子ぞ?」
「いいじゃん。両思いなんだから。それに女同士なら、子も成さないから、火も熾らないしね」
すっと、時雨の右手が、衣の中に入り込んできた。
「体の熱が高いと、よく感じるんだってさ」
腹の上。指先で軽く、押された。瞬間、何かが迸った。
目を合わせる。頬がほんのり赤い。悪い笑みを浮かべていた。
「上人さまが、外に」
「あら、生きてたんだ。じゃあ、声だけ我慢ね。大丈夫。痛くないし、すぐ終わるから」
「いやじゃ。ひどいこと、しないで」
割るようにして、もう片方の手が、口を塞いできた。覗き込んでいる顔が、一度、視界からいなくなった。
「お前さまだなんて呼んでくる雛が悪い。どこで覚えたんだい?そんないけない言葉。ずっと疼いて、大変だったんだよ?」
鈴の音が、耳元で囁いた。それが、背筋にまで走った。
「悪いこには、お仕置き」
指が、腹を小刻みに押してくる。ただそれだけなのに、身をよじってしまう。名を呼んでくる。鈴の音が、囁いてくる。それだけでも耐えて、拒んでいるのに。それが、体中に響き渡って。
頭の中。爆ぜた。一瞬だった。それで、肩が上下するほどになってしまっていた。
「ありゃま。本当かい?」
素直な驚きの声。そして、覗き込んできた。きれいなひと。
きっと今、はしたない顔をしている。視界も頭も、ぼやけているし。
「すごいじゃん、雛。体がちゃんと、できているんだね。今度はご褒美をあげなきゃいけないよ」
唇に、何かが重なった。そして、入ってきた。火照ったものが、またそれで、熱を帯びてきた。
潤ったものを残して、それは離れた。微笑んだ時雨の顔だけが、視界にある。
「これからもずっと、雛の熱で、私を温めておくれ?」
その鈴の音に、思わず頷いてしまっていた。
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「それで」
それをひと通り読み終わった娘の顔は、赤くなっていた。
「これ、出すんですか?」
「うん。やっぱり、夷波唐府とか瑞の話も書きたいしね。叩き台程度だけど、読んで貰いたくってさ」
「最後のあれだけ、余計では。夫人」
「おやまあ。アンリなら、気に入ってくれると思ったのだけれど」
その一言に、アンリはもごもごと口を動かしはじめた。それがいじらしくて、可愛らしかった。
別名義で、極東の島国である夷波唐府などの歴史ものを発表していた。故あって、その名義を閉じることになったのだが、やはり彼の国の歴史や文化には、未だ魅力を感じていたので、新しい名義で発表しようと思っていた。
過去にプロット止まりだったものに、大火の文化史や、いわゆるゾンビなどの死霊術文化を混ぜ込んで再構築した。それだけだと物足りなかったので、これもまた別名義で開拓した、同性愛の要素なども入れてみた結果、なんだか節操が無くなってしまったので、一度整理も兼ねて、アンリに添削をお願いしてみたのだ。
名前などは、とりあえずのものを付けていた。後で直す。いつぞやに知った幾曽馬氏は、今も血が続いているようだし、法師や上人などというのも、夷波唐府の文化に馴染みのないこちらでは、通じにくいだろう。
アンリは修道女だが、激しい情愛の作風を好んでいた。本人はそれを恥じ、懺悔していたが、悪いものだとは思っていなかった。愛のかたちは様々だから、そういうものがあるということを知ってさえいればいい。むしろ、それを拒むことこそ、心と体の健康にはよくないことだと、諭していた。
最後の部分は確かに蛇足だが、アンリへの戒めとお節介として書いたものと言ってもよかった。
「一応、事実や言い伝えを基にしているんだよ?」
アンリの仮住まい。寝台に、並ぶようにして座った。
「彼の国では大火が多いこと。大火の日、実無き罪により殺された僧侶の怨念が、死者を引き連れて蘇るという言い伝えがあること」
その小柄な体。肩に腕を回して、引き寄せる。
「それと」
もう片方の手を、アンリのおなかに添えた。
「体温が高いと、快感を得やすいってこと」
言葉と指の動きに、アンリの体がびくりと跳ねた。思わずで、手を放していた。
あらやだ。このこ、もしかして。
「それが、余計だと言っているんです」
アンリがきつく見据えてきた。その頬が赤いのが、やはり可愛かった。
炎の冠を戴いた、生ける聖人。これもまた、体に熱を宿した、ひとつのかたち。
熱とは、想いを強くするもの。愛も欲もひっくるめた、あらゆる想いを。
「ひとりでやっちゃ駄目だよ?きっと、くせになるから」
笑って、それだけ言い残した。
(おわり)
【人物】
・求時雨:本名、時雨。渡世の女。咲香月と銘した妖刀を携える。
・雛芥子:記憶を失った娘。火と生命にまつわる力を持つ。
・宮野屋喜兵衛:両替商。博徒の元締め。
・伝新蔵:下級役人。
・田介:宮野屋の手下。
・不死火人:怪異。火を纏う、生ける屍。
・日長法師:大火の日、不死火人と共に現れると言われる怪異。
・夫人:拙著“シェラドゥルーガ”の人物。作家。
・アンリ:拙著“シェラドゥルーガ”の人物。夫人の親友。