第8話
食事も終わると、気を利かせてくれた母さんは、父さんを部屋から連れ出し、僕たちを残していってしまった。そこで僕たちはしばらく二人っきりで会話をした。
それはそれで僕はナナちゃんと一緒にいられるようになって嬉しいのだが、こう部屋に二人だけになると何だか恥ずかしくもあり、何を話して良いのか分からなく、気まずくなったりもする。
僕の隣にはナナちゃんが、さっきまで冷ましていたお茶を、温度を確かめるように慎重に口にしていた。取りあえず僕はさっきナナちゃんが語ったことを、当たり障りのない範囲で尋ねてみることにした。
「あの、その…出来ればで構わないけど、ナナちゃんはどんな生活をしていたのか教えてくれないかな?」
ナナちゃんはしばらくの沈黙の後、遠い昔を思い出すかのようにゆっくり話し始めた。
「……あの……それで、私は一人で……いえ、親切な方が私のこと良くしていただいて……勉強とか、食事とか身の回りのことはお世話になって…… あと、お友達も大勢いました。それでみんなと一緒に遊んだり、お話ししたり……」
「友達? それはどんな人たち? それとナナちゃんのことを世話してた人って…」
僕はさらに深く尋ねた。それはナナちゃんのことをもっと知りたかったし、早く記憶を取り戻すことがナナちゃんにとっても良いことだと思ってたからだ。
しかし……ナナちゃんは僕の質問に答えることなく、うつむいたままであった。
それは、何も思い出せないのではなく、あまり話したくない、そういう沈黙であった。
「いや、その、ごめん、ナナちゃん。あの…その……ナナちゃんの記憶が少しでも戻ってくれたらいいな、と思って……その………」
「あの、真一さん!」
ナナちゃんは急に僕の方に顔を向けた。その表情は、どことなく悲しそうで、そして僕に何かを訴えるような眼差しであった。
「私、その……出来ればここに居たいです。ずうっと、いえ、しばらくの間で構わないんです。その、真一さんの所にいさせて下さい…… 私…戻りたく……ないんです……」
ナナちゃんの言葉の最後の方は、ほとんど聞き取れないくらい小さくなっていった。
ここに居たいって…… 僕はナナちゃんの行動に少し喜ぶと共に、また自分がナナちゃんに対して酷いことを言ってしまったと、自責の念で胸が痛んだ。
「変なこと聞いちゃってごめん。その、ナナちゃんさえよければ、いつまでもここにいてもいいんだよ。母さんだってああ言ってるし、父さんだって喜ぶだろうし。ただ、誰かナナちゃんがいなくなって心配する人がいるんじゃないかと思って……」
僕はそこまで言うと、何も言えなくなってしまった。
そして部屋の中は沈黙に包まれ、僕たちの間には何だか気まずい空気が漂い始めた。
何か話さなくては……でも何を言えばいいんだろう……どうすればいいんだろう……
「真一、ちょっと来てくれる?」
そこへ廊下から母さんの声が聞こえ、僕たちの間の沈黙を破った。
「何、母さん?」
僕は救われた感じがして、ひとまずナナちゃんを置いて廊下に出る。
「どうしたの?」
僕は玄関の方で待っていた母さんの所に行くと、そう尋ねた。
「今日はどうするの? どこか二人で出かけたりしないの?」
「えっ?」
僕は母さんの質問を理解するのに数秒かかった。
二人で出かける? 僕と…ナナちゃんと……なんで?
「ナナちゃんの着るものがないのよ。ほら、下着とか買ってこないと」
「えっ、あっ、そうか。そうだね」
そう言えば、ナナちゃんは未だに寝間着姿だ。服は母さんのを借りてもいいとして、下着とかは……その、仮にも僕の憧れの人に実の母親のものを着させるというのも、どうかと思う。
でもそうなると、その……ナナちゃんとのデートというか……買い物で、ナナちゃんの服はともかく、下着とかを一緒に買ったりするの? 一緒に外出するだけで緊張するというのに……なんかそんな場面を想像しただけで恥ずかしくなってきた。
「はい、これで二人一緒に遊びに行ってきたら?」
そう言うと母さんは一万円札二枚を僕にの目の前に差し出した。
服だけでこんなに必要なはずはない。母さんは服を見に行くという名目で、デートにでも行って来いと言っているのだろうか?
「いやぁ~でも、なんかさぁ~」
なんだか親のお金でデートというのも気がひけるし、何よりまだ心の準備が出来ていない。こういうのは、何日も前から計画して、どこに行くか、何をするか、等をきっちりと決めてからするものじゃないのだろうか? 僕には女の子と二人っきりで外出なんて、初めての経験なので良くは分からないが……
煮え切らない様子の僕に、母さんは半ば強引にお札を渡してくると、
「それじゃあ、頑張ってくるのよ」
といってガッツポーズをして見せた。
そんな訳で、取りあえず僕は時間もないので簡単に準備をした。普段着に上着を羽織って、財布と携帯を手にする。ナナちゃんはというと、母さんのブラウスに淡い紫のカーデガンをまとっている。そして足先までスッポリと覆われるほどのクリーム色のロングスカートをはいている。これは僕が無理を言って、母さんに押入から引っ張り出してきてもらった物だ。こうしておけば、普通にしていてもナナちゃんの正体を隠すことが出来る。更に防寒用、というより何かあったときにとっさに足下を隠すことが出来るように、チェックのストールを膝の上に掛けている。こうしておけば外出しても大丈夫だろう。
ナナちゃんは着替え終わって、恥ずかしそうに、そしてちょっと嬉しそうにしていた。
しかし車椅子に乗ってこんな格好をしているナナちゃんを見ていると、何だか病弱で薄幸な少女に見えてくる。その真っ白な肌と、スラッとした体、黒く垂れ下がった髪の毛が、更にナナちゃんをそう見せる。これで髪の毛を編んだりしたら、たぶん完璧になるだろう。でももしかしたら本当に体は弱いのかもしれない。それに本当に恵まれない生活を送っていたのかもしれない。
不謹慎ではあるがそう思えば思うほど、僕はナナちゃんのことを愛おしく思ってしまうのだった。
「あ、あの……どうかしましたか?」
僕がナナちゃんを見ながら、あれこれと想像していたのを、ナナちゃんが心配して声を掛けてきた。
「その……私、どこか……変でしょうか?」
ナナちゃんは自分の姿を気にして恥ずかしく思ったのか、その様に僕に尋ねてきた。
「あ、いや、全然どこも変じゃないよ。とっても似合ってるよ。……あの、それじゃあ、そろそろ行こうか」
「はい」
ナナちゃんは嬉しそうに、元気良く返事をした。
そう言えば昨晩、僕はナナちゃんに対して今日どこかへ連れて行く約束をしていたんだっけ。もしかしたらナナちゃんは、今までその事を楽しみにしていたのかもしれない。
僕は今頃になってその事を思いだし、ナナちゃんに対して申し訳ない気持ちになった。
よし、今日はナナちゃんにいっぱい楽しんでもらおう。……と言うよりも僕自身ナナちゃんとどこかへ行けるのが、何だか楽しくてしょうがない。そうだよ、ナナちゃんだけでなく、ナナちゃんと僕との二人にとっての楽しい日にしよう。いろんな所へ行って、いろんな事を話して、いろんなものを見て、そうやって二人だけの時間を過ごして……
そう考えるとつい僕の顔は喜びのあまりゆるんでしまう。
「それじゃあ行って来ます」
僕はナナちゃんが乗った車椅子を押しながら玄関を出ようとする。
「行ってらっしゃい。気を付けて行くんですよ。ナナちゃんもね」
「はい、行って参ります」
僕は玄関で手を振って見送る母さんを後目に、ナナちゃんと一緒に外の世界に出た。